四 〜体育祭〜
数日後の体育祭当日は、晴れどころか大雨となった。しかし延期にはならないのが、この学校の凄いところだ。さすがに屋外の競技は
中止になったが、体育館で行う競技なら大丈夫。強豪運動部を有している夕凪学園は、体育館を三つも持っている。急遽、出場種目を変更して
効率よく進行していった。
「あ〜、もう負けちゃったよ。ボールは手で扱う物なのに」
昼も近くなってきた頃、フットサルに出ていた茜が早々に引き上げてきた。葵のことが気になったので、プールへと続く廊下をジャージ姿で
歩いていると、第一体育館のドアの向こうから歓声が聞こえてきた。
「かなり盛り上がってるなあ」
確か、第一体育館ではバスケットが行われているのを思い出し、ふてくされ顔から一変、興味津々にドアを開けると大勢の観客の中で試合が
行われていた。スコアボードを見ると、一年D組と三年A組の試合だった。どうやら一年D組の方が勝っているようだ。何でこんなに
盛り上がっているのか知りたくて目を凝らしてみると、三年生チームの中にバスケ部の先輩を見つけた。
本来、所属する部活には出てはいけないのだが、雨のため急遽、種目を変更したため一人だけなら許されていた。
「え?確か」
もう一度スコアボードを見た。
「一年の方が勝ってるよね」
とその時、一際大きな歓声が上がった。
「十五番、また止めるかな」
観客の声につられるように十五番の選手を探すと、その選手はゴール下に陣取っていた。ポジションは、どうやらセンターらしい。
次の瞬間、先輩がドリブルで切り込んで放ったシュートを完璧にブロックした。
「凄い」
その先輩はベンチに入る実力者のはず。バスケ部員をあんな風に封じるなんて、とても素人の出来ることじゃない。
「茜、茜。今の見た?」
そこに茜を見つけた梨奈が話し掛けてきた。
「うん。梨奈、ずっといたの?」
「いたいた。あの十五番の娘、ホント凄いんだよ。あの人、バスケ部なんでしょ。半分以上は止めてるよ」
「そんなに?」
その言葉は、かなりの衝撃だった。
「誰なの?何部なんだろう」
「そう言えば私、あの娘のこと知ってる。確か、図書委員だよ」
「図書委員?」
素っ頓狂な声を出す。
「うん。部活の時間に図書室で受け付けしていたから、そうだと思うけど」
その試合は結局、一年D組が勝った。
「ぜひスカウトに行かないと、名前覚えてる?」
「え〜と、確か、遠矢美羽さん」
美羽がやっていたセンターのポジションは、長身の選手がつく守りの要のポジションだ。今年、全国から集まってきたバスケ部員の一年生には、そのポジションが不足していた。
茜が、善は急げとばかりに観客席の階段を降りていこうとすると、梨奈が腕を取った。
「茜、もうすぐ葵ちゃんの出番だよ」
「え?そうなの?」
「うん。この試合の前まで、プールにいたんだ」
平泳ぎに出場している葵は、順調に勝ち進んでいた。
「う〜。分かった。スカウトは後にする」
姉のことが心配な茜は、梨奈とともにプールへ急いだ。
一端外に出て目の前に見える室内プールは実に立派で、50メートルプールと飛び込み種目専用の可動床プールまである。
二人は中に入り、二階の観客席へ続く階段を駆け上がる。そしてドアを開けると、プール特有の塩素臭が鼻をつき、顔に湿気がまとわりついて
きた。
「ここも盛り上がっているね」
隣の人の声も聞こえにくいほどの歓声の中、梨奈が茜の耳元で言った。
「ホント」
プールへ目をやると、平泳ぎが行われていた。葵が出ると言っていた種目だ。電光掲示板を見ると『平泳ぎ一00M準決勝』とあり、
五コースに葵の名前があった。今は三位に着けている。
「折り返したよ。凄い、葵ちゃん。ちょっとずつ差を詰めてるよ」
「うん。そこだ、いけ〜」
上から見ると四コースを先頭にして、くの字を形成していたのだが、五コースの葵が追いかけている。
「あっ」
順調に追い上げていた葵が突然、もがいたかと思ったら、水泡を残して沈んでしまった。
「葵!!」
一瞬、何が起こったのか分からなかった茜だったが、すぐに観客席の階段を駆け下りると、手すりに手を掛けた。下へ飛び降りようとした所を、梨奈が慌てて掴んだ。
「待って。誰かが飛び込んだから」
「え?」
周りが騒然としている中プールを見ると、クロールで向かっている男がいた。沈んだ辺りで大きく息を吸うと、葵を助けるため潜っていった。
「まだなの?」
潜った後、茜にはほんの数秒が何分にも感じられた。
「出てきたよ」
咳き込む葵を抱えながら、男はゆっくりとプールの端までたどり着いた。
「遊馬君だったんだ」
梨奈の言うとおり、葵を救出した男とは健吾だった。葵の身体を下から抱え上げると、後は集まっていた救助係に任せる。担架に乗せられて
出ていくのを見送りながら自分もプールから出ると、健吾に向けて拍手が降りそそいだ。
「やるじゃない。どうしたの、茜」
手を叩きながら感心している梨奈の横で、茜は複雑な表情を浮かべていた。
「嫌な予感がする」
その予感は当たっていた。
大事にいたらなかった葵は助け出された後、保健室で休んだだけで帰宅できた。それは良かったのだが、茜は部活を終えて帰ってきてからずっと、惚気話を聞かされ続けるという被害を受けた。
居間でテレビを見ているときも、食事をしているときも、食器の後片づけを二人でしているときも、挙げ句の果てにはお風呂に入っている
ところに後から入ってきて延々と話し続ける始末。
「あまり覚えていないんだけど、頼もしかったな。こうね。遊馬君の胸に抱かれてね」
茜を健吾に見立てて、胸の中に頭を埋めた。
「いい加減にしてよ。もう聞き飽きた」
投げやりな相槌を打つだけで、ほとんど聞いていなかった茜だったが、遂に堪忍袋の緒が切れた。肩まであった水位が下がり、
浴室を飛び出した。
「怒ってるの?」
「怒ってないよ」
その言葉とは裏腹に、吐き捨てるように答えてしまう。
「ごめんね」
小さな声で呟くのが聞こえた。
「怒ってないから。先、行くよ」
初めての恋愛に舞い上がっている気持ちも分からないでもないが、この恋愛に反対の茜にとっては気分の良いものではない。
「あいつが告白なんてするから悪いんだ」
告白を受け入れた葵ではなく、切り出した健吾に怒りの矛先が向けられることで姉妹喧嘩は回避したが、もう一つ気になることがあった。
「たぶん大丈夫」
しかし、その願いは、翌日登校するとすぐに破れた。
校内にいくつかある掲示板の全てに貼られた新聞部発行の校内新聞に、昨日の救出時の写真が大きく載ったのだ。
「何なの、これは」
茜は掲示板に集まっている生徒達をかき分けて、それをバシバシと叩いた。
「私ってば、こんな顔してたんだ。恥ずかしい」
後ろから遅れてきた葵が、脳天気に写真の感想を言う。溺れた直後なのだから、まともな表情のわけがない。そんなこと観衆が
気にするはずもないのだが、当の本人には重要な問題らしい。
「いたいた。いま来たの?大変だよ、茜」
「梨奈。大変って何?」
早くに来ていた梨奈が、茜の耳元に囁く。
「え?本当?」
二つ目の予感が当たってしまった。噂が広まるのはアッと言うまで、この写真を切っ掛けにして、すでに葵と健吾が付き合っていることが
全校に広まっているという。
「新聞部め〜。梨奈、新聞部の部室はどこ?」
「文化部棟だから、あっちだけど。あっ」
聞くが早いか、茜は全速力で新聞部の部室へダッシュしていた。
「誰もいないと思うんだけど……」
すでに見えなくなった茜に向かって、梨奈の言葉が虚しく消える。
「茜ちゃん、どこに行ったの?」
「ん?葵ちゃんは気にしなくて良いと思うよ」
「ふうん」
自分のことなのに、まったく気が付かない葵だった。
「ここね」
文化部の部室が並んでいる棟の一室、新聞部のプレートが張ってあるドアに手を掛けた。豪快に開けて驚かそうと力を入れたが、
ガタガタと動くだけで開かなかった。それもそのはず、放課後にならないと誰もこないからだ。
「誰もいないの?」
ドアを壊さんばかりに何度もノックする。今週号として、すぐ横に貼ってあった同じ新聞を見て、また怒りが込み上げてきた。
「ん?」
写真の下に小さく載っている、カメラマンの名前が目に入った。
「鳴海匠?」
その名前には見覚えがあった。同じクラスの鳴海匠だ。あまり目立たないタイプの生徒で、今まで特に会話をしたことがない。
「あいつは確か、写真部だったはず」
誰からだったか、中学校からここに通っているクラスメートから聞いたことがある。鳴海はいわゆるハイアマチュアカメラマンで、
カメラ雑誌やコンテストで何度も入賞したことがある。専門は風景だが、その腕を見込んで写真を撮って欲しいという女子が結構いるとも
聞いた。
教室に駆け込んできた茜は、鳴海の席を睨んだ。
「いた」
大股開きで近づいていって、目の前で顔を指差し文句を言おうとした瞬間にチャイムが鳴った。
「ちょっと鳴海君!!」
「なに?」
「校内新聞に載った写真のことだけど」
茜は机を強く叩いてまくし立てた。
「ああ。あの写真か。あれがどうかしたのか。おっ、話は後だ」
匠は担任が入ってきたので、茜の肩を掴んでどけた。
「ちょっと」
「水瀬。早く席に着け。昨日までの体育祭気分が抜けていないのか?早く切り替えろよ。じゃあ、出席とるぞ」
茜は担任を横目でチラリと見ると渋々、自分の席へ着いた。
二時限目が終わった後、茜はやっと匠を捕まえた。目を真っ直ぐに見据えて、強気で迫る。
「何で、あんな写真を載せたのよ」
「俺は新聞部じゃないよ。たまたま写真部の仕事でプールにいた俺に、あのシーンの写真がないかって新聞部の奴に聞かれたから、
あれを出しただけだ」
「出さなきゃ良かったんだから、同じことでしょ」
「断る理由がない。前もって、お前に言われたわけじゃないからな」
「そ、それは。で、でも、姉さんに許可なく載せたでしょ」
「それは新聞部の役目だ」
「うう」
明らかに言い掛かりをつけている茜の方が、分が悪い。
「何か不都合でもあったのか?」
「そ、それは、姉さんと遊馬君が付き合っているっていう噂が広まっちゃって」
「それって嘘なのか?」
「……本当」
正当なことを言われて、初めの勢いが無くなってしまった。
「じゃあ、俺はまったく悪くないだろ」
「……そうね」
視線を外して、力なく呟く。
「じゃあ俺は行くぞ。次は物理だからな」
「く、悔しい〜。何、あの態度は〜」
次は移動教室のため、さっさと教室を出ていく匠の背中を見て地団駄を踏んだ。