嫌いで好きな人間様
黒い猫が金の瞳の瞳孔を、縦に狭めてその光景をみていた。少女に覆い被さるような格好でリザードマンがゾロリと生やす牙をカチカチと鳴らし、今にも食らいつこうとしている。
「にゃーお。」間の抜けた猫の声。
リザードマンが鋭く声の方へ身構えた。蜥蜴男は声の主を認めると、顔を歪ませ馬鹿にしたようにシュッと息を吐く。
「お前はいい人間か?悪い人間か?」猫の口から飛び出す流暢な言葉。白い髭を人差し指と親指でピンと伸ばし、リザードマンと少女の元へ歩み寄る。
「答えていいことはある?」生意気な言葉が震える唇から出てくる。猫の耳にかろうじて聞こえる小声で。
「あるさ、気紛れで野良猫が悪戯坊やを懲らしめるかもしれない。」腰に差したナイフを抜いて、くるりと回して弄ぶ黒猫。
「そうそれは期待外れ、ちっともよくないわ。」黒猫を無視してリザードマンが口腔を開き少女の顔を呑み込もうとした。少女の声も合わせてリザードマンの影になりくぐもる。
黒猫の爪とナイフが光る。こんなもんじゃ硬い蜥蜴男の皮膚を傷つけられやしない。爪はしまい、ナイフをカツンと小石をぶつけるように蜥蜴男に投げる。頭にナイフを投げつけられた蜥蜴男が、苛立って尻尾で地面を打ち猫を横にらみにした。
黒猫が掌を蜥蜴男に向ける。
「どうやらアンタは悪い子のようだ。猫の話しをちゃんと聞かないなんてさ。なら、少しくらい躾てやってもいいかもね。」炎の玉が掌の前に出現する。黒猫は魔法が使えた、そこらの野放図者に負けないくらいには。
「ボンッ。」冗談めかした擬音語を合図に、火の玉が蜥蜴男目掛けて飛ぶ。
「キィーーッ!」不愉快に高い叫びを上げて、火達磨のリザードマンが火を消そうと地面に倒れもがく。
「さて、期待外れかな?」それを無視して、黒猫が少女の前に立つ。差し出された手。
「ええ、いい意味でね。」恐々とその手に少女が触れる。口は達者で体は正直、涙目でブルブル震えている。
「食べられた方が良かったかい?」意地悪く猫が言う。少女の手をパッと放して、支えを失い倒れる彼女をにやりと見下ろした。
それからスイと掌を立ち上がったリザードマンの顔に合わせて翳すと、火球を飛ばしてとどめをさした。蜥蜴男の顔面が真っ黒に焦げてぼろぼろと形を崩し、地面に倒れた拍子に砕けて散った。
「お嬢さん。平気かな?」猫はわざと威嚇するように歯をむき出しにして笑顔を作る。
「ええ、ええ、ありがとう。助かったわ。」少女は強張った顔で礼を言う。
猫はちぇっとつまらなそうになる。少女が悲鳴の一つでも上げれば蜥蜴男と同じ様にしてやろう。そんな事を考えていた。しかし強情っぱりの少女はひくついた笑みを無理やりながら浮かべている。
「そうかい、良かったね。」興味が失せた猫は伸びをすると、散歩の続きをしようとした。
「ねぇ。」その背に声が掛かる。
「ふぅん?」猫が振り返って見ると、少女は地べたに座って深刻そうな様子をしている。猫は近くに寄って彼女を見下ろした。
「腰が抜けたから助けてくんない?」少女は厚かましかった。
「君って図太いね。」少女の腕を掴み乱暴に起こす。痛っと声を上げて恩人を睨む少女。
「折角助かったのに、腰の抜けてる間にまた襲われたら勿体ないでしょう。」猫は呆れて人間を見た。
「そんな不運は中々ないと思うよ。」
「私はこの一時間に、リザードマンと気紛れな猫に会ったのよ。油断なんてできないわ。」
「そもそも一人で出歩くのが悪いんじゃない?」少女を立たせて、猫はもう用はないでしょっと顔をしかめ歩き出す。
猫の後をふらふらと少女がついて行く。
「なんでついて来るのさ。」これには猫はギョッとする。少女は当然っといった態度をとる。
「旅は道連れっていうじゃない?」
「君ねぇ・・。」ぞっとする猫なで声。
「君じゃないわ。アルシアよ。シアと呼んでくれて構わないわ。」怒ってるらしい猫をシアは無視する。
「んっ。」シアが猫を顎でさす。
「?」猫の疑問符。
「鈍いわね、名乗られたら名乗り返すものでしょう?」尻尾を膨らませて猫が少女の頭に拳骨を落とした。
「いったぁ~い!」頭を抑えてシアが猫を恨めしげに見た。
「君って失礼だな!」火球よりさきに手が出て、消し炭でなくタンコブを作ってしまった。
「悪かったわよ。ほら謝ったでしょ?・・もう、叩くことないじゃない。」グチグチと少女が文句を言う。
猫は結局名乗らなかったが、少女は相変わらずその後をついて行く。鼻歌など歌ってご機嫌なよう。時たま頭のタンコブを気にするくらいである。
「厄介なものを拾っちゃったな。」猫が溜め息のでるような声で言った。時刻は夜になり、二人は焚き火を囲んでいる。
「捨て猫のようにいうのはよしてよ。」捨て猫という言葉で猫が険悪になり、シアは身の危険を感じた。
「す、捨て猫でいいわ。」すかさず言い直すシア。それを聞いて猫は何か諦めた表情になった。
「仕方ないね。拾ったものには責任取らないと。」猫が少し寂しげな笑みを浮かべる。
「大袈裟に言うわね。旅のちょっとの間じゃない。」焚き火をいじり、焼けた木の実をシアが取り出す。
「それ毒あるよ。」炙った干肉にかじりついで、猫が言う。
「焼く前にいってよ・・。」がっくりと肩を落とした彼女に猫がアドバイスした。
「そこに生えてる草の根は喰えるよ。掘ったら?」
「ぐぅぅ。」腹の音か、不満の声か、少女が地面を渡されたナイフで掘る。
「うん、暫くそれ貸してあげるよ。その代わり旅の間は僕の言う事聞いてよね。」腕を枕に猫が寝転ぶ。
「苦っ・・。」焼いた草の根を口に含み、彼女のこぼしたその言葉を最後に夜は更けていった。
平野が広がり、丈の高い草が地面を覆っていた。時期は夏の盛りで歩く度に虫が草むらから飛び出す。
虫の逃避行を顔面で受け止め、シアは顔にへばりついた大きめのバッタを乱暴に掴み投げ捨てた。長袖、長ズボンと服装は万全であるため実害自体はあまり被ってない。
「もぅっ!」それでも愉快になれるはずはなく、悪態をついた。
「そういえば聞いてなかったけど、あなたいったい何処にむかってるの?」前を歩く猫のゆらりとくねる尻尾に視線を向けて聞いた。
「泥棒と商人の街に行くんだ。」さくりと、草の根元を踏み歩く猫は飛び出すバッタを空中でキャッチする。それから片手の袋にバッタを放り込む。歩きがてらの食料確保。
「ふーん。泥棒が稼業なの?」
「・・たまにはするさ、ネコババくらいは。ただ泥棒から強盗する方が好みだな。しかし、君はあっさり人を犯罪者扱いするな。そこらの猫より無神経じゃない?」
「それはお互い様じゃないの?・・いえ、黒猫さんは無神経というより意地が悪いといった方がいいかしら?」
「意地が悪いうえに口も悪い、さらに無神経と、・・・この子捨てたい。」
「あなたの気紛れに付き合ったまでよ。」
「はぁっ。」猫が溜め息をついた。
何処までも続く平原。旅馴れない少女は何処にいるのかさっぱりだった。猫がポリポリ虫をかじり、シアは掘り起こした名も分からぬ草の根っこを、猫に言われるまま食べている。こんな食事を3日も続けていた。
「もうちょっといいものが食べたい・・。」シアは涙ぐむ。
「昨日の芋は中々じゃなかった?」
「ほとんどあなたが食べたじゃない。」
「そうだったっけ?」恨みがましい視線をものともせず、惚ける。
「その泥棒の街には何時着くのよ。」
「今日。」
「えっ!?」
「人間って周囲の変化に疎いよねぇ。あちこちにいた獣や鳥が姿を消したのに気付かない?君らが害獣と呼ぶ狼や、肉の美味しい旅行鳩の群れが。」
「分からないわ。狼はどうなのか知らないけど、鳥ならそこらで鳴いてるし、鼠や兎は時々飛び出してくるじゃない。」
「やれやれ、先が思いやられるよ。兎に気付いても君のお仲間が仕掛けた兎罠には気付かないなんて。鳥の声だってさっき鳴いていたものとは違うだろ?今鳴いてる鳥は君に馴染み深いもののはずだ。狼の足跡もめっきり見掛けなくなった。人里が近いんだよ。」
「暢気に歩いてたんじゃないのね・・・。」
「君は死に掛けた割に危機感が足りないよ。」感心した顔のシアに猫は呆れた。
「さぁ、行こうか。」昼休憩を切り上げて猫が歩きだす。暢気なように見えて鋭い視線を周囲に配りながら。
「らっしゃい!らっしゃい!取れたての果物はいらんかね。汁気たっぷりで甘いよ!」
「遠い白砂漠に咲く石の薔薇はいかが?幸運を呼ぶ呪いが掛かってるよ。」
人がどっと増える。おいしそうな食べ物を売る店や妖しさ爆発のガラクタのようなものを売る店が連なっていた。
「美味しそうね。」羨みを隠そうともせず、シアが食べ物を売る店に目を釘付けにしていた。
「盗むんならうまくしてね。」
「しないわよ・・。」アルシアはそれらから目を外すと、目元を手で覆った。
「あれは毒よ、毒・・。目の毒。」必死で自己暗示をかけていた。リザードマンから逃げる途中で荷物を捨てており、当然無一文だった。そして、黒猫に期待するのは間違っているし期待もできなかった。
「夜には街を出るから、それまでご飯はないね。」それを見透かすように猫が言う。二人のご飯は野外採集が基本のようだ。
「この街に用があるわけじゃないのね。」
「散歩の途中に立ち寄っただけさ。」猫は旅ではなく、散歩と言う。彼にとって旅は散歩のように気楽なものだった。
「それが嫌なら君はこの街に残ればいい。」
「嫌なんて一言も言ってないんだけど。」それを聞いて猫が非常に残念な顔をした。
「ナイフはまだ借りるわよ。」そんな猫の反応にげっそりしながら腰のナイフをシアは触る。
「君は変な奴だな・・。得体のしれない猫について歩くなんて。僕が君ならそんな真似しないよ。」
「黒猫について歩くのがマイブームなの。この街は魅力的だけどね。」にこりと少女が笑う。身の危険を感じない限りはついていってやろうと、後先の事は考えず決めていた。行き当たりばったりという言葉がよく似合う少女である。
「そんなんだからリザードマンに襲われるんだ。」フーと息を吐く。少女のいい加減さに猫は呆れた。
人混みの中を二人は歩く。
「見てみな。あの二人はスリさ。」ベンチのある広場で二人が小休憩を取っていた時、唐突に猫が二人の男を指差す。黒猫の言葉にシアは言われるままそちらを見てしまった。
「ちょっと、目が合っちゃったんだけど。」落ちくぼんだ目がシアを見ている。目線ががっちり合い、にやぁと男が笑う。
「近付いてきてるわよ。ど、どーすんの。」少女が慌てる。黒猫は余裕の表情。
「ちょっとお話ししようか?」ベンチに座る二人を囲み片方の男が言った。
「いいよ。」猫が軽く答える。
猫が立ち上がり、一方の男について行く。シアも離れまいと後ろをついていこうとしたが、もう一人の男に腕を引っ張られ立ち止まる。
「待って!」怖くなったシアが声を上げた。ニコニコ前を歩く猫の顔がその声にうんざりと曇る。
「お兄さん。その子を離してやってくれる?一人で歩けない程子どもじゃないんだからさ。」立ち止まり、作り笑いで猫がいった。
「連れてけ。」男の高圧的な声が応える。
猫の近くにいる方の男が、猫の背中を蹴り倒そうとしたがそれを避けて、猫が言葉を続けた。
「残念な事にそれは僕の拾い物なんだ。勘弁してくれないかな?人間様。」
「このっ。」おちょくられたと思ったのか、蹴り損ねた男が猫に殴りかかる。
大振りな男のパンチを避けて、耳元に猫が口を寄せる。
「見逃してやろうと言ってるんだよ。阿呆が。」そう囁くや否や耳たぶを爪を出した指で掴み引き裂く。ぼたぼたと耳から血を流し男が逃げ出す。
アルシアの腕を掴んでいた男も最初は呆気に取られていたが、臆病風に吹かれたのか相方の後に続き逃げていった。
「はぁっ。」腰に手を当て見せつけるように猫がシアの前で溜め息をつく。
「お楽しみの邪魔して悪かったわよ。」
「分かってるならいいよ。」それから十数秒、猫が思案するように顎をさする。
「興も削がれちゃったし、もう出ようか。折角カモがいたから美味しいもの食べようと思ったのに。」
「あなただけがでしょ。」
「ご名答。」シアは若干疲れた顔になった。
外門を目指し歩く事半刻、それはたった一言から起きた。
「化け猫。」人混みですれ違った誰かが言った。その声は大きさに反して水面に広がる波紋のように行き交う人々の間に広がっていった。
「へぇ、よく気付いたな。」黒猫が困ったように笑う。アルシアは周囲の反応が分からずキョロキョロと頭を動かした。
「魔物!?」ざわついていた人混みの中で、一際高い女の声が響くのを皮切りに辺りが騒然となる。
「兵士を呼べ!」人が恐れを浮かべて散っていく。
「何か魔物っていわれてるわよあなた。」怪訝な顔をして、シアが言う。
「そりゃそうだよ。僕は化け猫、歴とした魔物なんだから。」
「そうなの?」
「そうだよ。」
「ケットシーでなくて?」
「君、僕があんないい顔する猫に見えるの?」
「全然。」アルシアは人と同等に扱われる猫妖精の一種だと、この黒猫の事を考えていたが大間違いであったらしい。
「ほら、逃げてもいいんだよ。」爪を出して猫がシアを脅す。
「ちょっと、冗談言ってる場合じゃなくない?」猫を無視して辺りの様子をシアは窺った。あんなに居た人の群れが散って、道の真ん中に突っ立ているのは二人だけだ。
「ん~、大丈夫だよ。一旦スラムの方に行こう。そこなら僕のような者がゴマンといるからね。」
「流石泥棒の街・・。」そそくさと二人はその場を後にする。こうして二人は思わぬ足止めをくうことになった。
「魔物って堂々としすぎじゃないの。」スラムに架かる異臭のするゴミ川の橋の下、臭いを我慢して二人は地べたに座っている。ここなら誰も来そうにない。というより来たくないだろうなと、鼻に皺が寄りそうになるのを我慢しながらシアは思った。
「魔法で誤魔化してたんたけどな。気付かなかったろ?まぁ君には意味なさそうだけど。」
「へぇー。」シアはお手上げといった様子で相槌する。黒猫の言うとおりさっぱりだった。
「まさか、外門の目前でバレるとは思わなかったな。兵士の足が遅くて助かった。」騒いだ人に急かされて兵士が現場に来たのは十分後。街中で魔物と聞いて半信半疑だったためだ。
「助かったのはいいけど、街からどうやって出るの?」
「二、三日もしてまた人混みに紛れて出ていけばいいよ。」
「そんな、見つかったらどうするの?」
「再チャレンジ。」
「面倒くさっ。」
「・・ってご飯は!?お腹空いたんだけど!」
しょうがないな。そう言って黒猫が錆びた銀の硬化を腰の袋を探って取り出す。拳の上に乗せてピンと親指で少女の方へ弾いた。
「それで何か買ってきてよ。」
「お金もってたんだ。」シアが両手でキャッチする。二人分のパンと干し肉、牛乳を買っても釣りはでそうだ。
「少しはね。こういう時は君も便利だな。」
「まぁお遣い位なら喜んでやるわ。」シアも黒猫の嫌みな言い方に馴れてきていた。実際この猫は口ほどに面倒見が悪くない。何の役にも立たないシアのへまに、怒ったり嫌みを添えて忠告したりしてくるのだ。
「すぐに戻るわ。」スラム街の中を少女が歩いていく。くたびれた旅の外套のフードを目深に被ったので、一見すると素性の悪い少年にしか見えない。スラム街にその姿は溶け込んでいるので、目を付けられることはないだろう。
猫は少女を見送り、汚れた川を見た。どこまでも淀む生き物を拒んだ河。人の生活の一面がそこにある。
「僕が生まれたのは、きっとこうした穢れからなんだろうなぁ。」皮肉な笑みを黒猫が浮かべる。自嘲するようなそれは猫に似合わなかった。
シアが戻ってくると、猫は河を見ながら何かの歌を口ずさんでいた。声を掛けずに黒猫の隣に腰を下ろし、少女は耳をすます。
「一人目は乱暴もの 二人目はケチンボ 三人目は病気持ち 一人目は尻を叩いて追い出した 二人目は捕まえて売り出した 三人目は病気で死んだ 哀れな猫は野良猫に 一人目を焼いて 二人目を焼いて 三人目には別れを告げた 哀れな猫は野良猫に 三人目には別れを告げた」
「それってアナタの歌?」
「そう、僕の飼い主だった人間の歌。この河を見てちょっと思い出してね。」
「三人共死んでるように聞こえたんだけど?」人に飼われていた事に驚いたが、それは口に出さなかった。それよりも気になったことをシアは聞いた。
「二人は僕が殺した。」
「野蛮ね。」あのリザードマンと同じ目にあったことは想像に難くなかった。
「猫が野蛮じゃないとでも?」
「お淑やかな猫もいるんじゃない?」干し肉と牛乳瓶の入った袋を差し出す。
「鼠を殺さない猫はいないよ。」
堅いパンに少女はかじりつく。猫は干し肉を噛み千切って牛乳で流し込んだ。
「それ半分私のだから。」瓶代をケチって大きめの瓶に二人分入れてもらったのだ。
「最後の三人目だけ扱いが違うわ。」
「なにが?」
「アナタの歌よ。まるで別れを惜しんでるように聞こえたわ。」
「僕にだって特別な人間はいるさ。」それを聞いたシアはとてもびっくりした顔になる。
「ちょっと、失礼じゃないか。」シアがあまりにまじまじと見るのでしかめっ面になる。
「彼は唯一僕によくしてくれたんだ。」
「へぇ~。」少女がにやにやする。
「ねぇ、いい加減名前教えてよ。その飼い主さんから名前もらったんでしょう?」猫の手から牛乳を取り少女が聞く。牛乳瓶にはもう三分の一程度の量しか残ってない。
「君もしつこいな。」
「だって不便じゃない。」
「・・・ミィ。」
「えっ、何て?」
「だからミィ。」
「ミィ?それが何?」
「僕の名前だ。」
「・・クスッ、かわいい名前ね。」こらえきれずに笑う声をもらす。
「次に笑ったら黒こげにしてやる。」
「ごめんなさい。・・・飼い主さんがミィの事を可愛がっていたのはよく分かったわ。」
「買われた時僕が小さな声で鳴いてたから、アイツは安直にそう呼んだのさ。」
「気に入ってるんだ?」
「他の名前が気に食わないだけだ。」
二人は汚臭を我慢して寝転がる。二、三日の間だけと自分にいい聞かせて交代で眠った。これじゃ野外の方がマシねと、目を瞑ってアルシアは思った。
泥棒の町といえど、人が住む以上法はあるしその法を維持するべく設立した機関は存在する。治安維持部隊のクルクは、報告に上がる猫型の魔物を退治する為街中を巡回していた。
見間違いじゃないかとの声も上がるが、彼はそうは思っていなかった。彼の同僚も同じ意見で、人の町で何食わぬ顔で魔物が闊歩している事を憎々しく感じていた。この街は外で泥棒の町と呼ばれている。商人が莫大な富を生み出す横で、蜜に群がる虫のように犯罪者が寄り巨大なスラム街が形成されていた。更にその犯罪者と商人が癒着しているから始末に負えない、クルクは魔物が十中八九スラム街にいるだろうと睨んでいた。
しかし、あちらに居る以上手を出す事は許されていない。上からの圧力でスラム街での行動は制限されていた。叩けばいくらでも埃が出るため下手な事をすれば、逆にクルクの所属する治安維持部隊そのものが解体されかねない。
だからといって黙っていられる性分ではなかったクルクは、スラム街と街の中心部の挟間に位置する陰気な通りを仲間と共に捜索していた。これだけでも上からの目に厳しいものがあったが、クルクは譲らなかった。
アルシアは空に広がる青空と、心地いい風に感謝して歩いていた。ようやく三日経ち、いよいよ出発の日となったからだ。
異臭の中で黒猫と口喧嘩する日も終わると思うと清々しい気分になれる。ミィはいつもと変わらぬ風を装っていたが、垂れ下がっていた尻尾の先が上がっているのでアルシアは嬉しいのだろうと推測する。
だから、ご苦労にもトラブルが待ち構えている事など予想だにしなかった。
「魔物め!」待ちに待った魔物がのこのこ現われた。穢れに反応する魔具でそれを確認し、クルクは容赦なく剣を振る。黒猫はひょいとそれを避けて、空振ったクルクの方へ手を広げた。
「やめなさいよ!」アルシアが止める暇もなく、ミィが魔力を練った火球を飛ばす。
「ぐわっ。」狙いを違わず火球が胴に命中し、服に弾けた火の子がついた。溜まらずクルクはバタバタと火を消そうと、距離を取って服を叩く。
「逃げるよ・・。」シアに向けてそうは言ったものの、黒猫は足を止める。5、6人の兵士に行く手を阻まれていた。
「ほら、派手な事するから。」シアがジト目で黒猫を見る。
「魔物だ!」「気をつけろ、魔法を使うぞ。」口々に兵士が怒鳴る。
「迷惑かけたわけじゃないのに。」シアがイライラした様子で治安維持部隊を見ている。
「関係ないさ。僕は確かに化け猫だから。」人も殺す・・・。最後のミィの呟きをアルシアは聞こえないふりをした。
それこそ関係ないわ、人間だって人を殺すもの。それもくだらない理由で簡単にやっちゃうのよ?私にとっては気紛れな猫とどっこいどっこい。それならミィの肩を私は持つ。
「あらそう。それで化け猫さんはこれからどうするの?」
「君は人間だからね。ここで縁切り、奴等は皆殺し。これで解決かな?」ミィが笑う。刺すような殺意をアルシアは感じた。
「さよならってことね。」
「そうだね。」穏やかな言葉が途切れる。黒猫が俊敏に前に飛び出し、兵士達を攪乱する。
シアは蚊帳の外で兵士と黒猫の戦いを見守る。巻き込まれないように逃げるべきかもしれないが、ある一つの理由で戦いが終わるのを待っていた。
「借りたものは返さないと。一応恩人だし。」腰からナイフ取り出す。彼女の性格からすると持ち逃げするのが普通だが、ミィは特別だった。魔物だろうと何だろうと、アルシアにとっては初めて仲間と呼べる存在。あっちはお荷物と思ってるに違いないが、シアの事を嫌ってない事は分かってた。
「その証拠にまだ生きているものね、私。」クスリとアルシアは笑う。
素早い動きに翻弄された兵士が、味方とぶつかり一瞬動きを止めた。その喉元に爪を出した腕を一閃させ、肉と骨をミィがえぐり出した。
目の前で起こった事に他の兵士の思考が止まり、致命的な隙ができた。
黒猫が掌をかざす。溜められた魔力が形となって具現化し、逆巻く炎となって兵士を飲み込む。
黒こげになった死体を見下ろし、やれやれとミィが気を緩ませた。
「ミィ!!」焦った声が黒猫に届く。とっさに振り向き眼前の剣の切っ先を紙一重で避けた。しかし、あまりに無理な態勢で避けた為バランスを崩しあっと思う間には地面と星が網膜に写っていた。
クルクが態勢を崩して倒れた猫に、剣を振りかぶる。仲間を殺され頭に血が上っていた。その間に割り込み、命があったシアは余程強い悪運があるのだろう。
鮮血が飛ぶ。クルクがとっさに人影を捉え、無理にずらした剣の軌道が肩から背中にかけて赤い線を生み出し、飛沫を生んだ。
「燃え尽きろ!」金色の目が虚を突かれたクルクを睨んでいた。掌を向けられそこから火球が飛び出す。空気をえぐるような火の塊が頭を吹き飛ばした。
黒猫の体を少女の血が濡らしていた。
「ミィ・・・。」苦しげな顔が、微笑んでいる。
その笑顔には覚えがあった。懐かしさと苦しさが同時に去来する。
アルシアの体を抱え、黒猫は走る。うかうかしていれば、他の兵士が来るだろう。
この街は商人と泥棒の街。廃屋の並ぶスラムや治安維持部隊の手の届かない無法の区画が存在する。
一般市民には秘匿されているが、多数の魔物がこの街に人の振りをして隠れ住んでいた。汚らしい路地をくねくねと走り、適当な廃屋に乗り込む。
先客の浅黒い顔の男を火球で吹き飛ばした。男が気を失った途端に部屋に獣臭さが充満し、伸びた男の顔がハイエナのような形に変化し全身から毛が生えた。
それは放って汚いベットの上にシアを横たえる。何時も身に付けていた小袋の中から針と糸を取り出す。針を魔法で熱して滅菌しぐったりとしたシアの体にミィは手を掛けた。
「なぜ僕を庇った?君はそんな殊勝な性格じゃないだろ。」夜が明け目を覚ましたシアに黒猫が不快気に言う。ミィにとって例外を除き、人間に助けられた事実は受け入れ難い事だった。
「知らなかったの?私は気紛れなのよ。」クスリとアルシアは笑う。
「命が惜しくないのか?」
「惜しいわ。でも、つまらない生き方をするのは嫌。」縫い後の痛々しい姿で、少女は悪戯の成功した子供のように上機嫌であった。
「ミィは嫌な事を我慢する?」
「しないさ。」
「剣で斬りつけられたのはスリルがあったわ。」
「それで、馬鹿なことをしたと思う事はある。後悔するよ。」
「それこそ後悔しない人生なんてつまらないわ。心に残る事がないんでしょそれって。」
「君は・・・、悪い人間だ。」
「楽しむ為なら悪人にだってなる。」
「呆れるほど放蕩家なんだな。」
「人の事を言えない癖に。」
「人間様よりマシさ。」
「あらそう。」欠伸をして、アルシアは起こしていた上半身をベッドに横たえる。
「お休み。シア。」何気ない挨拶。何年越しかに呟かれた言葉。
「お休み、ミィ・・・。」少女が寝息を立てるのを確認して、黒猫は椅子に座ったまま金の瞳を閉じる。
「人間は嫌いさ。ただ、君がいなくなるのはつまらないかもね。」皮肉屋が、笑うように口の端を吊り上げた。
数日後野外での会話。
「僕は人が嫌いだけど、シア。君は例外にしとくよ。」
「当たり前よ。ミィは私を人間扱いしてくれないじやない!」
「自業自得じゃない?」
「私が何をしたっていうのよ。」
「悪い事。」
「否定できないのが悔やまれるわ。」
「悪い猫は悪い人間が嫌いじゃないのさ。」
「照れてんの?」驚いた表情。
「君って無神経だよね。」
end
設定
アルシアは使用人夫婦の娘。大きな屋敷で、使用人としての教育を受けていたがその生活の退屈さに我慢できず飛び出した家出少女。ミィに拾われなければ確実に野垂れ死にしてた。
ミィ
黒猫の魔物。親は普通の猫だったが、穢れで体を壊しミィを産んだ後に死んだ。兄弟はいない。魔法を覚えたのは三人目の飼い主に喜んでもらいたいがために火吹き大道芸人を真似したのが初め。飼い主は無邪気に喜び魔術書を買い与えて一緒に読んだりした。