芝居
「提督。まさか、敵艦隊とやり合うつもりですか?自殺行為です。至急退避命令を。」
痺れを切らした日野が大声で懇願する。
「アヤセ、ミズホ両艦からも『命令ノ意図ヲ問フ』との通信。」
楢橋もまた不安そうな声で、僚艦の声を伝える。
「提督。御説明を。」
彰子が多田野の真意を汲み取ろうとまっすぐに見つめた。その黒い瞳に見つめられ、少したじろいだ多田野はゆっくりと前を向いて、全員に聞こえるように話し始めた。
「撃沈されたように装おうと思う。合図で黒煙幕を張って、信管を目一杯敏感にした魚雷を撃ち、左90度に転進するよう打電。」
「なるほど、魚雷の爆発を誤認させようとの策ですか。」
金沢が手を叩いて賞賛し、艦橋が明るくなる。
楢橋がすぐに各艦に打電を完了した旨を伝える。
「距離20000。敵艦発砲。」
遠雷のような音が聞こえ、艦橋に楢橋の冷静な声が響く。
敵の初弾は艦のはるか手前に落ち、南郷はジグザグ航行を開始。多田野は椅子の肘掛けを少し強めに掴んだ。
「各艦、射程に入り次第、任意の照準を許可。撃て。」
ヨーテイの20.3㎝連装砲が火を吹く。
網を絞るかのように徐々に敵の砲撃が近くなる。
敵との距離が15000になったところで、アヤセが砲撃に参加。敵方も軽巡2隻が砲戦に参加した。
多田野はなんとなく頃合いだと思った。
「煙幕散布開始。取り舵15。」
多田野は煙幕の使用命令を出す。
彰子が命令を復唱するとともに海図に取り舵15の航跡を書いて煙幕の範囲を調べていく。辺りは真っ暗となり、煙幕がゆっくりと敵艦隊の方へ漂っていく。
「魚雷発射。転舵。爆発後に右に90度転進。」
砲雷長が懐中時計で魚雷の到達地点を計る。
程なくして、煙幕の中に4本の爆発を伴う水柱が立った。
「魚雷4本が爆発。距離900~1100。」
「撃ち方やめ。面舵90。全速離脱。」
程なく、敵の砲撃が止む。
「偵察機より『敵、転舵。煙幕に突入する模様』との事。」
どうやら、うまく誤認させられたようだった。
敵は今の間に距離を詰め、煙幕の晴れ間を狙って囮に砲雷撃をするつもりらしい。
そして、この敵の転舵で、第12独立艦隊とは、かなりの距離が開いた。
「煙幕散布止め。」
多田野の号令に艦橋は歓喜の声に包まれる。
一方、完全に作戦が終了したと思い込み、のうのうと後方で待機していた小艦隊は煙幕から出てきた多田野の艦隊に明らかに動揺していた。
「先手を取れ。撃ち方始め。目標敵旗艦軽巡。」
多田野の命令を砲雷長が嬉しそうに復唱した。
とりあえず、危機は脱したと多田野は肘掛けの手をゆっくりと解いたが、じんじんと痺れていた。