2 新しい朝
――どこからか声が聞こえる。
朧げな意識の中、微かに香る緑の匂いと瞼の裏に感じる光。どうやら朝らしいが、今日はまだもう少し寝ていたい。俺は息を吐いて寝返りしようと身動いだ。するといつもの感触とはかけ離れたものを体に感じた。なんだこの違和感は……。
仕方なく薄く瞼を開けて、その隙間から入ってくる光に徐々に目が慣れていくと、想定外の景色が目に入っている事が分かって脳がパキッと起床した。一体どういうわけか、俺は外で寝ていたようで、人の腰ぐらいまで伸びた草に囲まれていた。もちろん下はソファでもなんでもなく、ただの地面。傍には愛情を注いでいた観葉植物が植木鉢に入ったまま横たわっている。視界を外に向けてみると、あたり一面薄黄緑の草原で埋め尽くされていて、その草の先端からは蛍の光のような淡い光が灯っていた。空を見上げれば世界の淵に登り始めた太陽が、空を濃紺と水色のグラデーションで美しく染め上げている。
「…………」
既に人影がないという事は分かっているが、無駄に頭を振って誰かいないか見回してみる。そして一度頭をひねった後、植木鉢を一目見た。
「お前が起こしてくれたのか?」
そんな冗談染みた言葉をかけつつ腹に落ちていた上着に腕を通し、着植木鉢を抱きかかえて立ち上がった。光る草原と空の色合いは現実だとは思えないほどに幻想的。とはいえ、その光景に浸れる余裕はなく、正に目が点の状態が続いた。
どこなんだ? ここは。
俺はポケット入れていたアナログの腕時計を取り出した。針は午前六時。今日は一件納品が近いのがあったので、終日家で仕事する予定だった。
「さっさと家に帰りたいんだが……」そう呟きながら時計を腕に巻いた。
さて、まず場所がわからない。スマホもないし、どうするか。
茫然と立ち尽くし、時の流れにしばし身を任せた後、とりあえず家か人を探そうと歩き始めた。そのうち頭の中で渦巻く疑問は、仕事の心配に変わっていった。
しばらく歩いていると、妙な鳴き声と物音が聞こえてきた。不可思議な状況も相まって強い不安にかられ、俺は腰を落として草原の高さギリギリの所から周囲を伺った。すると狐のような獣を発見した。獣は体中に血がついていて、フラフラの状態で歩いている。かと思えば足取りがおぼつかなくなって倒れてしまった。どうも動けないようなので、道端で猫を見かけて近づく時のように、なるべく音を立てない歩き方で獣に近づいてみた。すると狐のような獣は狐じゃない事が分かった。足は四本だが、額から角が三本。尻尾が三本生えていたのだ。
獣は俺を認識すると首だけ持ち上げて低く唸った後、震えながら立ち上がろうとした。しかし足に力が入りきらないのか、再びぐったりと横になってしまった。
珍妙な動物に驚きつつも、今にも死にそうな動物を見て不憫に思った。少し大きいが、犬猫のように特別害があるようには見えない。とりあえず頭でも撫でてやろうと手を伸ばしたものの、角があったので首回りを摩りつつ、そのまま獣の体を観察してみる。血の出どころは体中にある無数の切り傷のようだ。特に腹の部分から黒い血が流れ続け、地面に少しずつ染みわたっていた。悲しいけど、俺にはどうする事もできない。ただ横にいてやる事しかできないな。
――やがて掠れた息遣いへと変わっていき、瞼をゆっくり閉じて獣は死んでしまった。
動物の死を目の前に物悲しくなっていると、あろうことか獣の体が光り輝きはじめ、慌てて数歩後ろへ飛び退いた。さっきの光る草と似ていて弱々しい淡い光。俺は瞼を軽く擦って見直してみた。
「うん。やっぱり光ってるな」
信じられない光景だが本当に体が光っていた。そうしてしばらく注視していると、今度は腹部に負った一際大きな傷から赤い光を放つ石のような物を見つけた。
死骸に対してやることじゃないが、光を放つ石という謎に好奇心を止められなかった。俺は石を取り出そうと、地面に落ちていた木の棒で少し突っついてみた。すると簡単にポロッと石が出てきて地面に落ちた。ビー玉より少し大きいサイズかな。そのまま手に取り、間近で観察してみる。
宝石というより鉱物って感じだな。でも動物の体内にこんな……。あ、間違って飲み込んでしまったのかな。
「えっ?」
石に気を取られていると、いつの間にか死骸の光りが消えていたどころか、死骸の血肉が消えており、まるで風化したミイラのような姿に変わり果てていた。
俺は一度ギュッと力を込めて瞬きをした。「……」さらにもう一度瞬いて口を開いた。「嘘でしょ?」
そこには特徴的だった三本の角がしっかり残っている。間違いなくさっきの獣だ。
これはなんだ? 死骸が光ったかと思えばミイラになった。そもそもこの動物は存在するのか? 見たこともなければ聞いたこともない。新種……なのか? いや。夢オチの方がまだ現実的だ。狐につつまれる、なんて言葉もあるぐらいだしな。
「誰だ!?」
いつのまにか俺の真横に分厚い剣を向けて威嚇する男。俺は両目をひんむいて驚愕した。そりゃあもう天地がひっくり返るほどの驚きである。自分の口よりも巨大な「あ」の文字を口から吐き出した。すると男が俺の口に向かって乱暴な張り手を繰り出し、無理やり俺の口の中に「あ」を閉じこめた。
「うるさいわ!」
張り手によって尻餅をついた俺を見下ろしながら、男は剣を鞘に収めた。そして耳を押さえながら「男があんな叫び声を上げて恥ずかしくないのか!?」と文句を言いつつ、ミイラ化した獣に目を向けた。「スリーテイル。ここで死んでいたか。お前さんには悪いが、こいつはオレの獲物だからな――」
そう言って男は膝をついてかがみ、あの三本の角をミイラからもぎ取りはじめた。
尻餅をついたまま、呆然と男を眺めた。多分四十台ぐらいだろう。頭髪は何もない。代わりに顎にフサフサッとしたヒゲ。顔立ちは欧米人のように堀が深く、服装は全身が革の……鎧? おかしいな。どう見ても革の鎧に見える。
とりあえず物騒な身なりについては置いておき、挨拶をしてから自分の状況を細かく説明した。目が覚めると自分の部屋から外で倒れていたこと。狐のような獣が眼前で急にミイラになったこと。そしてここはどこなのか。そういった事を話した。
「よくわからんが、お前は記憶が飛んでいて、かつ迷子で、かつこの辺の者じゃないな。何なんだ? そのおかしな身なりは」
オヤジが俺の服装を指さしてきたので、自分の姿を改めて見返してみたが、普通に仕事から帰ったままの格好。寝る前に着替えをしてないわけだが、たまにこういう事はある。疲れてその日のお風呂を諦めたパターンだ。こういうときは翌日一番に朝シャンして着替えている。ちなみに着ている服は、首まですっぽり隠すように襟が伸びたジッパー式の黒いマウンテンパーカーで、昨日毛布がわりに体にかけていたものだ。フード付きでポケットが多く、撥水加工も施されている。下はカーキ色のチノパンで裸足。腕には大事に抱えた植木鉢。
そうだな。たしかに裸足と植木鉢はおかしい。だけど目の前のオヤジほどではない。
「そういうあなたも――」俺はオヤジの剣や鎧を指さした。
「何言ってんだ。街を出たら武装するのは当たり前だろ」
オヤジは肩をすくめてそう言った。当たり前って何だろう。
「そう……ですか。あまり見ないので珍しいです」
「随分平和な所から来たんだな。オレはダリウスだ。ここから少し南にある風の都パスカルで宿屋と飯屋をやっている者だ。お前は?」
「私は永峰です。あ、欧米のようにファーストネームが最初に……。あれ……? ナンで!? コトバ、言葉ガ……え!? アー、おれ、ワタシ」
「おいおい。どうしたんだよ?」
「私のナマ、わたしのナマエ、ちょ、ちょっとマッテ。待って!」
アタマが、頭がオカ、可笑シイ、おかしい。一体ドウ、どうなってるんだ!?
名前の順序を考えた時に気が付いた。それまで普通に話せていた事が怖い。俺は知らない言葉を話し、知らない言葉を理解していたのだ。気が付いてしまうと、心の言葉にも日本語と謎言語が入り混じって混乱したのだ。これは英語のような第二言語の感覚じゃない。この言葉は英語で何だっけ? と思い起こす必要もなく、その言葉が自然と口から出てきていた。まるで謎言語が俺の中で母国語のようだ。しかしそんなわけがない。両親は日本人で、日本で生まれ育った。母国語は一つだけだ。
「本当に大丈夫か?」
ダリウスがとても心配な表情で俺を見ている。しっかり返答しないと。
英治・永峰です。しがない何でもデザイナーです。と心の中で無心で呟いた後、すぐに声に出した。
「英治・永峰です。しがない何でもデザイナーです」
謎言語で極めて抑揚のないトーンでそう言った。
「あぁ? エージーナマミーネ?」
「英治、永峰」
「ああ、すまんすまん。エージ・ナガミ、ね」
「……よろしくお願いします」
「で、デザーナーってのはなんだ?」
「ショウヒンの」
あっ。考えるな。勢いのまま、流れのまま話すんだ。「商品、の宣伝とか、物づくりとかだ」
「なんだ商人だったのか。変な奴が多いとは聞くが正にお前だな。だが商人にしちゃぁ随分若えな。見習いか?」
「いえ、独立しています」
「ああ? 本当かぁ? 子供に商人なんざ務まるのかよ」
子供? アジア人は若く見られるという奴か。
「こう見えて既に成人してるんですよ」
その後、俺はもう一度自分の状況を話して助けを求めた。ありがたい事に俺の不思議な体験をダリウスは親身になって聞いてくれた。その際、なぜか俺が目覚めた場所を何度も問いただされたが、結果的にダリウスが住んでいる街まで案内して頂ける事になった。その街の名はたしか風の谷のな……じゃなかった。風の都パスカルという。
ダリウスは物騒な見た目の割に、とても紳士的で優しかった。というか俺は謎言語のせいで混乱しており、それによる不安が顔に思いっきり出ていたのだろう。まるで割れ物を扱うかのように俺に接してくれた。特に出発前、ダリウスは「予備の靴があるからよ。足出せ」と、ぶっきらぼうに言ってきた。さすがに靴を譲ってもらうのは悪い気がしたが、実際に痛くなりはじめていて、街までの距離が遠ければ逆に迷惑をかけてしまうのは明白。そんなわけで甘んじてご好意を受ける事にした。
そうしてダリウスの年季の入ったパックパックから出てきたのは、明言通りの靴ではなく、二枚の鞣した革と革紐だった。靴じゃない事に戸惑っていると、彼はその場でしゃがみこみ、俺の足を人差し指と親指で採寸し始めた。
まさか靴をつくるってことだったのか? 今ここで!?
「動くなって。すぐできる」
ダリウスは革を一枚地面に広げると少量の土を乗せて平にし、その上に二枚目の革を乗せて土を挟みこんだ。すると足をガッと捕まれ、先ほど準備した二枚の革の上へと強引に誘導された。足を置くと足の両脇からはみ出ている革の余りを、器用に足の甲へと畳むように折っていく。続いて腰からナイフを取り出し、部分的にカット。さらに数カ所に切り込みを入れていった。これで畳む際に出てくる余分な部分が無くなり、綺麗に折りたためるというわけだった。最後に足の甲と足首辺りに大雑把な穴を空けてていき、そこに紐を通して縛り上げるとサンダルのような即席の紐靴が完成した。
すごい。この一言に尽きるスマートで無駄のない匠の技だ。
「どうだ?」
「とてもいいです! 助かりました。本当にありがとうございます」
「魔法のようにはいかねーが、街までなら大丈夫だろう。最初のうちは間に入れた土が出てくるが気にするな。しばらく歩けば丁度よくなる」
宿屋と飯屋のオーナーじゃなかったのか!? といった盛大なつっこみを心の中でしつつ、何度も頭を下げた。すると俺の反応が過剰で面白かったのか、豪快に笑っていた。
――謎言語については、とりえあえず置いておくしかない。考えても思い当たる節はないし、実害はない。むしろ外国人相手に言葉が通じて会話ができるというのは助かる。
とはいえ奇妙な出来事が続いている。本当にどうなってるんだ。状況的に分かるのはここが外国かもしれないということだ。それなら先ほどの新種の獣にも理由がつく……ような気がする。あとは飛行機で日本に帰ればいいのだ。いや待てよ。パスポートがないな。空港の前に大使館に行かないといけない。
結局俺は先のことを思ってさらに不安になりつつも、植木鉢を抱えながらダリウスと共に街へ向かった。その道中、ダリウスが話してくれた内容から、事は俺が考えていた以上に複雑だと分かった。
あの狐のような獣は魔物と呼ばれる生き物で、ダリウスは狩猟をしていたらしい。逃げられたのは複数同じ魔物がいたため、取り逃がしてしまったそうだ。さらに採取していた魔物の角は街で売れること。魔物は死ぬと枯れていくこと。あそこの草原は魔素がとても濃いため人が近づかないこと。珍しい薬草が取れること。等々。突拍子もない内容が飛び交った。
一体何の話しをしているんだ?
俺には全く理解しがたい内容だったため何度も聞きなおしたが、返ってくる答えが変わることはなかった。魔物という単語が聞き間違いじゃないなんて流石に仰天した。言い方は悪いが、ダリウスの頭さえ疑ってしまった。
ともかく、こんな話しをおいそれと信用できるわけがない。ダリウスが何かのコスプレをしているとして、突如その元ネタの話しを始めたのが一番しっくりくる。しかし彼がふざけている様子は全くないし、恐らくコスプレしているわけでもないのは何となく分かる。むしろ会話する度に俺の無知加減に呆れて、逆に頭を心配される始末だった。
こうして彼の言葉を訝しみながら歩いてしばらく、唐突に自分の考えを改めなければならない状況に陥った。目の前にあの有名な魔物が現れて襲ってきたからだ。やや青黒く濁った液体で、液体なのになぜか形を一定に保てる物体。さらに中央のあたりに石のような物質もある。
つまり、本物の魔物。スライムが現れたのだ。