7片目
喉の奥からきゅっと、普通では出ないような音が聞こえた。
心拍数が跳ね上がり、季節感を無視した背中に流れる冷たい汗が俺の思考回路を麻痺させていく。
緊張、とも違う。身体の表面は冷たく、しかし身体の奥底から湧き上がる熱いモノが、俺の視界を狭め、思考を狭め。
このとき、視線の先に見える少女だけが俺の世界の全てを満たしている、そんな自惚れた感覚があった。
少女は自動ドアを抜けると、まるで全身に伝わる振動や音を取り込むかのように、一度大きく伸びをした。そして真っ直ぐ、脇目も振らずにこちらへ―――正確にはクレーンゲームコーナーへ―――ゆっくり歩いてきた。
「……あれ?あれぇ~、これはこれはいつぞやの!こんちは!」
少女が俺の存在に気が付くのは存外早かった。いや、進行方向に自分をじっと見つめる男がいるのだから、気が付かない方が不自然か。
少女の表情は以前見たときと変わらぬ、眩しい笑顔だった。心底楽しい、そんな気持ちを如実に表しているかの様な顔だ。この場合、知った顔が見えたから、だとしても、ここまで明るい表情にはならないだろうと思わせられた。
「……こんにちは」
緊張していた喉からは、ごく自然な声がこぼれてくれた。それだけでほっと安堵する自分がいた。
「2度目ましてだね。もしかして常連さん?」
「いえ、以前はそれなりに通ってましたけど、最近は足が遠退いてましたよ」
君に会いに来たんだ、等と口が裂けようとも言えるはずがない。かと言ってここで真実を告げるにしてはタイミングが悪すぎる。
ふと、俺はちらりと目線だけを周囲に流した。
気が付けばスタッフのお姉さんは何事も無かったかのように、受け付けに戻っていた。俺の隣にいれば、この目の前の少女に不審がられてしまう可能性が高い。お姉さんの行動はベストだろう。しかし計画的にはベストでも、俺の心的負担からするとバッドであると言わざるをえない。いや、端から頼り全開にするわけではなかったが、なんと言うか……要するに、心の準備ができていなかった。
「でも今は来てるんだね。懐かしくなったからかな、それとも気の迷い……ってこれは失礼だったね、あはは。
……ところで、ここに来てるってことは、やっぱりまた前みたく景品獲りに来た、んだよね?」
ふと、少女の言葉に違和感があった。
「まぁ、そうですね。クレーンゲームの筐体を前に財布広げて、景品を獲る気はないって言ってもねぇ」
「あはは、確かに。言葉に重みゼロだね」
話しながらも、少女の視線は時折俺の背後の筐体へちらりちらり。
そこで漸く、彼女が挑戦しようと思っている筐体が、俺が今の今まで苦戦していた筐体であるのだと気が付いた。
既に野口さん3人分は飲み込んだであろう筐体。
プライズは前回同様ゆるキャラ「セチア」のフィギュア。しかし前回取った物とはポーズが違う。パッケージを見ると「ティータイム」の文字が書かれているのを見ると、セチアがお茶を飲んでいるフィギュアなのだろう。というか、またセチアか。
「……このセチアってキャラクター、好きなんですか?」
「えっ……!?」
何気なく聞いた質問だったが、予想に反して少女は大きな反応を示した。
俯き、視線を泳がせ、何やらもごもごと口を動かす。
もしかしてNGな部分に触れてしまったのだろうか。
しかし以前同じような話題を出したときは、そこまで特別な反応は無かったはずだが……。
「……好き、だよ。好き。とっても好きなの」
顔を上げた少女の目を見たとき、俺の心臓は先程とはまた違った拍動を起こした。
真剣そのものの黒真珠の瞳の奥に見える感情を、果たして何と称すれば良いのか。
俺はこのとき、それまで考えていた今回の計画、目的が、とても少女にとって失礼極まりないものであると悟った。
少女がこのフィギュアを獲るのは、ただの娯楽ではない、そんな強い想いが宿っているような気がした。
俺が何も言えないでいることで我に返ったのか、少女は不意にはっとした表情を浮かべ、そしてすぐに破顔した。
「前にも話したけど、可愛いでしょ、セチア。あたし、兄弟姉妹はいないけどさ、こんな可愛い妹がいたら楽しいかなぁ、とか思うんだよね。そんなこと思ったらさ、無性に欲しくなっちゃって。飢えてるのかなぁ……なんちゃって。あはは、面白かったかな、笑ってよ」
終盤は照れ臭そうに、頭を帽子越しにぽりぽりと掻きつつ。
「……俺も、一緒に獲るの、手伝っちゃ駄目ですか?」
「え?」
何の脈略も無く。
どうやって手伝いの進言をするべきか、色々と考えていた。どのタイミングで?どんな言葉で?
そうこうしながら時間があっという間に過ぎ、苦悩している、つもりだった。
しかし少女の本気さを悟ったからか。いや、悟った気がしたからか。
驚くほどにあっさりと、少女への助力の意思を口にしていた。
俺の言葉がまるで他国言語のため理解できなかったかのように、キョトンとした表情で固まってしまっている少女に、俺は場違いにも「可愛いなぁ」という感想を思い浮かべていた。
たっぷり10秒間の沈黙の末、少女はゆっくりと口を開いたかと思うと、そこからは言葉とは違う音がこぼれてきた。
「ほぁ……」
何語だろう。それとも俺には感知できない電波でも飛ばされたのだろうか。
わりかし真面目な心持ちだっただけに、俺の脳はユーモアの方向に思考を持っていってはくれなかった。
何かテンション高く場を盛り上げようとでも考えているのだろうか、少女の瞳はゆらゆらと揺れていた。
俺の気持ちの強さを感じ取ったのか、それとも真面目=面白いと考え付いたのか、少女もまた、キョトンとした表情をゆっくりと、凛としたものへと作り変えていった。
その表情もまた、俺の心臓を1つ、大きく拍動させた。
「予想外」
ぽつりと、少女は呟いた。
「予想外って、何が?」
「そんなこと言ってくること。まだ会って計30分も経ってないけどさ、君のことだから、きっとあたしから距離を置いてくれるかなぁ、なんて勝手に思ってたんだ」
俺は少女の言葉に、一瞬絶望を感じた。
「それは、拒絶、と受け取って正解、ということですか?」
俺の方から距離を置く、すなわち少女とは会わないようにするということだ。
やはり、俺では力不足だったのだろうか。
「あ、違う違う!拒絶って言うか、別にどっか行っちゃえー、なんて思ってないよ!うん、ホントに!ただ……」
そこで1つ区切り―――
「……うぅん、何でも無い」
ニッコリと、優しい微笑みを浮かべた。
「えっとね、本当に君を拒絶するような気持ちなんて無くて。えっと……ぅぅ……」
と、思いきや、今度はヒドく困ったように眉根を下げてしまう。
そんな、コロコロと表情の変わる少女に、俺は思わず吹き出してしまった。
「あ、何でそこで笑っちゃうのさ!?」
「いえ、我慢できなかったので」
「相変わらず君は、あたしの思い通りに笑ってはくれないね」
「十分笑って、もとい笑わせてもらってますが」
「うぅ~っ、タイミングが違うんだよぉ!」
両手をパタパタと上下させながら、怒り(?)の表情で抗議の姿勢を見せてくるも、やはりそんな言動もとても可愛く思え、自然と笑みが溢れてきてしまう。
普通ならアニメか漫画でしか見たことのないようなそんな少女の仕草、見たら不快感を催すところだが、不思議と俺は穏やかな気持ちになれていた。
「そ、そんなに面白い?」
笑いの規模が大きくなってきた俺に、少女は戸惑いに近い表情を浮かべる。
本当に、表情豊かな人だ。
そして、そんな色々な表情を見ていると、俺もまた色々な感情が湧いてくる。温かく、居心地の良さを感じる。
「面白いと言うより、楽しいと言った方が正しいかもしれないですね」
「楽しい?面白い?う~ん、何が違うの?」
「何って……そう言われてみると、何が違うんでしょう?」
「哲学的だね!」
「いや、それは……。哲学嘗めすぎでしょう」
「そうかなぁ。『面白い』とか『楽しい』とか、人それぞれなわけだし。皆が皆同じもの見たり聞いたりして同じ気持ちになるわけじゃないんだよ?なら、『面白い』と『楽しい』の違いを知るのも、きっと哲学だよ!」
「……言ってて、こじつけかなって思ってきてません?」
「うん、そろそろ止めてほしかったりしてる、なんて」
あはは、と笑い、少女は自分の肩に掛けているクリーム色の鞄の中から以前見たピンクの可愛らしい財布を取り出した。
その財布をじっと見、そしてゆっくりと視線を俺へと向けてくる。
「もし良かったら、さ。一緒に、やりませんか?」
上目遣いで。
可愛い。
「こちらこそ、一緒にやろうかなって思ってました」
想定とは違うものの、結果的に少女に助力するという計画の第1段階はクリアできたのだった。
ほっとする気持ちが僅かにある中で、この後プライズが獲れるか獲れないかは別として、少女に笑顔でいてもらう方法は何かないか。
そんなことを無意識に考えている俺がいた。