3 異なる世界
俺とダリウスは、横幅4メートル程の舗装されてない田舎道を歩いて街を目指していた。
「……あれはまさか」
少し先の道脇の茂みから、液体がのっそりと横に飛び出してくる。目を見張っていると、液体はみるみるうちに茂みを通過していき、その全貌をあらわにした。浴槽二つ分ぐらいはある水量で、卵を横に倒したような形。見たとこ確実に液体だが、なぜ形を保てるのだろうか? 何にも覆われていない、にも関わらず立体的な形状を維持している。零れないし、地面にも染み込まない。
あまりにも突拍子のない出来事に体が止まり、その液体を凝視し続けた。液体はかなりの粘度があるようで、ブヨブヨと伸び縮みを不気味に繰り返して俺たちの方へと移動し始めている。この動きを目の当たりにしても未だに半信半疑だが、液体に意志がある生命体だと推測するには十分だったし、おのずとゲーム上で知られる有名なモンスターを連想させた。いわゆるスライムというやつだろう。
俺が知るゲームの上では最弱の魔物という先入観があるためか、恐怖は感じていなかった。だが俺より数歩前にいるダリウスは違ったようだ。まるでスズメ蜂にでも出くわしたかのような緊張感で、息さえ止めているかのように静止している。
数十秒の沈黙の後、彼は両手を使って、極めて音を立たせないように剣を抜いていった。そして俺の方へ首を少し振って見やると、アイコンタクトで後退を促してきた。一瞬見えたダリウスの表情は強張っており、危険な状況に陥っているというのは理解できた。
俺は空気が読める人間だ。ダリウスのアイコンタクトを読み取ると、止めていた自分の足をゆっくりと後退させていく。
――――パキッ!
乾いた木片が足の裏で折れたようだ。改めて言おう。俺は本当に空気が読める人間らしい。
ダリウスと俺は再びピタリと止まる。まるでだるまさんが転んだ状態。しかし、やはり先ほどの音のせいなのか、目の前のスライムがブルブルと震え始めた。どうやら鬼に見つかったという事らしい。
スライムの動きを見たダリウスは、なりふり構わず倒れ込むように俺へ飛びついてきた。視界がダリウスの体で遮られていく最中、スライムの体の一部が鋭く伸びてきたのを目撃。同時に顔や手に霧のような極小の液体が飛びついてきた。
地面へ滑るように倒れた後、ダリウスが一早く起き上がり、倒れたままだった俺の腕を強引に引いて立たせた。続いて俺の体を押して「逃げろ!」と声を張り上げた。押された時の慣性でよろめきながらも、しっかり落としてしまった植木鉢を拾い上げ、わけがわからないまま一目散に退く。
後ろを振り返れば、先ほどスライムから伸びた触手は五メートル程の長さがあり、スライムは自身の体をその触手の方へとゴムのような動きで俊敏に移動。ダリウスに飛びかかるところだった。
ダリウスはステップぎみに後退し、スライムの体当たりを剣の腹で叩いて受け流す。そして素早く手のひらをスライムへ向けた。
「燃えろ!!」
スライム全体を覆う程の炎が、その手の平から吹き上がる。炎は木の高さまで登る程強く、熱気が既に10メートル以上離れている俺の所まで届いた。
炎のせいでよく見えるわけではないが、スライムは体を球体に変形して動かなくなったように見える。
「走れ!」
促されるまま足を動かし、俺とダリウスはスライムから逃れた。
目覚めてから疑問ばかりとはいえ、こればかりは疑問のままで放置できない。俺はたまらずダリウスにスライムの事と炎の事を問いただした。
彼が言うには、あの液体はスライムと呼ばれていて、炎を浴びせた時に球体に変形したのはスライムの防衛能力とのことだった。もしかしたら液体の体を凝固させたという事かもしれない。ちなみに炎を浴びせたところで倒せる相手ではなく、魔物の中では中々手強い部類に入るらしい。
じゃあ炎は一体どうやって出したのかと聞くと、ダリウスは目を丸くして答えた。
「見ればわかるだろ。火の魔法だよ」
さも当たり前のように言われ、かなり怪訝な表情で見られたので適当にごまかすほかなかった。内心ひょっとしたらとは思っていた。スライム出現から魔法を使ったダリウス。その流れは至極普通だ。ゲームの中では……。
植木鉢を持つ手に自然と力が入っていく。自分の頭を疑い、この世界が現実かどうかを疑う。だが音や匂い。光と感触。周囲の全てが現実だと俺に訴えてくる。
――じゃあ、ここはどこなんだよ?
ひょっとして俺は世界規模で迷子になってしまったのかもしれない。
森の中。木漏れ日の影や光りを視界に入れつつ、相変わらず舗装されていない道の真ん中を半ばロボットのように歩を進めていく。――魔物がいて魔法がある。この奇想天外な出来事を事実だと受け入れるには時間が必要で、俺はうんうん唸りつつ、何度も頭を捻っていた。
そんな状態でしばらく、後方から乱れた太鼓のような重音が耳に入りこんできた。頭を上げて振り返ってみると隊列を組んで走る馬が見えた。
「……今度は騎馬隊か」
馬上には鉄の鎧で全身を覆った兵士が乗っていて、緑色の下地に鳥のような紋章が描かれた旗を掲げている。彼らが近づいてくると、蹄の音はより大きくなり、馬具や防具が擦れ合う金属系の甲高い音も聞こえて威圧的。ちなみにそれらも緑色を基調とした色味が付け加えられている。
洋画の戦記物か歴史物に出てきそうだ。そんな感想を抱きつつ突っ立ったまま茫然と眺めていれば、道の脇に逸れるようにダリウスに促された。そして彼が片膝をついて頭を下げたので、少し遅れて俺も膝をついて頭を下げた。まるで外国の行事に参加しているみたいだ。
最初に見た時は遠くて分からなかったが、間近に迫ってくると騎馬隊は馬車を挟んで行進しており、物々しい音を響かせる割にはゆったりとした速度で駆けていった。
もうわけがわからん。馬車だぞ馬車。時代が明らかに違う。親指でも立ててみようか?
こんな風に半ばふざけて混乱した頭に余裕を与える。もちろん余裕なんて生まれはしないが、俺は晒されたこの状況を考え続けることに疲れてきていた。
騎馬隊の背中を見送った後、俺は地面を見て薄く笑った。地面には何度も通って作られた細い車軸の輪立ちが刻まれていて、植物がそれを避けるように生えていたのだ。
「馬車が来た方って、さきほど私たちがいた方だと思うのですが、魔素溜まり以外に何かあるのでしょうか?」
「そりゃ見ての通りほとんど山だが、里がいくつかあったかな」そこでダリウスは俺の肩を掴んだ。「それよりもだ。さっきの旗印は覚えておけよ。礼を欠いて良いことはない」
旗印ってことは……国旗か? 或いは権威のある団体のマークとかだろうか。何にせよ、さっきの馬車には偉い人が乗っていたに違いないな。
「はい。ありがとうございます。そうします」
その後、騎馬隊の後を辿るように道を進んでいくと、緩やかな登り坂から下り坂に差しかかり、森を抜けて開けた道となった。
「おい。あれがパスカルだぞ」
風の都パスカル。丘の上から見下ろすその都は、想像していたものと大分違った。
周囲から見ていくと複数の林から伸びる小川が街へと流れ、街の一番外側にある高い壁は綺麗に円を象っていた。建物はほとんどが円柱形で、屋根は帽子をかぶっているみたいに半球になっている。それらは街の中心に行くほど高くそびえたち、街の丁度真ん中には巨大な建造物が見えた。例えるなら野球ドームが縦に二つ分。もしくはバチカンのエルサレム宮殿。はたまた帽子をかぶせたローマ闘技場のコロッシアム。ともかく大きさや物体の雰囲気から、何かの競技場か、宗教的な建造物かもしれない。
全体を漠然と言ってしまえば、洗練された古都だと感じる。ここから見える大通りも円を描いており、街の外周も円。加えて建造物の大きさや並びも円を描くように配置されていて気持ちがいい。江戸時代の京のように、整然と十字の道に沿って立ち並ぶ家屋に近いものが見て取れる。最も特徴的な点を取り上げるならば、多くの建物から凧のようなものが無数に天高く上げられており、それはキラキラ瞬くように輝いていることだろう。
一体なんのためのものか。少々ユニークな発想になるが、電信柱が一本も見えない事や、街へと供給するための鉄塔さえ立ってない事から、何かエネルギー的な要素があるのかもしれない。
……それにしても、よく知る街とはかけ離れている。車は一台も走ってないようだし、コンクリートで作られたビルなんて一つもない。
俺は感嘆と諦念が入り混じる複雑な息を吐いた。するとそれに気がついたダリウスが「やれやれ」と言って問いかけてきた。
「都を見るのも初めてのようだな。魔物や魔法の知識もない。加えて王族に対しての礼儀作法もなってない。お前は一体どこから来たんだ?」
なるほど。つまりあの馬車に乗っていたのが王族。騎馬はその警護ということか。
それにしても、どこから来た……か。最初は言語の違いで外国かと思ったが、魔物や魔法のせいでその可能性は消えてしまった。
「おい? 大丈夫か? 顔色悪いぞ」
街並みから目を離さないまま、俺は乾いた声で少し笑った。地球から来た。返事はそれで合っているのだろうか。
「――すみません。参ってしまいました。ほんと、どこから来たんでしょうね」
知らない言葉に知らない言葉で返事をしている俺。一体何がどうなってここに俺はいるのか。