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前編

 フィーネ・ブリュメンタールの名は限られた人々の中では特別だった。社交嫌いと噂されるがその美しさは格別だとか、すでに実質ブリュメンタールの女主人であるとか、ブリュメンタール家が持つ化粧品会社ブリュメンタール社の近年の大躍進を主導したらしいなど、それらの噂は確かにその分野に関心のある輩にとってはまことしやかに囁かれている。

 

 私がこのブリュメンタール領を訪れたのも間違いなくこれらの噂に焚きつけられたからにほかならない。私は絵を描くことを趣味としている。美しいものがあるならば、花に誘われる蝶のようにもなろう。


「ようこそお越しくださいました。ヴァジョットさま」

 

 馬車の扉を開けたのはダークヘアの髪をまとめて後ろに垂らしているまだ若い青年であった。中性的な容貌で、細く華奢な首は女のようだ。服装を見るに、この男が執事なのだろう。

 私は手を横に振った。


「いや、アーサーと呼んでいただきたい。家があまり好きではないもので」

 

 かしこまりました、と彼はにっこりと真面目そうな顔を崩して笑う。まるで仮面を付け替えたように鮮やかだ。


「では、アーサーさま。どうぞこちらへ。アフタヌーンティーの準備はできております」

 

 屋敷の中庭へと案内される。すでにティーテーブルの上には白磁のカップを始め、苺のタルトや、飾りつけの薔薇が備えられていた。あとはそこに主が着席するのみである。


「こちらでお待ちください。直に主人が参ります」

 

 主人とはフィーネ・ブリュメンタールのことだろう。彼女の両親は現在一族の故国ドイツにいると聞いている。彼女一人が由緒正しきブリュメンタールを支えているのだ。

 待つ間、私は最初彼女になんと声をかけようか考えあぐねていた。もちろん馬車の中でもしきりに悩んだが、結論はでないままである。まだ見ぬ深窓の令嬢に私は心躍らせていた。

 ちょうど近くにある支那の壺に視界を奪われていると、かさりと芝生をふむ音がした。私ははじかれたように正面を見た。

 

 フィーネ・ブリュメンタールがそこにいた。己の鏡像を見たときのような無表情をたたえながら、それでいて清冽な美しさを体の全てで体現している。昼下がりの光に透き通りそうな金の髪。ドレスの前で組んだ手には傷一つなく、指はもちろん節くれだっていることなく、爪も形がよろしい。顔で印象に残るのはやはりその猫のように丸みを帯びた目だろう。瞳を長く覆うまつげの先まで金色に染められている。

 彼女は私に目を止めると、ドレスの裾をちょんとつまんで優雅に一礼する。


「遅れて申し訳ありません。わたくしがここの女主人、フィーネ・ブリュメンタールでございます」

 

 女らしく優しさも感じられる声なのに、そこには確かに芯があった。


「アーサー・ヴァジョット様。どうか本日のお茶会を楽しんで下さいませ」

 

 その赤みがさした可憐な唇が私の名を呟いた途端、私は己の頬にもその赤みが移ってしまったのを知った。


「アーサー様」

 

 ふいに後ろから声をかけられる。はっと振り向くとそこにはあの執事の姿があった。


「お席におつきください」

 

 無作法だったことに私は別の意味で顔から火が出そうになった。

 席に着き、紅茶が入る。セイロンティーの香りが鼻先をくすぐった。執事は完璧な仕草でティーカップを私の前に置くとき、耳元でこう囁いた。


「どうか、お嬢様のよき退屈しのぎとなってくださいね」

 

 ふふ、と蠱惑的な微笑みが私の視界をかすめていく。男と知っていてもなお魅力的な声である。

 互いに簡単な自己紹介から始まり、ひと段落すると、彼女はこんなことを言った。


「アーサーさまは絵を描かれるのだと、こちらのヴィクトリカが教えてくれました。今までどのような作品を?」

 

 私はもちろん喜々として答えた。私がよく描くのは風景画であった。人を描くときもあるが今まで納得できる出来のものはなかった。完成する直前となって、これは違うのだとわかって破棄することになるのだ。


「何が違うのです?」

 

 彼女はガラス玉のように輝く青の瞳をこちらに向けた。ヴェネチアンガラスでもこの輝きを生み出すことはできないだろう。


「何が、と具体的にわかるわけではありません。ただこれは嘘なのだとわかるのです」

「嘘?」

 

 ヴィクトリカ、わかって? 

 話を向けられるとかの執事は慇懃に口を開く。


「さあ。私としましても絵は専門外というものですから」

 

 そうでしょうね。小さな女主人はもっともだというふうに頷く。


「それなのに、あなたは私をモデルにしたいと」

「はい」

 

 最初は紳士クラブでのいつもの冗談だったが、話のはずみというやつで、とうとうここまで至ってしまったのである。とは言っても、ここまできたのは私の意志でもあった。この女主人を一枚の絵に収めたい。ここに来てその思いはいよいよ固くなるばかりだ。


「そうですね」

 

 彼女は考え込む仕草をした。私も彼女も紅茶を一杯飲み終える頃、ようやく彼女はこう返答した。


「一つ条件を出しましょう」

 

 ヴィクトリカ、と彼女は執事を手招きする。彼を後ろに従えて、彼女は手で彼を指し示す。


「私を描く前に、このヴィクトリカを描いてください。あるいはアーサー様のお悩みを晴れるかもしれませんよ」

 

 彼女はここで初めて微笑めいたものを見せた。それは少しだけ意地の悪い魔性の笑み。水に棲むという美しいウンディーネを思わせるものだった。




 


 私は屋敷の一室を間借りして、屋敷の執事の肖像画を描くこととなった。

 しかし、彼は実に多忙らしく、一日に二時間ほどしか時間を割くことができない。空いた時間は屋敷を見て回って、風景をデッサンすることに費やした。幸い、道楽息子なので時間は有り余っている。ブリュメンタール領は緑豊かな土地なので、描いておきたい風景も多い。


「遅れまして、申し訳ございません」

 

 部屋に入ったとすぐに懐中時計を取り出した彼はごくわずかに渋い顔をする。


「これは。三分も遅刻してしまいました」

 

 整った眉をひそめる彼はやがて気を取り直して、窓辺近くの椅子に座って澄ました顔をつくる。


「このような感じでよろしいですか」

「ああ。ありがとう」

 

 私はふうと息を吐いて、デッサンに取り掛かる。昨日までで七割ほどできた。デッサンだけなら今日ですべて終わるはずだ。

 だが、私はやはりそれをくしゃりと丸めて捨てるしか仕様がなかった。これは違う、と私の善なる心が叫んでいるのである。


「すまない。もう一度書き直す」

 

 これでもうすでに三枚無駄にしている。私はデッサンにも着色にも時間をかける質なので、これまでどれほど彼に時間を浪費させたことだろう。この調子では、かのフィーネ嬢を描くまでどれほどかかることか。

 ため息を無理やり飲み込んだ時に、ノックの音が響く。彼は音もなく立ち上がって、ドアを開けた。入ってきたのは件のフィーネ嬢だ。


「具合を見に来ました」

 

 彼女は歩み寄って、私のキャンパスを覗き込む。その際、ふわりとパフュームが香る。これは艶やかな薔薇の香りだ。


「あら。まだこれだけ?」

 

 意外そうに彼女は書き直し始めたばかりのデッサンと、捨ててあったデッサンのごみを眺めた。


「難航しているのですか。アーサー様」

「はい」

 

 私はやっとこう答えた。不甲斐ない己にただただ頭が下がる思いである。

 彼女は、再び椅子に座ってポーズを取る執事と私とを見比べたようだった。


「アーサー様。まだ足りないものにお気づきになっていないのですか。こんなに近くで見ているというのに」

 

 意味深な言葉を彼女は吐く。


「いえ、ですが気がつこうと気がつかぬともわたくしにとっては関係ないこと。気がつかなければ、何も変わらないだけ、ということか」

 

 独白のような言葉は確かにこの私の耳に届いた。フィーネ嬢はまるで言葉遊びをするかのように唇に様々な音をのせているようだった。

 この時、私は焦り始めた。フィーネ嬢がこぼしたことはすべて彼女の本心のように思えたからだ。私に付き合うのはただの気まぐれのゲームであるからであって、私はそのゲームの駒に過ぎないのだ。ここではゲームを支配しているのはこの可憐な女主人にほかならない。


「ヴィクトリカ」

 

 彼は懐中時計を見た。ぱちんと金属音がしてすぐさま閉じられる。私は自分の懐中時計をみると、短針は四時を指していた。アフタヌーンティーの時間である。


「ではまた。戦果を楽しみにしております」

 

 彼女は執事を従えていく。

アフタヌーンティーへの誘いがなかった。これは彼女たちの無礼だと捉えるべきだろうか、それとも私はすでに客として敬意を払う者ではないという表明だろうか。

私はまた書きかけのデッサンを捨てた。



 



 

 次の日は朝からいてもたってもいられず、外に出て、デッサンに没頭した。とりあえずむちゃくちゃにでも何かを仕上げたかったのだ。

 屋敷内外には大勢のメイドが働いていた。洗濯物の(かご)を持ってばたばたと走り回っている。やがて何本もの洗濯竿には白い布がぱたぱたと揺れていくこととなった。

 今まで自分の屋敷でも見たことのない光景だったので、遠目に描いてみることにする。これも人を描くわけだが、人物画というよりはやはり風景画だろう。

 

 屋敷近くの見晴らしのよい丘に腰掛ける。

 寸法やバランスを考えて木炭を滑らせていく。慎重に見比べていくうちにどうにか形になったものができた。


「よく集中なされていましたね」

 

 にっこりと一人のメイドが柔らかく微笑んで私を見ていた。黒髪に灰色の目の女で、脇から垂らされたひと房の髪はゆるくカールをかけている。顔立ちはこの屋敷の執事にそっくりだった。


「いや。仕事の邪魔をしてしまい、すまない」

「いいえ。こちらこそ」

 

 彼女は私のデッサンをみると、素晴らしいですね、と心からの賞賛をおくった。


「兄から伺っていたのですが、無学な私でも素晴らしい物だとわかります」

「兄、というのは」

 

 はい、当家の執事、ヴィクトリカというのが私の兄の名でございます。彼女はそう言った。

 私は納得して、相槌(あいづち)を打つ。


「そうなのか」

「今は兄を描いておられるのだそうですね。出来栄えが楽しみです」

 

 期待されるぶん、重圧が重くなる。いつものことだが、これには慣れない。重圧に逃れたいとばかり考えてしまうのは性だ。


「ですから、お気づきください。真実というものは明白で、単純な形で、眼前に存在しているものです」

 

 そのメイドはまるで執事のように胸に手を当てて、恭しく礼をする。

 彼女が行ってしまっても、その身にまとわりついてくる重いものは振り払えなかった。


後編投稿は10月28日予定です。多少前後するかもしれません。

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