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再会を約して

作者: 夕風 久樹

 深緑の中で、夏代は首を傾げた。どうして森の中にいるのだろう。さっきまでデパートの中にいたのに。

 辺りを見回しても人の姿はない。お母さん。呼びかけても応えは返ってこない。遠くから聞こえてくる鳥の鳴き声が、よりいっそう静寂を強調して彼女の心細さを煽った。迷子の少女は涙ぐみ、母を、誰かを探して森の中を歩き出した。

 そしてすぐに、その木を見つけた。遠目でも分かるそれは、柔らかな金色の光を放っていた。近づいた彼女はその美しさに息を呑む。御伽噺のような、美しい姿。木が光っているというよりも、光が木の形を模しているかのような、不思議な木。無意識のうちに手が幹へと伸びていた。

 そして彼女は、光に触れた。


 紀一は夕闇の中を走っていた。頭の中は怒りと悲しみで一杯だった。発端は些細な言い争い。感情に任せて家を飛び出して、ただ遠くを目指していた。

 ただひたすらに走り続けてしばらく経った頃、彼は辺りには木々が生い茂っていることに気づいた。驚いて立ち止まる。家の近くに森なんてなかったのに。

 思ったより遠くまで来てしまったのかもしれない。慌てて彼は後ろを向くが、その先にも森が広がっていた。果ては見えない。いくら目を凝らしても、高層ビルの群れは影も形もなかった。いつの間にか知らない森の、それも奥深くまで迷い込んでいたらしい。彼は一気に不安になった。それでも意地というものがある。泣いて帰るなんてまっぴら御免だ。前を向き直した彼はそのまま歩き出した。

 光の木に心を奪われて手を伸ばすのは、その少し後のことだ。かくして彼は、光に触れた。



 その日、子どもが二人、行方不明になった。



     ◇



「カヨ」

 名前を呼ぶ声に、夏代はゆっくりと振り向いた。顔を見なくても声の主は分かる。予想通り、その先には一人の青年が立っていた。

「ここにいたんだ」

「キイチくん」

 同い年の夏代の友人だ。いや、友人のような『家族』だ。微笑む夏代とは対照的に、紀一はどこか複雑そうな顔をしていた。

「どうしたの?」

「父さんが呼んでた」

「分かった、行ってくるね。伝言ありがとう」

 軽く手を振ると、夏代は紀一に背を向けて家へと歩き出した。その後ろ姿に紀一は何やら口を開いたが、少し逡巡し、結局何も言わずに見送った。


 しばらくたって戻ってきた夏代は浮かない顔をしていた。しかし、その場にまだ紀一がいることに気付くと目を丸くし、いつものように微笑みを浮かべた。

「びっくりした。もしかして、待っててくれた?」

「……」

 紀一は答えない。一度彼女を見遣ると、また視線を元に戻した。その先にあるのは一本の大樹。柔らかな光に包まれた、まるで光が木を象っているかのような不思議な木。二人にとっての、終わりと始まりの木。

「父さん」

「え?」

「父さん、何て?」

 顔を背けたまま問いを投げかける紀一に、夏代は黙って紀一の隣に並んだ。視線はまっすぐ、木だけを向いている。

「たいしたことじゃないよ。宴会に出す食事は何がいいか、とか、そんな感じの。あと、思い残しの無いように、って」

「……」

 夏代は笑いながら答える。その言葉に紀一は唇を噛み締めた。

「キイチくん、寂しい?」

 その様子を察した夏代がからかうように尋ねる。紀一は思わず彼女の顔を見た。いつも通りの微笑みに、珍しく茶目っ気が透けて見える。しかし彼の目には、そのさらに奥が見えていた。それを見てしまった彼は、ついに堪えることが出来なくなった。

「寂しいのは俺じゃなくてお前だろ。無理してまで笑うなよ」

 二人の視線がぶつかる。紀一は折れないと悟った夏代は、すぐに溜息を落とした。

「……やっぱり、キイチくんは誤魔化せないね」

「強がるなよ、らしくない。……帰りたくないのか?」

「そういうわけじゃないよ。お母さんにもお父さんにも会いたい。友達にも。でも」

 夏代はそっと右手を伸ばす。木の光に触れるか触れないか、ギリギリの距離。

「十年は、怖いよ」

 それを言われると、紀一にはかける言葉がなくなる。彼だって怖いのだ。

「禁忌に触れて……帰れなくなって、十年。早いものだよね。でも決して短い時間じゃない。みんな私のこと、忘れているかもしれない。死んだと思われていたら? そう考えたら、どうしたって怖い。怖いよ。怖くないの?」

「……怖いさ」

 十年前、二人はこの森に迷い込み、光の木に触れてしまった。その瞬間、彼らは此方の住民になった。そして戻れなくなったのだ。

 森の中には集落があり、ある家族が行き場のない二人を引き取った。実の子と同じだけの愛情をもって幼い二人を育ててくれた彼らを想い、夏代は俯く。

「……それに、母さんも父さんも、姉さんも。血の繋がりはないけど、私のもう一つの家族だから。離れたくないし……忘れたく、ない」

 此方の住民は、彼方から来て光に触れた者を鬼と呼ぶ。光に触れた罰で元の世界に帰れなくなった、愚かで哀れな鬼と。

 鬼は彼方に帰ることが出来ない。しかし子どもには機会が与えられる。一定の年になった鬼の子は自動的に彼方の世界に帰されるのだ。ただし、此方で得た記憶はすべて失って。

 罰の終わりは十五歳。この森における成人の年の、誕生日。残るという選択も、保留という選択も許されない。その時がきたら、二人はすべて忘れて元の世界に帰るしかないのだ。

「……キイチくんのことだって忘れちゃうんだよ。町ですれ違ってもお互い分からなくなるなんて、そんなのイヤだよ」

 夏代は伸ばした右手を握りしめた。このまま光に触れてしまえば。いくら子どもでも、二度目は許されない。何が起きるのかはわからないけど、すべて忘れてしまうのとどちらがよりつらいだろう?

 一瞬脳裏をよぎった馬鹿な考えは、紀一の腕によって止められた。

「やめろよ」

 夏代の腕を掴むその手も、声も、微かに震えていた。

「俺だってこっちで起きたこと会った人、何もかも忘れたくないよ。だから信じてる。お前も信じろ」

「信じるって、何を?」

「奇跡が起きるって。奇跡が起きて、二人とも何も忘れずに、あっちで再会できるって」

 真面目腐った言い方に、夏代はきょとんとし、口元を緩めた。

「欲張りだね」

「何でだよ。今まで帰った人が誰一人戻って来なかったってだけで、こっちに帰って来られなかったってだけの、忘れてない人も多いかもしれないじゃないか。忘れるって言ってるのはこっちで生まれ育った大人だけなんだ。大人の言ってることは俺達には関係ない」

「……キイチくんは、強いなぁ」

 真顔のままキッパリと言い切る紀一を見て、夏代は眩しそうに目を細めて笑う。強がりの笑顔。しかし、さっきまでのようなただ覆い隠す強がりではない。彼のように強くなるための、未来を信じるための強がりだ。

 夏代の心情の変化を敏感に察した紀一は、安堵の笑みとともに掴んだままの手を離した。夏代も素直に腕を下ろす。

「あと三日だろ?」

「あと三日だよ」

「ならその三日で、まず俺の住所覚えてもらうぞ」

「二か月後に探しに行けばいいんだね」

「ああ」

 夏代は力強く頷いた。

「任せて」



 それからの三日はあっという間に過ぎ去った。二人は互いの住所や連絡先を覚え直し、それ以外の時間を友達やここでの家族と過ごした。

 彼方に帰る時に失うのは記憶だけではない。走り書き一つとして持ち越せない『決まり』がある。誰が決めたのかは知らないが、絶対の法則だという。過去に彼方に帰る鬼の子が手紙を持って行こうとしたところ、それだけがその場に残されたという。当然通常の衣類も持ち出せないが、特殊な素材と特殊な方法で縫われた服だけは森を越えることができる。

 ブラウスとスカートに仕立て上げられた服は、薄い桜と砂の色。夏代の好きな色だった。

「誕生日おめでとう、カヨ」

「ありがとう、お婆ちゃん」

 誕生日当日の朝、顔役の一人である老女から服を受け取った夏代は、すぐに袖を通した。

「よく似合うわ、カヨ」

 十年間実の子と同じように夏代を育てた女性は、喜びと悲しみが綯い混ざった様子で、目を眇めて微笑むと夏代を抱きしめた。

「あなたが忘れても、あなたは私の娘よ。ずっとあなたの幸せを祈ってる」

「ありがとう、母さん。でもまだ朝だよ、早いよ」

 母の背中を抱きしめ返しながら夏代は苦笑する。彼方に帰されるのは日が完全に沈んだ後、木の光が一番強くなる夜の始めだ。午前中は集落の人達にお別れを済ませて回らないといけない。

「……じゃ、みんなに挨拶してくるね」

「そうね……。昼の宴会に遅れないようにね」

「うん。行ってきます」


 特性の服に身を包んだまま、彼女は集落の端から端までをゆっくりと歩いていく。一人一人に感謝を伝えて回るうちに、日は高く上っていた。一人を除く全員に挨拶を済ませ、彼女は一度家に向かう。最後の一人はそこで待っていた。

「お疲れ」

「うん」

 それだけ言葉を交わすと、二人は並んで集会場へと向かった。


 朝、挨拶のために一度訪れた時は準備中だった集会場も、二人が着く頃にはすっかり宴会の支度が整っていた。

 鬼の子にとって大切な日である十五歳の誕生日は、集落にとっても大切な日だ。昼から夕方まで続く宴会は、子どもの成長を祝う誕生会に加えて、二度と帰らぬ子どもを見送る送別会の意味を持つ。それはどこか通夜にも似ていた。

 二人の到着と同時に宴は始まった。夏代は改めてみんなに挨拶をし、自ら乾杯の音頭をとった。いくつもの大皿に料理が盛られ、彼らは日暮れまで食べ、飲み、語らった。

 空が茜色に染まると宴会も終わる。そこから先は家族の時間だ。帰宅した夏代達は、限られた時間で過去を偲び、未来を祈った。

 夏代は最後まで、忘れないから、とは言わなかった。言葉にすると信じられなくなる気がしたのだ。すぐに紀一のように強くなれるわけではない。だけど、決して涙は見せなかった。ただ、真っ直ぐな目で微笑むだけだった。


 そして、そのときは来た。

 夕焼けは残滓すらなく、黒い空を彩る無数の星々と細い月、そして光の木だけが静かな森を照らしていた。

 もう時間はない。いつ帰還が行われるのか、詳しい時間は誰も知り得ない。夏代は立ち上がり、口を開いた。

「ずっと、ありがとう」

 家族の誰もが口を挟まず耳を澄ませる。少しでも多く、彼女の言葉を聞くために。

「私ね、母さんも父さんも、姉さんもキイチくんも……みんなのことが、大好き」

 自分もだよ、という思いを込めて彼らは頷く。

「……行ってきます」

 少しのためらいの後、彼女はそう言った。

「行ってきます」

 紀一以外の驚いた顔に向かってもう一度、今度ははっきりと言うと、家族も笑った。

「行ってらっしゃい」

 それを聞いた彼女は満足げに家を出た。行ってきますと言ったのだ。ただいまを言うために、玄関の外で消えたかった。家族だってそうだ。おかえりなさいを言うために、家の中で帰りを待つ。いつものように。行ってらっしゃいはもう伝えたのだから。ただ一人、紀一だけは夏代について外に出た。

「キイチくん、私、待ってるから。探しに行くから。だから絶対、忘れないでね」

 ゆっくりと森の中を歩きながら夏代は言う。

「カヨもな」

 小さく笑いながら紀一は夏代の頭を軽く小突いた。不安も疑いも無い目だった。

 やがて、二人の間に光が溢れる。光の木と同じ金色の輝きは泡のように生まれ、消えていく。その光は夏代の胸元から出ていた。

「時間……みたいだね」

「……そうだな」

 二人はどちらからともなく右手の小指を絡めた。

「約束。忘れない」

「ああ、忘れない。嘘ついたら、どうする?」

「……美味しいもの奢ってほしいな」

 とぼけたような言葉に、紀一は小さく吹き出す。しかし二人とも目は真剣だった。

「じゃあそれで。……なあ、カヨ」

「うん」

「誕生日、おめでとう」

「ありがとう」

 指切った、と、小指が離れた瞬間、一際大きな泡がはじけた。次の瞬間、夏代の姿はもうどこにもなくなっていた。

 あまりにも呆気ない別れ。まだ温もりが残る小指だけが、ついさっきまで彼女がここにいたことを証明していた。しかしその温もりも、時間とともに薄れていく。

 紀一は惜しむように右手を握り、一言呟くと、家族の待つ家に足を向けた。ささやきは風に乗り、光の彼方へと運ばれていく。彼女に届けばいいと思ったし、届かなくてもいいと思った。あと二か月で彼も成人する。届いていてもいなくても、二か月後に会いに行くのだから。

 そして彼は振り返ることなく歩き出した。今は、彼を待つ森の家族の下へ、帰ろう。




 街の隙間で少女が一人、目を覚ました。ぼんやりと辺りを見回しているうちに、少しずつ記憶が明確になっていく。はたして、その記憶はいつのものなのか。やがて彼女は静かに微笑んだ。一筋の涙が眼から零れ落ちる。帰ろう。その一言で心がいっぱいになった。

 そして彼女はゆっくりと歩き出した。大切な家族の下へ、帰ろう。



 その日、小さかった鬼の子は人に成った。

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