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帳を置いて、下がります

「君の声を聞くのも煩わしい」と仰ったので、声はしまっておきました——旦那様が縋っても、もうお出ししません

作者: 真神 慧
掲載日:2026/07/25

「君の声を聞くのも煩わしい」


焼き林檎を刺し損ねた。


銀のフォークが皿を滑り、香ばしい端のところがソースへ落ちる。なんという侮辱。焼き林檎に対して、である。せっかく料理長が表面を薄く焦がしてくれたのに。


「どこへ出ても歌だの挨拶だの、帰れば今日あったことを話す。少しは静かにできないのか」


旦那様はナイフを置き、私を見もしなかった。どうやら食卓で返事をすることまで、今夜からは過剰な娯楽に分類されたらしい。


私はナプキンで指を拭き、いつも持ち歩いているカード入れから、手のひら大の白いカードを一枚抜いた。ペンの尻でこめかみを一度叩く。


口から出かかったものを、そこで仕分ける。


たいへんよろしい、返品不可。


私はさらさらと書き、皿の向こうへカードを滑らせた。


「声は、しまってございます」


旦那様はようやく私を見た。


「……何だ、これは」


私は二枚目のカードを取り出した。


「焼き林檎のお代わりをお願いいたします」


返事はない。仕方がないので給仕へ向けると、給仕は口元を引き結び、見事な焼き色の半分を追加してくれた。


旦那様は鼻で息を吐いた。私が拗ねたと思ったのだろう。


違いますとも、と書くのもおしゃべりなので控えて差し上げた。今夜から、とびきり静かな妻である。なんと注文どおり。誉めていただきたい。


翌朝、私のカード入れには、白いカードがきっちり三十枚収まっていた。


朝食の卓上にまで持ち込むには多すぎる気もするけれど、旦那様のご希望はなにしろ静寂だ。静寂には紙が要る。あとインクと、事情を心得た侍女が一人。


「奥様、本日のご予定を確認いたします」


テッサは背筋を伸ばして立っていた。いつもより無表情なのは、口元がうっかり仕事を放棄しそうだからだろう。


私は一枚目を書いて渡す。


「『午前は厨房と冬支度の確認。午後はマルグリット夫人の茶会へ。旦那様のお帰りは遅いとのことですので、夕食は先にいただきます』」


「まだ遅いとは言っていない」


旦那様が新聞の向こうから口を挟んだ。


私は二枚目をテッサへ渡した。


「『では、お帰りの時刻をご記入ください』」


カードとペンを添えて差し出すと、旦那様は受け取らなかった。おや。書くのはお嫌いらしい。声は煩わしくても、ご自分のものならいくらでもお使いになる。ずいぶん片側だけ風通しのよい静寂である。


結局、帰宅時刻は口頭で告げられた。テッサが帳面へ書き留め、私は厨房へ夕食の変更を頼むカードを回す。


パンの焼き上がり、客室の火入れ、冬用の敷布、仕入れの勘定。声を使わなくても家は回った。私の指が少々忙しくなっただけで、旦那様の靴下が片方ずつ消えるような悲劇も起きない。


「奥様、料理長からです。今日の魚は予定より良いものが入ったそうです」


「『香草焼きに。皮はぱりぱりでお願いします』」


「承知しました」


「朝から魚の話か」


旦那様が新聞を畳んだ。


私はカードを書いたが、そちらへは向けず、テッサへ渡した。


「『人生は短いのです。夕食の相談は早いほどよろしいでしょう』」


テッサの声が最後だけ少し揺れた。笑うなら笑ってよいのに。旦那様の前でなければ、私も一緒に笑えたのだけれど。


「昨夜のことをまだ根に持っているのか」


私は紅茶を飲んだ。


「昼には商会の者が来る。そうだ、先月頼んだ絨毯は届いたのか。玄関広間には少し暗いと思うが、君はどう思う。ああ、今夜は客が来るかもしれない」


ひとつ尋ねて、答えの代わりに次を重ね、さらに次を載せる。旦那様は以前、朝食には静けさが必要だと言っていたはずだ。今朝はずいぶん盛況である。


私は蜂蜜をひと匙、紅茶へ落とした。


旦那様は咳払いをした。


「その、茶会では失礼のないように」


もちろん。私はいつだって礼儀正しい。人の声を煩わしいとは申しませんもの。


午後の茶会では、私がカード入れを卓上に置いた途端、マルグリット夫人が扇の陰で笑った。


「まあ、今日はずいぶん珍しい趣向ね。喉でも痛めたの?」


私は一枚書き、夫人へ見せる。


「『いいえ。家風に静けさを取り入れております』」


「新しい流行かしら」


「『旦那様が最初の愛好家です』」


マルグリット夫人の肩が揺れた。しれっと答えただけである。誰も旦那様の先見性を笑ってなどいない。たぶん。


向かいに座った年嵩の婦人が、細い眉を上げた。


「でも、話せないのでは茶会もおつらいでしょう。あなた、昔から少しおしゃべりが過ぎましたものね」


はい来た。焼きたて。湯気まで立っている嫌味である。


私はペンを走らせ、テッサへ渡した。


「『人のお話を遮る悪癖を矯正中です。これでようやく、淑女の入口が見えてまいりました』」


年嵩の婦人は満足そうに頷きかけ、自分がその入口の外へ押し出されたと気づいたらしい。カップの持ち手を二度撫でた。


ほかの皆さまは、私が次のカードを抜くたび、少し身を乗り出すようになった。口を閉じた私へ、なぜ昨日までより楽しそうに話しかけてくるのだろう。世の中は理不尽だが、茶菓子が充実しているので許す。


「エレノア様、先日の件は本当に助かりましたわ」


隣席の夫人が言った。


「主人と弟が口も利かなくなっていたでしょう? あなたがそれぞれから話を聞いて、同じ卓へ座らせてくださらなかったら、今も意地を張っていました」


私は書いた。


「それはお二人が互いの話を聞いたからです」


「でも、聞くところまで連れていったのはあなたよ」


マルグリット夫人がカードを覗き込み、からりと言った。


そういうものだろうか。旦那様からは、私が余計な話へ首を突っ込んだことになっていた。けれど仲直りした二人から届いた桃は、旦那様もたいそう気に入って三つ召し上がった。余計な桃はおいしい。


話題が音楽へ移ると、誰かが残念そうに息をついた。


「今日は歌もお願いできないのね。あなたの春の歌、好きなのに」


指がカードの上で止まった。


その横へ、砂糖をまぶしたレモン菓子の皿が置かれる。マルグリット夫人が一つ取り、次に年嵩の婦人が手を伸ばした。残り一つ。


私はすばやく書いてテッサへ渡した。


テッサは表情を消した。


「『話せぬ身ですので、せめて最後のレモン菓子をお譲りいただければ幸いです』」


年嵩の婦人の手が止まった。


私は淑女らしく微笑み、無事にレモン菓子を確保した。声を失っても社交性は失われないし、甘味に対する判断力など、むしろ研ぎ澄まされている。


帰宅すると、旦那様は書斎にいた。


「茶会はどうだった」


私はマントをテッサへ預けた。


「何か言われなかったか。マルグリット夫人は? 君が黙っていたら、先方も困っただろう」


カード入れには触れず、手袋を外す。旦那様へ向けるカードは、もうなかった。


「いつまで続けるつもりだ」


私が廊下へ出ると、旦那様もついてきた。


「エレノア。聞いているのか」


聞いておりますとも。旦那様の声はよく通る。私の分までお使いになっているので、近頃ますます磨きがかかった。


その夜の食卓で、旦那様は新聞で読んだ議会の話をした。次に天候、馬車の車輪、料理の塩加減、昔会った音楽家の噂。


私は魚の皮を割った。ぱりり、と実によい音がした。


旦那様はその音にまで顔を上げた。


(どうせじきに音を上げる。人前で話すことも歌うことも、あれほど好きなのだから)


カードにすれば三枚は要る自信満々ぶりである。


十日ほどたつと、「お静かな奥方様」は妙な人気を得た。


私は茶会や訪問へ以前どおり出かけた。玄関ではカードで挨拶し、相談には相手が話し終えるまで耳を貸し、必要なら短い一文を渡す。話を聞いてほしい人にとって、途中で自分の経験を差し挟まない相手は都合がよいらしい。


以前の私は、旦那様の客へ挨拶し、険悪になった二人の間へ話題を滑り込ませ、食後には歌った。


旦那様はそれを、花瓶の花と同じように扱っていた。卓上にあれば使う。誰が水を替えたかは知らない。もっとも私は花瓶と違い、皿の最後の菓子を奪う。


ある日、クラリスの祝いへ招かれた。


婚約でも結婚でもない。彼女が長く手がけていた刺繍絵を完成させたので、親しい者だけで祝おうという会だった。祝いとは、このくらい好き勝手な理由で開くのがよろしい。私なら難しい譜面を一度も間違えずに歌えた日にも開きたい。


壁にはクラリスの刺した庭園が掛けられていた。何百色もの糸で、春の光まで縫い留めたような絵だった。


「どう? 遠くからなら粗が見えないでしょう」


私は首を横へ振り、カードを書く。


「『近くで見ても、粗を見つけるには百年かかります』」


「では、百年後にもう一度来てちょうだい」


クラリスはそのカードを胸元へ掲げた。褒め言葉をここまで堂々と飾られると、書いた側が気恥ずかしい。返してください。少し控えめな文面へ差し替えたい。


誰かが小さな竪琴を奏で始めた。


クラリスが私を見た。唇が「歌って」と形を作りかける。


私の指は、喉へ触れていた。


歌える。


痛めたわけでも、忘れたわけでもない。息を吸えば、いつもの最初の音がそこにある。クラリスの庭園へ、春の歌を重ねたかった。彼女が何度も糸をほどき、結び直した夜まで明るくするように。


クラリスは私の指を見て、口を閉じた。


「……この曲、最後まで聴いていって」


私は頷いた。


新しいカードへ、祝いの言葉を書いた。いつもの機知も、逃げ道も入れず、完成を見せてくれて嬉しいこと、百年後にも見たいことをそのまま書いた。


クラリスは両手で受け取り、刺繍絵のそばに立てかけた。


竪琴だけで終わった祝いは、少しも足りなくなかった。だからこそ帰りの馬車で、喉から離した指を、膝の上で握っておかなければならなかった。


屋敷へ戻ると、旦那様が玄関広間で待っていた。


「クラリスの祝いだったそうだな。歌わなかったのか」


私はマントの留め具を外した。


「まさか、本当に一音も?」


テッサがマントを受け取る。私はカード入れを閉じたまま、階段へ向かった。


「そこまで意地を張るな、エレノア」


足が止まった。


旦那様は、自分の命令を私の意地へ着替えさせた。ずいぶん仕立ての悪い上着である。袖から元の言葉が丸見えだ。


振り返ると、旦那様は安堵したように息をついた。ようやく反応した、と思ったらしい。


私は一礼だけして、階段を上がった。


その翌週、旦那様が公務の客人を招いた。


晩餐には十人ほどが集まり、銀器も花も料理も申し分なかった。旦那様は上機嫌で客人を迎え、一人ひとりに流れるような言葉をかけた。さすが弁舌で世を渡る方。声の在庫が豊富で羨ましい。


私は旦那様の隣に立ち、白いカードで挨拶をした。


最初の客人はカードを受け取って微笑んだものの、私の顔を見たまま、少し待った。


「今夜は、エレノア様のお声でお迎えいただけないのですね」


旦那様がすぐに笑った。


「妻は近頃、妙な遊びを覚えまして。どうぞ気になさらず」


客人はもう一度カードを見た。


「遊び、ですか」


私の歓迎の言葉は丁寧に並んでいる。けれど客人が待っていたのは、紙の白さではなかったらしい。


席に着くと、旦那様は途切れなく話した。交易の見通し、道の整備、倉庫の不足。どれも必要な話だ。必要な話だけで人が親しくなれるなら、議事録同士で結婚すればよろしい。


向かいの客人が、隣の者と目を合わせた。


「以前、エレノア様にご相談した件ですが」


旦那様が頷く。


「ああ、あれなら私も承知しています」


「いえ。お二方をもう一度同席させるにあたり、エレノア様から先方へお口添えいただければと」


旦那様の笑みが、ほんの少し薄くなった。


「私から伝えましょう」


「先方は、エレノア様のお言葉なら聞くと」


私へ顔が向く。


私はカードへ書いた。


「ご本人からお話しになるのがよろしいかと存じます」


客人はそれを読み、しばらく黙ってから胸元へしまった。


「わかりました。自分で参ります」


旦那様はすぐ次の話題を出した。料理、狩り、最近届いた葡萄酒。いつもなら私が誰かの故郷の話へつなぎ、別の誰かが笑えるところまで運ぶ。今夜は旦那様の言葉だけが卓上を走り、行き先をなくして戻ってくる。


食後、客人の一人が壁際の楽器を見た。


「今夜は歌をお願いできるものと思っておりました」


別の客人も頷いた。


「エレノア様の歌を楽しみにしていたのです。前回の、川辺の夕暮れを歌った曲をもう一度と」


「妻は——」


旦那様が言いかける。


「ご本人に伺っております」


客人は穏やかに遮った。


皆の目が私へ集まった。無理に歌わせようとする目ではない。ただ、私が歌うかどうかを待っている。


私はカード入れの留め金へ指を置いたまま、動かなかった。


やがて一人が視線を伏せた。もう一人は空になったグラスを置く。期待が、ひとつずつ顔から消えていった。


旦那様は新しい話題を探した。


見つからない。


「エレノア」


声が低くなった。


私はそちらを見る。


「客人の前だ。挨拶だけでもいい。いつものように場を——」


テッサが私の後ろに控えていることへ気づき、旦那様は手招きした。


「テッサ。エレノアの返事を」


テッサは動かなかった。


いつもなら私のカードを読み上げる口を、まっすぐ閉じている。旦那様の命令で、私の代わりに返事を作る気はないらしい。


「何をしている。カードを読め」


読むカードは、まだない。


旦那様の手が卓の縁を掴んだ。客人の前では流暢だった声から、飾りが削れていく。


「言葉の綾だった。頼む、ひとこと」


初めて旦那様の顔から、弁舌だけがきれいに消えた。


私は一枚抜いた。


ペンの尻でこめかみを一度叩く。


旦那様の目は、ペンの尻を素通りしてカードへ落ちた。


私は書き終えたカードを、今度だけは旦那様へまっすぐ向けた。


「声は、しまってございます」


旦那様の唇が動いた。


音は出なかった。


卓の縁を掴んだ指から力が抜ける。


先に音を上げたのは旦那様だった。


これは少々、胸のすく採点結果である。満点に花丸まで差し上げたい。


私はカードを引き戻し、テッサへ渡した。


テッサは読まずに、カード入れへ収めた。


「本日は失礼いたします」


マルグリット夫人が席を立つと、客人たちも続いた。旦那様は引き留める言葉をいくつも持っていたはずなのに、誰の足も止まらなかった。


私は最後の一人へ一礼した。


その夜を境に、旦那様は一人で社交の席へ出るようになった。


どこで誰と何を話し、どの話がまとまらなかったのか、私は尋ねなかった。謝罪らしい手紙も釈明らしい手紙も届いたが、返事をする役目はもう引き受けない。言葉の綾は、言った方がご自分でほどけばよろしい。


私はクラリスの祝いでもらった小さな花を、窓辺で乾かした。白いカードは相変わらず使ったけれど、旦那様の食卓へ置くことはなかった。


ほどなく、マルグリット夫人から一枚の招待状が届いた。


私的な音楽の集いを開くという。演目も席順も堅苦しく決めず、弾きたい者が弾き、聴きたい者が聴く夜らしい。


末尾に、夫人の大きな字が添えてあった。


『役目ではなく、あなたが来たい日にいらっしゃい』


その下には、さらに小さく書かれていた。


『歌ってくださるなら嬉しい。でも、使わせてほしいのではないの。私はあなたの歌を聴きたいのよ』


その一文を、私は指でなぞった。


集いの日、部屋には二十人ほどが集まっていた。


クラリスは刺繍絵の前でもらったカードを、本当に持ってきていた。返してほしい。恥ずかしい。百年後まで保存する気ではあるまいな。


けれど彼女は歌をねだらなかった。マルグリット夫人も、楽器のそばに立つ私を急かさない。


ほかの人々も黙って待っていた。


役に立つ挨拶をするためではない。誰かの仲を取り持つためでも、旦那様の客を楽しませるためでもない。


私が歌うかどうかを、私に任せたまま待っている。


喉へ指を触れた。


あの日、クラリスの祝いで押し戻した音が、まだそこにあった。


私は手のひら大の白いカードを一枚抜いた。今夜の礼を書くつもりで持ってきたけれど、やめた。


カードを戻す。


留め金を掛け、カード入れを閉じた。


息を吸う。


最初の音は、少し震えた。


マルグリット夫人は笑わず、頷きもせず、ただこちらを見ていた。クラリスは胸の前で手を組み、次の音を待っている。


二つ目は、待っていた人たちの笑顔まで届いた。


春の野を渡る風の歌だった。


窓の外は冬だったけれど、構わない。歌いたい季節くらい、私が選ぶ。

ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。

「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。

作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。

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― 新着の感想 ―
夫は妻のせいでなく自分のどこが悪かったか考えるようになればまた妻の歌が聴けるだろうけど、当分無理そうだなぁ。
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