朝は平穏
「っ……」
ふと、頭の中に意識が戻ってくる。まだ半分寝ぼけた脳に抗いながらゆっくりと目を開け、無意識に時計があった方向へと視線を飛ばす。
「…………九時、か」
時計の針がさす時刻を口に出して言う。
九時。昨日寝たのが約十一時くらいだったろうから、あれから十時間近く寝ていたことになる。
「思ったより長いこと眠ってしまったようだな……ん? いや待て、九時だと!?」
急激に頭が覚醒してくるのを感じながら、李は驚いて体を起こした。
昨日の話し合いでは三時間ほど寝たら見張りと交代する取り決めになっていたのに、三時間どころか十時間経過しているだと! 誰も俺のことを起こそうとしなかったのか、いやそれ以上に他の奴らはちゃんと無事なんだろうな。
慌てて医務室の中を見回す。
隠し扉があった場所は昨日と変わらず棚でふさがれたままであったが、本来の出入り口となる扉の前からはバリケードがわりにおいておいたベッドが移動され、出入りが自由にできるようになっていた。さらに、部屋の中には隅っこでいびきをかきながら寝ている波布と、ベッドにもたれかかって寝ている(?)速見の姿しかなく、女性陣の姿が一人も見当たらなかった。
「まさかオオカミ使いにさらわれたのか……。いや、わざわざさらう必要が無いし、俺が無事なのも……」
今の状況を理解しようと考えたことを口に出しながらぶつぶつと呟いていると、ベッドにもたれていた速見が突然伸びをして李を見てきた。
「李さん起きたんですね。おはようございます」
「……呑気に挨拶してる場合じゃない。いつの間にか女どもが全員いなくなってる。オオカミ使いにさらわれた可能性がある」
李の切迫した声に対し、速見はなんてことでもないというように、のんびり立ち上がりながら答え返す。
「女性陣は先ほど、全員でお風呂に向かいましたよ」
「は? 風呂に行っただと?」
「はい。やっぱりお風呂入らないと気持ち悪いから入ってくると。まあ女性ですし仕方ないですよね」
「……今がどんな状況か分かったうえでそんなことを言ってるのか。それに、お前は止めなかったのか。風呂に行くなんて無防備もいいところ、殺してくださいと言ってるのも同然だぞ」
理解できないと言った表情で速見を見返す。速見はばつが悪そうに頭を掻きながら、李から目をそらして言い訳した。
「勿論僕も止めようとしたんですけど。すでに一回失敗してしまっているのであまり強くは言えなかったし、何より望月さんに論破されてしまって」
「望月? ああ、あの若干頭悪そうなオシャレ女のことか」
「なんだか微妙な印象ですね……。僕としては、モデルのようなすごく綺麗なお姉さんと言った感じなんですが」
「別にそんなことはどうでもいいだろ。それより、そこで阿保面をさらしながら寝ている波布を起こして、俺たちも風呂場に向かうぞ」
「え! もしかして覗きに行くんですか!」
「そんなわけないだろ。あいつらだけじゃ心配だから様子を見に行くんだよ」
そう言うと、李はベッドから降り、一度大きく伸びをした。肩を何度か回し、特に動きに不自由がないことを確認すると、すたすたと歩き出し波布のもとまで歩いていく。波布は警戒心とは無縁の表情を浮かべ、だらしなく口を開けたまま床に横たわって寝ていた。
李は容赦なくその無防備な腹を踏みつけると、「起きろ」と無慈悲に告げる。
「うぐ。な、なんだ、姉貴か? 頼むから俺の腹を踏んずけて起こすのはやめてくれよ。朝からなんか落ち込んだ気持ちになるからよ」
寝ぼけているのかそんなことを呟きながら、波布が目を覚ます。
ごしごしと腕で目をこすりながらゆっくりと体を起こすと、寝ぼけ眼でボーっと室内を見渡し始める。が、すぐに自分がどこにいるのかを思い出したらしく、慌てた様子で身だしなみを整えた後、恐る恐ると言った表情で自分のことを見つめている二人へと視線を送ってきた。
「……俺なんも変なこと言ってないよな?」
震える口調でそう言った波布を、李は感情のこもっていない冷たい視線で、速見はかわいそうな人を見るような暖かな目で見返した。
気まずい沈黙の後、それぞれ簡単に着替えなどを済ませ、風呂に向かったという女子の元へ三人そろって見に行くことに。
道中波布がしつこく、「これって覗きに行くわけじゃねぇんだよな? あくまであいつらが無事かどうかを確かめに行くだけなんだよな?」という質問を何度も繰り返してきたが、面倒なので答えずに黙殺。
三人は、オオカミ使いや黒子が出てくることを考え、注意しながら地下にある風呂場へと向かって行く。
女子全員が既にオオカミ使いに殺されているという、最悪の状況を考えながら、ゆっくりと地下への階段を下る。が、すぐにその想像は杞憂であることが分かった。死とはかけ離れた、至極元気かつ健康そうな姿で、望月と如月、それに星野までが楽しそうに談笑していたからだ。
彼女たちがすでに風呂から上がってしまっていたことに、波布ががっかりしたような表情を見せる。
李は波布に軽蔑の視線を飛ばした後、普段よりさらに低めた声で彼女たちに尋ねた。
「お前ら、こんなところで何をやっているんだ?」
その場を凍らせるのではないかと思わせるほどの声色に、ぴたりと談笑をやめ、恐る恐るといった表情で女性たちが李を窺いみる。傍目には普段と何も変わっていないように見えるものの、それが逆に彼の怒りを表しているようで凄味が倍増している。
何とか李の怒りを静めようと、おずおずと望月が口を開いた。
「えーと、その、ごめんね李君。李君に一言の断りもなしにお風呂とか入っちゃって」
「別に俺に断りを入れる必要はない。だが、少しは自分の行動が危険かどうか考えてから動くべきだとは思わないか」
絶対零度の視線と声色で、即座に李が言い返す。
李の迫力にビビり、完全に怯えた様子で言葉が出なくなった望月に代わって、如月が口を開いた。
「私達だって何も考え無しにお風呂に入ろうとしたわけじゃないわ。百パーセントではないけれど、それに近い程度オオカミ使いが襲ってこない確信があったからこそ、この行動をとったの」
「オオカミ使いが襲ってこない確信? なんだそれは」
李の視線が望月から如月へと移る。如月は李の視線に動じることなく、淡々と言い返す。
「これを言ったのは私ではなく望月さんなのだけれど……私から説明するわね。昨日のことだけど、私達はそれぞれ眠らされていた部屋に戻って替えの服を取ってきたわよね。その時、箪笥の中には下着を含めてかなりたくさんの服が収納されていたわ。優に数十着以上の服が」
「そうだな。どれもサイズがピッタリだったが、あれらもオオカミ使いから俺たちへの報酬の一つということになるのかもな」
「それから、厨房にあった巨大な冷凍庫に保存されていた大量の食糧。ここに集まった二十四人全員が毎日三食食べたとしても、おそらく一か月は余裕で足りるほどの量があったわ」
如月の言いたいことが伝わったのか、李は眉間にしわを寄せながらも小さく頷いた。
「……そういうことか、お前の言いたいことは分かった。だが、それだって絶対安全である保障にはならない。できるだけ無用なリスクは回避するべきだ」
「この考えが正しいなら、休めるときに休まない人間がオオカミ使いの餌食になりやすいことになるわ。それに、これは結果論になるけれど、オオカミ使いは私たちを襲撃するチャンスを最低でも一回は棒に振っているの。実は昨日の夜、最初に見張りを任された私たちもいつの間にか眠ってしまって、起きたのは朝の七時ごろだったのよ。にもかかわらず、誰一人として殺されていなかった」
「……文句を言いたいが、結果として全員無事である以上言うだけ無駄だろうな」
頭痛がしたのか、頭に手を当てながら李がため息をつく。
「とりあえずお前たちも十分に考えて行動していることは分かった。別に単独行動したわけでもないし、これ以上目くじらを立てるつもりはない。が、その考えを過信しすぎて、くれぐれも油断したりはするなよ」
「もちろん分かってるわ、私だって死にたくはないもの。それで、この後の話なんだけど、私達は厨房に行って何か朝食を作るつもりなのだけれど、あなた達はどうする? 今入って思ったのだけれど、やっぱりお風呂は体を癒すのに最適よ。もしまだオオカミ使いを捕まえる算段がたっていないのなら、湯船につかって少し整理してみたらどうかしら。話し合いはその後に、食事をとりながらリビングでといった感じで」
如月の提案に、李は一瞬頭を悩ませた後、素直に頷いた。
「そうさせてもらう。女三人で行動させるのは少し心配だが、現状オオカミ使いが武装して俺たちの前に現れたら、全員でかかっても敵うかは微妙なところだしな。そっちはお前に任せる」
お互いに軽く頷きあい、男女に分かれて行動を再開する。
今の話し合いを全く理解できていない様子の波布が、目をぱちくりさせながら無言で説明を要求してくるが、いったん無視して医務室に戻るよう二人を促す。
今は風呂に入るために、できるだけの準備をしなければならない。依然オオカミ使いがいつ襲ってくるかわからない状況であることに変わりはないが、一度風呂に入ると決めたからには、余計な心配はするだけ損である。
「質問があるなら風呂に入りながらだ。とりあえず医務室に戻って風呂の準備をするぞ」
李千里、二十歳。実はかなりの風呂好きである。