プロローグ
こんな体験をしたことがないだろうか。
例えば大切な存在が亡くなったとき、自分はその存在のことを大切故に好いていたはずなのに、いざとなると涙が流れなかったことが。
その場の状況とかそれまでの過程は色々だとは思うが、少なくとも、俺にはそんな経験がある。
我が家の愛犬が亡くなった。
早生まれの俺が17歳、高校2年生の冬だった。
病魔に蝕まれ、日に日に衰弱していく愛犬は、その日に限って朝から元気な姿を家族の前に見せてくれた。病のせいで腐りかけた左前足を浮かせながらひょこひょこと歩くその様は、おそらく一瞬病のことを忘れさせるには十分過ぎるインパクトがあった。
愛犬が息を引き取ったのは、それから1時間と経っていなかっただろう。
部屋にこもっていた俺の耳に、突然母の悲鳴にも似た叫びが飛び込んできた。それに次いで、愛犬の名前を繰り返し呼ぶ声。
俺は完全に察した。と同時に部屋を飛び出し、声のするリビングへ行き、その現状を目の当たりにした。
熱風を吐き出す石油ストーブの前、長い舌をだらりと垂らしながらぴくりとも動かない愛犬。茶と白の毛に覆われているはずのその体がとても色褪せて見え、これが生気が無いという状況か、などと場違いな思考を巡らせた記憶がある。
そんな愛犬を抱えて泣き叫ぶ父さんと母さん、少し遠巻きにその様子をじっと押し黙ったまま眺める兄。兄の表情にも悲哀が浮かんでいたが、彼の性格上、弱い姿を見せたくないという感情が涙を塞き止めていたのだろう。
再度愛犬の姿を確認した。口元からは少量の吐瀉物が零れ、色を失った瞳と閉じきらない瞼。2度と動くことのない体、命。
父さんが朝の様子を涙混じりに語った。実に数日振りに見る愛犬の歩く姿は、最期に自分たちに見せてくれた勇姿であったのだと。その言葉に、更に母さんの声が大きくなった。
狡いな、と俺は思った。
普段は毅然とした態度で在る親が、こんなときに率先して泣くなんて、と。これでは泣くに泣けない―――
そこまで考え、気づいてしまった。
俺は泣いていない。それどころか、ほとんど悲しんでいない。
悲しいはずだ。この愛犬は俺が小学6年生のとき、誕生日にと俺と兄がねだって家に来たのだ。確かに受験勉強だとか部活動だとかで世話を怠ることはあったかもしれないが、決して愛想が尽きたことはないし、むしろ一種の心の拠り所としての存在であったと断言できる。
しかし泣けない。目頭が熱くならないし、鼻の奥がツンとした痛みに苛まれることもない。むしろ父さんと母さんの泣き声に、どんどん心が冷めていく気すらしてくる。
俺は、こんなにも冷酷なやつだったのか。そう思うと、僅かに悲しい気持ちになれた。しかしこれは愛犬の死からは程遠い悲しみだ。涙の流れぬ悲しみだ。愛犬のためではない、俺のための悲しみだ。
俺は大切な存在の死を前に、涙を流し、悲しむことができなかった。
この出来事は、恥ずかしながらこの先数年間抱え込む悩みともなった。いや、悩みなんて大層なものではないだろう。小さなわだかまりと言うべきか。
何はともあれ、俺にとってのこの問題は、とある出来事により解決することになった。解決、とは少しずれているかもしれないが。
これから話す話はあまり面白い話ではないだろう。むしろつまらない。1人の男の体験談をただだらだらと話すだけなのだから。それでも聞いてみたいと思う酔狂な人が1人でもいるのなら、話してみたいと思う。
この話は愛犬が亡くなり3年後。春にしては暑すぎ、夏にしては早すぎる5月も半ばを過ぎた頃から始まる――――――