後編
前編から続きます。
その日の約束は夕方の、夕食の給仕までのごくわずかな時間だけだった。
フィーネ嬢は屋敷の中で時折見かけるだけとなり、しばらく言葉を交わしていない。見かける時というのも、ほかの客人を相手にしているときのようで、彼女よりもはるかに大きな相手だった。デッサンの合間に執事に聞いたところ、あれらはすべてブリュメンタール社の幹部や取引相手らしい。噂にたがわずフィーネ嬢は才能あふれる実業家の一人であり、まさに小さな若き女傑なのだ。
極めて優れた容姿といい、フィーネ嬢は神に愛された娘であった。
「失礼いたします」
執事は時間きっかりにやってきて、懐中時計で時間を確認して、椅子に腰掛けた。
その日はいつもばかりと違って見えた。それは窓から差し込む西日の存在だ。
それは細い執事の体を照らして、壁をも覆う大きな影を形作る。
私が目を細めているのに気づいて、執事はすっと立ち上がった。
「カーテンを閉めましょうか。燭台の明かりを持ってまいりますが」
私は執事の姿に、いやそのシルエットに愕然とした。
「アーサー様」
私を呼ぶ執事の声も遠くで聞こえる。
そうだ! こんなことに気づかない私は真性の阿呆であったのだ。納得いくものができないのも当然、しかるべき理由があったのだ!
天啓を受けたように動かない私を見て、執事は私が何に気づいたかを理解したらしく、目を細め、唇を釣り上げた。
「おめでとうございます。あなたはついに謎を解かれました」
非常に恭しく、彼は頭を垂れたのだった。
私はそののち、やはり時間をかけつつもブリュメンタール家執事の肖像画を描き終わったのだった。
渡された肖像画を見て、フィーネ嬢はとっくりと長いあいだ眺めたあと、それを控えていた執事とを見比べて、くすくすと笑う。
「よかったわね、ヴィクトリカ。ちゃんと間違いなく描いてもらってね」
彼は胸に手を当て、目を伏せた。
「はい。とてもありがたいことでございます。これもお嬢様の思し召しとアーサー様の腕前あってこそ」
フィーネ嬢は机の上に肖像画を置いて、立ち上がって私の目の前に立った。相対してみるとよくわかることだが、実に彼女の雰囲気こそが彼女をより大きく見せているのであって、実際の彼女の体は実に小柄なのである。
「もう足りないものはないようですね、ヴァジョット卿」
フィーネ嬢は私が気づいたことを知っているかのような口ぶりだった。
私ももうずいぶんと余裕が出てきたもので、この可憐であるが苛烈な令嬢を相手にしても必要以上に取り乱すことはなくなっていた。
「はい。そちらにいる執事にずいぶんとお世話になりました」
フィーネ嬢は表情を動かさぬ執事を見た。
「ええ。当家のちょっとした秘密を教えて差し上げたのです。それぐらいの成果は出していただかないと。途中でもう何回もさっさと切り上げようと考えたことか」
私は恐縮して、肩をすくめた。
「ですか、まあいいでしょう。これでアーサー様は画家への道に進まれる。それでよろしいのでしょう」
はい、と私は力強く頷いた。
初めの方、絵を描くのが趣味と言った。しかしそれは私の逃げにほかならない。すでに趣味という粋を超え、別の場所へと進もうとしていたのに、私は筆一本で世間に立つ勇気が出ないで、うじうじと思い悩んでいたのだ。加えて、両親の反対もあった。私の実家は裕福な商家であり、私は家の後継だったのだ。
だがもう私は覚悟を決めて、この道を突き進もうと思う。私はもう肖像画も風景画も自信を持って描ける。
「でしたら、私の肖像画を描いていただいたあと、いずれ、ブリュメンタールのポスターも描いていただきましょう。ねえ、ヴィクトリカ」
「そうですね。ブリュメンタール社の商品コンセプトとアーサー様の作風はよく調和が取れているように思います。早く名のある画家になっていただきたいものです」
それなら、我が家がスポンサーになればいいでしょう、とフィーネ嬢はごく自然にこう言ってみせた。
「アーサー様はご両親に進路を反対されているとお聞きしています。勘当となれば住むところにもお困りになるでしょう。ぜひその際は我がブリュメンタールにお立ち寄りください」
私は願ってもない申し出に目が回りそうになるのと同時に、例えようもない感謝の気持ちを覚えた。
「ありがとうございます。感謝します」
こうして私はブリュメンタール邸をあとにした。信じられないほどの決意と抱負を携えて。
来た時と同じく昼下がりの午後に馬車は走る。行きは近づき、帰りは遠のき。
屋敷へと続く一本道にアーサー・ヴァジョットが乗る馬車が消えていくのを窓から眺めていたフィーネは、ぽつりと「行ったわね」と確かめるように言う。
「はい。もう行かれてしまいました」
ヴィクトリカの返事に、彼女は執務机に備え付けてある大きな椅子に沈み込んだ。
「坊ちゃんはいいものね。のんきに進路を迷っていられるのだから」
「それがこの国の上流階級というものです」
ちらりとフィーネは非難するかのようにヴィクトリカを一瞥する。
「この国の、ね。でも私の名からわかる通り、私の体にはドイツの血が流れているの。母もドイツ人。生粋の英国人ではないわ」
「そうですね」
「この国の王族でさえドイツ人の血が濃いわ。ねえ、私たちはどこまで英国人なのかしらね」
ブリュメンタール家は現在の王室がドイツのハノーバーから迎えられた時に随行した貴族の子孫である。
「ですが、血など何の意味もありません」
ヴィクトリカは慰めを言っているわけではない。それは真実、この国の真実であった。
「この国では階級がものをいうから。あと財力というところ」
「今回は首尾よく参りましたね」
「ええ、うまい具合に気づいて、才能を開花させてくれたものだわ」
苦手意識を払拭したと勘違いさせるだけでいいところ、それが本当になってしまった。
「実際に画家の才能があったというあたり、お嬢様の眼力が生かせたものですね」
「あれは計算外よ。あそこまでとは思っていなかったの。だけど、まあ、いい買い物をしたものだわ。アーサー・ヴァジョットは、商売だけではなく、画家の才能まで備えていたわけで、こちらとしても安く青田買いできたのね」
フィーネは少しだけ愉快そうに口元を緩ませた。
「アーサー・ヴァジョットはこれでヴァジョット商会後継者候補から脱落し、後継はブリュメンタールの手の者になる。買収も簡単になりそう」
はい、とヴィクトリカは彼女に合わせる。
「アーサー・ヴァジョットが気づいたときには後の祭り。会社はすべて私のものになっているのよ」
少しだけいい気分だわ。ヴィクトリカは主人がご機嫌になっていくのを見ていた。
「ねえ、ヴィクトリカ。わたくしだって、男と同等に頭を働かせるのよ。お前だって、私と同じくらい知っているでしょう」
「はい、知っておりますよ」
完璧なる執事は彼女の望む答えを口にする。
女性参政権が認められたものの、実際はなかなかどうして難しい。フィーネのように商売を仕切って、自分がその上に立つようにと考えてもそうはいかないのが現状である。ましてフィーネは貴族のご令嬢。時代が彼女に味方するまで、十数年、あるいは数十年後のことになるだろう。
「ねえ、ヴィクトリア」
フィーネが彼女の名を呼ぶ。
「お前が女だってわかったとき、どんな顔をしていたの」
ヴィクトリアはしばらく考えていたが、首を振った。
「驚いた、という顔をなさっていたという印象しか」
フィーネにとっては期待はずれの言葉だったらしい。これ以上聞いてくることはなかった。
「せっかく、髪まで染めさせたというのに、反応が薄かったみたいね」
「申し訳ございません」
「お前が謝る事ではないわ」
フィーネは紅茶のカップを取り上げた。セイロンティーの香りが部屋を満たしていく。
彼女はヴィクトリカの肖像を何気なく目に留め、その表面を撫でた。
アーサーは実に良い仕事をしてくれたのであった。
そもそもアーサー・ヴァジョットには画家としての才能と持ち前の努力で、描いた絵画も売れるだけの素地ができていた。しかし、彼持ち前の性分が邪魔して、最後の一歩を踏ん切れなかったのである。
フィーネはアーサー・ヴァジョットの訪問の手紙を読んだとき、そんなことを思い出した。もちろん、彼がヴァジョット商会の後継であることも思い出したわけだが。
アーサーの才能をそれなりに買っていたフィーネはほしいものをすべて手に入れるべく、アーサーの作品やその一歩踏ん切れないわけなどをしらみつぶしに調べ、彼が才能を開花させる算段をつけてやった。
彼は実に単純だった。端的に言えば彼は絵画に生きている人間を描こうとしたのである。そんなことは不可能なので少なくともその人の性質というか本質を描きたいと思っていた。
だがもちろん彼がそんなことができるはずがない。なぜなら彼はよくよくその人を眺めていないからである。モデルの形だけを写し取り、表情を表面だけなぞっていれば、彼が納得する出来になるはずがない。というより、表面しか見ていないと本当は気づいていて、足りないと感じているからこそ、納得していなかったのだ。
そこで彼女は、自分の執事を使ったのである。ブリュメンタール家に仕える男装の執事を。
執事「ヴィクトリカ」をあますところなく描き出すには、その中身の「ヴィクトリア」を知らなければ意味がない。ヴィクトリカの本質はまさしく女であるヴィクトリアでしかありえないのだ。
あとは簡単だ。「お前が見ているのは人の表面に過ぎぬ」という教訓を突きつけてやればいい。
「いい働きでしたね、ヴィクトリカ。さすが我が家の執事です」
「お褒めに預かり、光栄です。お嬢様」
男装の執事は一部の隙もなく優雅に一礼する。
女主は紅茶を飲み、息をついたあと、こう言うのだ。
「さて、ブリュメンタール社発展のため、ひいてはブリュメンタール家が生き残るためには次にどのような手を打ちましょうか」
これは、穏やかに流れるブリュメンタール家の女主人とその執事の日々に織り込まれる出来事。彼女たちの物語のごく一端を担うに過ぎない――
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
少しでも面白いと思っていただけたら、幸いです。
イギリスのこと、もっと勉強します!