子守
辺境の基地とはいえ、普段は、副官や従卒がひっきりなしに訪れる那岐島司令官室もここのところは静かになり、部屋には那岐島司令、遠藤元がただ黙って座っているだけであった。
遠藤は、大柄な体格に60を過ぎたにしては鍛えられた肉体、今どき、将校では珍しい角刈り頭に鋭い目つき、トレードマークの口髭、水兵として海軍に入って以来、一貫して現場の道を進み、『ヒゲの鬼遠藤』と渾名され、司令まで登り詰めた男だった。
そんな遠藤がここ一週間ほど、機嫌が悪いのだから副官達も従卒も何かと言い訳をつけて司令室を避けていたし、遠藤も遠藤で避けられていたほうが楽とばかり、副官達にわざわざ、細々とした用事を言いつけていた。
何度も握りつぶした命令書を遠藤はまた、丁寧に広げる。
『多田野幸隆大佐に以下の艦の指揮権を譲渡せよ。1.重巡 ヨーテイ 1.軽巡 アヤセ 1.駆逐 ミズホ』
重巡も軽巡も遠藤がやっとのことでもぎ取ってきた艦だった。これで遠藤の手元に残る艦は駆逐艦が5艦だけになる。無論、軍令部から多少の『謝礼』は出るだろうが、駐留戦力が変わるわけではないので、老齢の軽巡1隻がいいところだろう。まったく、現場『視察』のエリートには高すぎるおもちゃだと遠藤は、もう一度、命令書をクシャクシャに丸めて、今度は思い切りくずかごに投げ入れた。丸まった紙は縁に当たって床に落ちた。
「誰がこんなことを。」
思わず、独り言が出るが、昔ならといまさら軍令部に逆らって経歴と僅かな恩給に傷を付けることもないと考えてしまった自分の年に遠藤は淋しく笑った。既に独立艦隊にふさわしい人員は選抜してあった。
ふと、ドアの外で従卒が多田野の来訪を告げる。
遠藤は短く、入れと言うと髭を整え、軍服の乱れを直した。
ドアが開き、多田野が入ってきた。
遠藤は多田野を一目見て、一瞬、伊戸司令と声を上げそうになった。
慌てて先に敬礼しかけた手を不自然にごまかす。
しっかりと撫で付けられた髪に神経質そうな細面の顔、ひだまりのような温かさがある瞳を持ち、美青年というのか、育ちがいいというのか不思議と人に好かれる雰囲気がある。多田野は若いころ、遠藤が艦橋で見た伊戸にそっくりだった。
遠藤は水兵上がりの自分にも親しげに息子がいると話してくれた若き日の事を思い出した。
軍令部での政変は遠藤の耳にも入ってる。
まず、間違いないだろうと遠藤はどこか懐かしさをこらえながら、多田野を見据えた。多田野が口を開き、型通りの挨拶をする。
「多田野幸隆大佐。本日付けで第12独立艦隊司令として着任いたしました。ご挨拶に参りました。」
「同じく、第12艦隊旗艦艦長として着任致します神城彰子中佐であります。」
遠藤は、伊戸なら出自を聞かれるのは嫌なはずだと思い、あえて多田野の出自を聞くのは止めにする。
「ご苦労。君たちの艦隊は我が艦隊から提供するようにとのことだ。艦は既に回してある。後で受領書に署名を頼むぞ。少し人員不足であるが、人員はこちらで選抜しておいた。他に必要なものがあったら、何でもいってくれ。」
遠藤の中でもう重巡の恨みはどこかに消えていた。それどころか今では若き思い出とともに伊戸の子守を最後の仕事にするのもいいと思っていた。
ありがとうございますと若き二人はきれいな敬礼をして遠藤の部屋を出て行った。