七 〜転機〜
翌日、いつもより早くに登校した茜は早速、梨奈の教室へ迎えに行った。
「梨奈。来てる?」
教室に入るやいなや叫ぶと、他の生徒から注目の的となった。そして梨奈へと、みんなの視線が移動する。
「おはよう。遅いよ、茜」
とっくに来ていた梨奈は立ち上がると、机の間を駆けた。いったい何事かという疑問を教室に残して出ていく。
「葵ちゃんは?」
「休むって」
「そう。仕方ないか」
初めての失恋は相当ダメージが大きかったらしく、昨夜は風呂とトイレ以外は、食事もせずに部屋に閉じこもっていた。今朝も朝ご飯を食べず、茜が家を出るまで部屋から出てこなかった。
「修復させるつもりは全然ないけど、落とし前はキッチリつけないと」
いきり立つ茜とは反対に、梨奈は冷静だった。もちろん葵を振った健吾のことは許せないし、自分からも言うことはある。しかし、茜が暴走しないように、いざとなったら止める役割もあると認識していた。
教室の中を覗くと、健吾はすでに来ていた。席について友達と何やら話している。その笑い声が茜は気に入らなかった。なぜ笑っているのか分からないのに、勝手に葵のことを笑っているのではないかと勘ぐってしまう。
何も言わずにズカズカと入っていくと、健吾の横にいた生徒を押し退けて前に立ち、思いっきり平手打ちを喰らわした。
隣の教室にまで聞こえたであろう大きな音だったにもかかわらず、健吾は何も言わずに茜を見た。周りは何が起こったのか分からないまま、成り行きを見守っている。
「何か言うことはないの?」
「別に。ないな」
「何ですってぇ!!」
「待って」
梨奈は今にも掴みかからんとする茜を、腕を出して制止した。一見、冷静な判断だったが実は、健吾の言葉に激昂していた。冷静でいるという思いはあっさりと破られ、茜とは反対の頬をぶった。
「遊馬君。私に言ったよね。悲しませることはしないって」
「それは、すまないと思っている」
健吾は梨奈から目を逸らして言った。
「言いたいことは、それだけなの?」
再び、梨奈の身体を押し返して茜が詰め寄ると一瞬、目を上げたが、すぐにまた伏せた。その時、健吾が何か言いたそうな雰囲気を出したのを梨奈は見逃さなかった。
何も言わなかったので、茜が問いただそうとすると、今まで傍観していたクラスメート達が健吾の擁護に割って入ってきた。
「雲雀。お前も元芸能人なら分かるだろう」
「え?」
梨奈はいつの間にか自分達を囲んでいた取り巻きの顔を、グルッと見渡してから健吾の方を見た。するとハッとして、一息吐いた。
「分かったわ。行きましょう、茜」
「なんで?まだ理由を聞いてないじゃない」
「いいから」
ごねる茜の腕を掴んで、強引に廊下へ連れ出した。
「何で帰るのよ。梨奈は納得したの?」
「いずれ分かるよ」
「いま知りたいの」
梨奈は地団駄を踏んで戻ろうとする茜の身体を羽交い締めにして抑えた。
「いいから。この件は、ここまで。遊馬君も苦しんだと思うから」
梨奈が推測する別れた原因を話しても良かったのだが、何を言っても納得しないだろうからと思い伏せておいた。
自分達の教室に戻るまでの間、梨奈に向かって愚痴を言い続けていた茜だったが、健吾も苦しんだという言葉を信じてこれ以上追求することはやめた。ただ、葵になんと言ったらいいのか、それが気がかりだった。
健吾と葵が別れたことは、その日のうちに学校中に知れ渡った。驚くことに、それを聞いた女子が早速、昼休みに健吾に告白したという話が聞こえてきた。
それらは全部、断ったようだが、その時の言葉も同時に噂になった。
―――卒業するまでは、彼女は作らないことにしたんだ。
茜にとってそれは、唯一の救いだった。
茜はその日の授業中、いつにも増して勉強が手に着かなかった。初めての恋がこういった形で終わってしまい、当然、初めて失恋した葵をどうやって励まそうかと頭を悩ましていた。
こうして離れている間に、ずっと泣き続けているのではないか、家を出たりしていないか、最悪なことをしていないかなど、悩み出したら切りがなかった。
よっぽど早退しようかと思ったのだが、部活までやってくるようにと母親に釘を刺されていた。
昼休みになってもテンションが低い茜は、なかなか弁当が喉を通らなかった。
「学校が終わったら、私が行ってみるよ」
昼食を一緒にしていた梨奈がそう言ってくれたお陰で、遅かった箸の動きが少しだけ早くなった。
茜は部活が終わると、急いで着替えて学校を出た。もうすぐ陽が沈む薄暗い中を全速力で走った。梨奈が行ってくれたとはいえ、葵のことが気になって仕方なかった。
「ただいま」
靴を脱ぐと階段を駆け上がり、葵の部屋のドアをノックした。
「葵、いる?」
「……うん」
「入って良い?」
「うん」
そっとドアを開けると、顔は泣き腫らしていたが、意外に落ち着いた雰囲気で座っていた。
「大丈夫なの?」
「うん」
「梨奈は?」
「今さっき帰ったよ」
「そう」
「ご飯、作るね。何か食べたいの、ある?」
「何でも良いよ」
「そう。買い物に行ってないから、あり合わせで作るんだけどね」
姉妹なのに、ぎこちない会話を繰り返す。励ますつもりだったのに、適当な言葉が見つからない。
「ねえ、葵。きっと……」
「ん?」
「もっといい男が現れるよ」
「ふふ。そうだね」
もっと引きずっているのかと心配していたが、表情は暗いものの立ち直っているように見えた。励ましの言葉に微笑んだ葵は、立ち上がって台所に向かった。
「梨奈は、何て言ったんだろう」
親友の言葉が気になったが、姉のためにもこれ以上、今回のことを口にすることは止めることにした。
一時間後、葵に呼ばれて食卓に着くと、あり合わせで作ったにしては美味しそうな料理が並んでいた。さすが、料理番組で優勝しただけある。
「いただきます」
「いただきま〜す」
いつもは食事中によく喋る茜も、今晩ばかりは黙々と食べていた。箸の音とテレビの音だけが部屋に響いていた。
宿題も終えて後は寝るだけになった葵は、机の上にあった鏡を覗き込んだ。前髪を整え、口元を緩めてニタッとしてみる。
「気持ち悪い」
ベッドに移動して倒れ込むと、大きく一つ溜息を吐いた。梨奈が来たときに言われたことを思い出した。
部屋に閉じこもり、何もせずに座っていた葵の身体を包み込むと、優しい声で言った。
「これは私の推測なんだけど、遊馬君は葵のことを嫌いになったんじゃないと思うの」
どこか奥底に沈んで、止まっていた葵の心が動いた。
「私も芸能界にいたから分かるんだけど、売れ出すと事務所から恋人がいるか聞かれて、いれば大半は別れさせられるの」
それは、葵が芸能人と付き合うと言った時点で気が付くべき事だった。
「ごめんね。こんな基本的なことを忘れているなんて、私が早くに気が付いていれば、付き合ってみればなんて勧めなかったのに。ごめんね」
梨奈は慰めに来たのに泣き出してしまった。その涙声を聞いて慌てた葵が、逆に慰める
「ありがとう。私のために泣いてくれて。その話が推測だとしても良いの。たった二ヶ月だったけれど楽しかったし、それで良いの。後悔はしていないから」
涙で目が赤くなった梨奈を、ギュッと抱きしめた。
何分、泣いていただろう、やっと落ち着くと、お互いがお互いを慰め合うというシチュエーションに顔を見合わせて笑い出した。
「そうそう。葵ちゃんは、そうやって笑っている方が良いよ」
「うん」
「そうだ」
梨奈は何かを思いついたのか、葵の手を取って上下に振った。
「ねえ、葵ちゃん。葵ちゃんも芸能活動してみるっていうのは、どう?」
「え?芸能活動って、……私が?」
「うんうん。それが良いよ。どんな理由があるにしろ、振ったことを後悔させようよ。葵ちゃんは可愛いんだから、もっと魅力的になってさ」
一人で盛り上がり暴走気味になっている梨奈を見て、葵の表情が青ざめてくる。
「まずはモデルとしてカメラマンの人に紹介してあげるから、今度の日曜日、空けておいて」
「モデル?そ、そんなこと出来ないよ」
「大丈夫だよ。決まり。もう決めたからね。絶対、空けておいてよ」
「そんな、ダメよ」
「ダメ。落ち込んでいる暇があったら、色々なことに挑戦した方が良いって。キャンセルは受け付けないからね。じゃあね〜」
何度も嫌だと言っているのに聞く耳を持たずに決定すると、部屋を出て行ってしまった。
というわけで、鏡の前で笑ってみたのはモデルをやろう言われたからだった。
「強引なんだから」
まあ今となっては、その強引さに感謝していた。
梨奈の言うとおり、いつまでも落ち込んでいるなんて時間がもったいないし、モデル経験なんて、そう縁があるものではない。しかし、興味が出始めた葵であったが、どうしたらいいものかと頭を悩ませていた。
プリクラは茜に付き合って写したことがあるが、いつも「ほら葵、いい顔して」と言われる。
「そうだ」
葵はふと、匠のことを思い出した。写真部の匠なら、モデルのやり方を教えてくれるだろう。せっかくプロのカメラマンに撮ってもらうのだから、アドバイスが欲しかった。
「ねえ、葵」
そろそろ寝ようとしていると、ドアの向こうから茜が声を掛けた。
「なに?」
「早く元気になってね」
「うん。ありがとう」
「おやすみ」
「おやすみなさい」
葵は、姉思いの妹に感謝しながら眠りに就いた。
※公募作執筆のため、しばらくお休みします。