1 至高の羨望
夢のような世界だ。ほら、なんにも、そこにはなくてさ。ただ、棒人間がゲームで闘っている。それを生きるか死ぬかに出来るなんて人間の科学は進歩したものだ。お陰でボクも、親の名前なんていざ知らずさ。親から生まれたのかすらわからない。ただ僕の脳に載せられているモノはこのGROWUPというゲームをするに最適な演算能力と、単純な感情だけだ。それだけあれば、後は食っちゃ寝するだけで僕のやるべきことはもうないんだ。なんて夢のような世界なんだろう…。
この夢のような世界は、『小久保科学研究所』というところである。愛知県のどこかにあるのだが、その実態を明らかにしていない謎めいた研究所である。そこには二人の人間がいた。一人は本物の人間、小久保 麻衣。もう一人は実験体、益戸。この研究所で何をやっているかというと、PCゲーム「GROWUP」の運営&アップデートと、その一位となるべく生み出された益戸、プレイヤーネームをmustという、の経過観察である。
小久保は、昨日の疲れがとれてなさそうに目を擦りながら睡眠中の益戸を起こした。もう雀も鳴く夏の朝5時である。
「益戸、起きろ。」
益戸は目を覚ました。案外朝は強いらしい。こういうモノも研究対象だ。不具合などがあれば、改良しなければならない。益戸をキラキラした目で見つめる研究者は必死だった。
「目が覚めたか…。起こしてすまない。いつもの起床時刻は6時だから少しつらかったろう」
「僕は早起きも大丈夫だよ」
そっけなく益戸は答えた。簡単なAIしか搭載されていないため、彼の受け答えは派生系がなかった。虚しい会話をしているのは目に見えてわかるが、それも当たり前のこととして受け止めている。
小久保は半覚醒状態のふらふらした体で、コーヒーを淹れに行った。カフェインがないと彼女は目覚めることができなかった。疲れきっていてもクレームに真摯に対応する必要がある。たった一人しか運営がいないから、交代ができないのだ。ましてや研究段階の益戸を受け答えに使う、そんなことは死んでもできないのだった。
益戸は朝食であるパンを食べた。ロボットではないので、駆動させるには栄養が必要である。多忙さゆえ自らの体もまともに護ることのできない小久保でも、益戸にご飯はしっかり食べさせてあげることにしている。研究するのに100パーセントの力が出なければ意味がないからだ。
小久保は益戸の成長が見たくて、昨日の飲み会の話をした。
「昨日は旨かったぞ、焼き鳥。御小西のやつ物凄い勢いで呑みまくってさぁ、でろんでろんなんだよ。それで帰らせるのに朝までかかった。あぁ、参った参った」
「それは残念だったね」
また、そっけない返事が返ってきた。頭でわかっていても、実際にそう言われると悲しくなってくる。でも、誰にも解られず迫害されるより、機械的な返事が返ってきた方が幾分かマシだった。
小久保はデスクワークを始めた。最近疲れすぎているからかまともにディスプレイが見えない。ぐらぐらとうねるように文字の羅列が見える。一度倒れてしまい、サーバーダウンを起こしてしまう大惨事があったので、最近はクレームを自粛してくれる人が増えたもののそれでも一人にしてはあまりに莫大な量のワークを管轄している。明らかにこれが社員であれば、労働基準法違反だ。
小久保は膨大な量の作業を終え、ベッドに横になった。若い頃なら自慰くらいはしてただろうが、オバサンになった今、そんなことをしているだけの体力はなく、ただ昏睡するだけであった。夢の世界に誘われ、とても深いノンレム睡眠を楽しむ乙女の寝顔がそこにはあった。このままずっと寝ているのではないか、そんなほど彼女は窶れていた。
その間益戸は、ネット対戦をずっと行っていた。GROWUP専用の人工脳なので、それをしなければ意味がない。勝率は揺るぎなく100パーセント。今は一位だけれど、昔は数敗程度したことがある。でもそれはAIが確立されていない、益戸誕生の瞬間くらいの話だ。
夜になって、小久保が起きてきた。今度の顔は疲れが吹き飛び、キラキラしていた。なぜか睡眠というものは人間の心情まで変化させてしまうらしい。さっきまでイライラしてた心が、どうしてか優しい、柔和な気分になっている。
小久保は食事の買い出しに向かおうとバイクに跨がり、エンジンをふかせた。まるでそれは、澄み切った空間を爆音で彩る、暴走族のようだった。無造作に置かれた夜桜を眺めながら、彼女はその美しさを羨望した。
家に帰り、益戸に炒飯を作ってやった。自分で食べてみたが、普段通り美味しかった。
小久保は風呂に入った。一日のうちで最も極楽浄土に近いのがここである。風呂なら誰にもとがめられることはない。130cmと大人にしては低すぎる身長も、黒すぎるクマも、フラットな体つきも、たった一人なら普通に変わる。世間体を気にしなくてよいと言うのはすばらしいものだ。普通に生きていると小学生と勘違いされたり、ましてや御小西と並べば親子料金になったり、彼女はそんなことがコンプレックスだったのだ。
彼女は自分の体格上、子供を産むことが難しいとわかっていた。男性も彼女のやつれた顔を見て必ずと言ってもよいほど遠ざかる。女性たちはそんな彼女を見て自分の自信をさらに強くする。そんな自分に、彼女は虚無感を覚えていた。
大学課程が終わり、社会人となるが、ひとりぼっちはそれでも変わることはなかった。身長が低いから誰にも構ってもらえず、またそれによるストレスで業績不振、遂には解雇されてしまった。もう三十路。普通の女の子なら結婚しててもおかしくない年である。ずっと踏みにじられた女にはダーリンはおろか仲間すらいなかった。
解雇された小久保は今まで貯めたお金を食い潰しながら生活していた。私も子供が欲しいと思いながら。すると、ある案が浮かんだ。子供が産めないなら造ればいいじゃない、と。小さくボロボロだったおばさんは子供を造ることを考えた。そしてできた個体が、最愛の息子、益戸である。
風呂から上がると、御小西からの不在着信があった。御小西以外は自分の携帯にかける人がいないので、本当は電話帳など登録しなくてもよいのだが、一応誤認防止のため登録してある。
繋がった。間違いなく、御小西の声だ。
「もしもーし。お、小久保か。この前の焼き鳥、旨かったぞ。ところでお前、ちょっとランキング開いてくれないか?それで、4位のところ見て欲しいんだが」
ランキングとはGROWUPのゲームの戦績のようなものである。これはプレイヤーにも公開されている。自分で見ろ、と思ったがよほど外せない用事でもあったのだろう。
「4位ね~…。あった。夜死期って人だね…。それがどうかしたの?」
「よし、そいつと益戸を対戦させろ。出力は30%でいい。あとチャットはお前が入力しろ」
「わかったよ~。ところでこの人誰?」
電話の先で、少し唾を飲む音がした。そして、大きく息を吸い、御小西は小さな声で喋った。
「美雪の息子だ。今年、私の学校に入学してきた。あいついつもホームルームのあと、一目散に家に逃げるように帰るんだよ。だからなかなか呼び止められなくて。それに職員室で教師がゲームの話してるってのもなんかダメだろ?だから、ちょいとばかしきっかけ作りとして協力してくれ。頼むよ」
「わかった。私も佳樹くんにもう一度会いたいなぁ」
小久保は電話を切り、言われた通りチャットをうち始めた。これが、GROWUPERとしての佳樹との最初の出会いだった。
また、朝がきた。彼のプレイングは中々のもので、出力30%とはいえど特化設計されたロボット擬きに打ち勝つなんてさすがなものだ。また、御小西に少しだけ嫉妬してしまったような気がする。今度は子供じゃなくて、男が欲しくなってしまったようだ。絵空事をグシャグシャにしてゴミ箱に捨てたら、またいつもの一日が始まるけど、今日だけは額縁に入れて飾りたい、そんな詩的なことを思い浮かべて、益戸のご飯を作りに行った。