仮想
多田野は井上の淹れた紅茶を飲んでから、気分転換も兼ねて命令書受領の返信をしようと艦橋に向かった。
帝国海軍では正式な受領書の前に受け取った旨だけを返信するのが慣例となっている。
多田野の突然の来訪に彰子以下艦橋要員が敬礼して答える。
「司令。どうなさいました。」
「命令書の返信をしようと思ってね。そろそろ、書類仕事にも飽きてきたし。」
多田野は構わないかなと司令官席に座った。もちろんですと艦長席に座っていた彰子が多田野の右隣に立つ。
「しかし、今度は南のチャーラ島とか。連日の作戦命令とは軍令部も人遣いが荒いですなぁ。しかも、あそこは戦域ですし。」
ムードメーカーとして定着しつつある日野がそうぼやく。
「我々は『戦う広報』なんだよ。副長。」
多田野と彰子は互いに笑いあったが、日野は多田野の言葉にキョトンとしていた。
目を前に転じれば、駆逐艦らしき艦が近づいてくるのが見えた。
「司令。前方に見える艦が合流する駆逐艦『ハヤサメ』です。」
と彰子が手に持っていた双眼鏡を渡す。
多田野は駆逐艦の帝国国旗と側面のハヤサメという艦名を確認した。
「では、これから、ハヤサメを仮想標的にした訓練を開始致します。」
多田野がハヤサメを視認したのを待って、彰子が耳元でそう囁く。
その顔はいたずらっぽく笑っていた。
「総員に訓練開始を通達。目標、前方の駆逐艦『ハヤサメ』」
彰子の声が厳しいものに変わり、ハヤサメを睨みつける。その声に呼応して艦橋が一気に戦闘モードになる。
「敵、距離9000。方位340」
すぐさま観測手がアヤセとの距離と方位を読み上げ、主砲がゆっくりと回転し始める。
「撃ち方始め。」
彰子の号令を砲雷長が復唱する。
実際に砲弾は発射されないが、実戦さながらのやりとりが続く。
もちろん、ハヤサメはこちらの緊張も知らず、悠然と航行している。観測手が再度、敵艦の距離を読む。
「敵艦、今だ健在。距離6500。」
「雷撃用意。」
「魚雷装填完了。」
「撃て。」
砲雷長は時計で到達時間を測る。
「今です。全弾命中。敵艦被害甚大。」
彰子が訓練終了といい、穏やかな艦橋に戻った。
「魚雷の装填時間に少し難がありますが、いきなりにしては練度は充分高い方と思います。」
彰子は満足そうに言った。
「ハヤサメより通信『コチラ、駆逐艦『ハヤサメ』艦隊合流ノ許可ヲ求ム。』です。」
「曳航の必要はないようだな。合流を許可すると返信を。」
意外そうな顔をしながらも多田野の軽口は艦橋要員に多いに受けた。
楢橋が少し笑いを堪えるように了解と答えた。




