初陣
戦争など嘘のように海は穏やかに太陽の暖かな光を浴びてきらめいている。
「にしても、何でこんな海域に出撃なんですかね。艦長。」
ヨーテイの副長を務める日野洋一中佐が前方の監視をしながら、彰子に声を掛けた。
彰子より一回り以上年上で、階級が同じ者に艦長職をはられた日野は、いつも少し砕けた口調で彰子に接しているが、彰子も日野の気持ちを察して、特に注意もしないでそれに応じ、多田野も多少の私語くらいは許してやらないとといちいち目くじらを立てることもないので、第12独立艦隊の艦橋の雰囲気は他の艦隊と大きく異なり、かなり打ち解けたものになっていた。
「日野さん。あえて、主戦場から遠いここの海域の輸送艦隊を襲うことで戦力を分散させようという作戦じゃないかしら。」
「でも、基地の偵察隊に聞いた話によると、ここの海域の基地は最近目立った動きがないので閉鎖されたんじゃないかといわれてるんですよ。」
日野の一言に多田野は何気なく作戦命令書をもう一度確認してみたが、基地が閉鎖したという情報は無かった。
「間もなく作戦海域です。」
艦隊勤務一筋25年のベテラン航海士である航海長の南郷一郎大尉がそう声をかける。
「我々にはそれを確かめる任あるのかもしれないな。副長。貴重な情報、ありがとう。総員第一戦闘配備。」
多田野の号令に艦橋が一気に静かになり、空気が緊張する。
多田野は海戦の手順を頭の中で復習した。緊急出撃であり、輸送船団を襲うだけと見ていた多田野は、僚艦の練度の確認とばかり特に複雑な作戦を指示していない。
念のため、士官学校時代の教科書である『海軍基本戦闘解説書』を持ってきたのは正解だった。
「偵察機を。」
彰子が多田野の命令を復唱し、号令をかける。
程なく、偵察機が敵艦隊を補足したとの通信が入り、彰子以外で唯一の女性艦橋要員である楢橋沙都子通信長が読み上げる。
「偵察機より、本艦前方、距離35000に敵艦隊。重巡1、軽巡1、駆逐艦4。間もなく視認できます。」
補足された艦隊は多田野の予想を大きく越えた完全な攻撃艦隊だった。
「提督。予想外の敵戦力です。」
艦橋要員が少しだけどよめく。
彰子の顔も少しだけひきつっていた。
待ちぶせされたのは、こちらのほうかと多田野は思ったが、と同時に予想外の敵戦力と遭遇したというのに、自分があまり恐怖もなく落ち着いていられることに驚いていた。
多田野は作戦前に中佐が淹れてくれたコーヒーを一口啜った。
この艦隊規模の艦隊を収容できるほど、この先にあるアメリア側の基地の港湾施設は大きくないはずだった。敵艦隊はわざわざこの艦隊をつぶしに来たと考えるのが自然だった。
「全艦に回頭指示を。」
多田野が戦場からの離脱を命じようとした時、中佐が耳元でそう囁いた。他の艦橋要員に聞かれぬようにという、この辺りの心遣いも憎い。
「駆逐艦ミナセより入電。艦隊後方に軽巡1駆逐艦2の小規模艦隊。別働隊と思われます。距離15000。挟まれました。」
通信長が裏返りそうな声を必死で抑えながら、早口で報告する。
艦橋の全員が多田野と彰子を交互に見ていた。
「ミズホより入電。『命令乞フ。煙幕ノ使用許可願フ。』です。」
歴戦の猿渡は、突然の敵艦隊の出現で、混乱していると考え、多田野に命令を仰ぐとともに、暗に煙幕を使用しての戦場からの離脱を指示していた。
しかし、多田野はその猿渡の考えが読めるほど落ち着いていた。
「提督。猿渡艦長の言うとおり煙幕を張って退避すべきです。」
彰子はまた、耳元でそう進言した。
しかし、多田野は迷っていた。
セオリー的には、猿渡の言う通り戦力の薄い後方からの離脱を考えるべきである。
しかし、多田野はまるで後方に誘っているかのような戦力差も気になっていた。
「何を迷っていられるのですか。このままでは、敵の思う壺です。」
彰子の声が少しだけ大きくなる。
思う壺。
多田野はある作戦をひらめいた。
「金沢砲雷長。魚雷の信管を目一杯敏感にしたら、どうなる。」
「敵に当たるかなり前、本艦のすぐ近く1000から1500くらいで爆発してしまうかと思いますが。」
急に話しかけられた金沢喜美砲雷長は驚きながらもはっきりと答えた。
多田野は自らの策に確かな自信をもって、彰子を通さなくても伝わるように声を張り上げた。
「全艦に打電。砲戦用意。我に続け。」
命令を復唱し、戦闘準備に入る乗組員達が僅かに震えるのが見えた。この馬鹿な提督を止めろとばかり、艦橋要員の視線を集めた彰子は、ただ静かに多田野を見ていた。