「君の声を聞くのも煩わしい」と仰ったので、声はしまっておきました——旦那様が縋っても、もうお出ししません
「君の声を聞くのも煩わしい」
焼き林檎を刺し損ねた。
銀のフォークが皿を滑り、香ばしい端のところがソースへ落ちる。なんという侮辱。焼き林檎に対して、である。せっかく料理長が表面を薄く焦がしてくれたのに。
「どこへ出ても歌だの挨拶だの、帰れば今日あったことを話す。少しは静かにできないのか」
旦那様はナイフを置き、私を見もしなかった。どうやら食卓で返事をすることまで、今夜からは過剰な娯楽に分類されたらしい。
私はナプキンで指を拭き、いつも持ち歩いているカード入れから、手のひら大の白いカードを一枚抜いた。ペンの尻でこめかみを一度叩く。
口から出かかったものを、そこで仕分ける。
たいへんよろしい、返品不可。
私はさらさらと書き、皿の向こうへカードを滑らせた。
「声は、しまってございます」
旦那様はようやく私を見た。
「……何だ、これは」
私は二枚目のカードを取り出した。
「焼き林檎のお代わりをお願いいたします」
返事はない。仕方がないので給仕へ向けると、給仕は口元を引き結び、見事な焼き色の半分を追加してくれた。
旦那様は鼻で息を吐いた。私が拗ねたと思ったのだろう。
違いますとも、と書くのもおしゃべりなので控えて差し上げた。今夜から、とびきり静かな妻である。なんと注文どおり。誉めていただきたい。
翌朝、私のカード入れには、白いカードがきっちり三十枚収まっていた。
朝食の卓上にまで持ち込むには多すぎる気もするけれど、旦那様のご希望はなにしろ静寂だ。静寂には紙が要る。あとインクと、事情を心得た侍女が一人。
「奥様、本日のご予定を確認いたします」
テッサは背筋を伸ばして立っていた。いつもより無表情なのは、口元がうっかり仕事を放棄しそうだからだろう。
私は一枚目を書いて渡す。
「『午前は厨房と冬支度の確認。午後はマルグリット夫人の茶会へ。旦那様のお帰りは遅いとのことですので、夕食は先にいただきます』」
「まだ遅いとは言っていない」
旦那様が新聞の向こうから口を挟んだ。
私は二枚目をテッサへ渡した。
「『では、お帰りの時刻をご記入ください』」
カードとペンを添えて差し出すと、旦那様は受け取らなかった。おや。書くのはお嫌いらしい。声は煩わしくても、ご自分のものならいくらでもお使いになる。ずいぶん片側だけ風通しのよい静寂である。
結局、帰宅時刻は口頭で告げられた。テッサが帳面へ書き留め、私は厨房へ夕食の変更を頼むカードを回す。
パンの焼き上がり、客室の火入れ、冬用の敷布、仕入れの勘定。声を使わなくても家は回った。私の指が少々忙しくなっただけで、旦那様の靴下が片方ずつ消えるような悲劇も起きない。
「奥様、料理長からです。今日の魚は予定より良いものが入ったそうです」
「『香草焼きに。皮はぱりぱりでお願いします』」
「承知しました」
「朝から魚の話か」
旦那様が新聞を畳んだ。
私はカードを書いたが、そちらへは向けず、テッサへ渡した。
「『人生は短いのです。夕食の相談は早いほどよろしいでしょう』」
テッサの声が最後だけ少し揺れた。笑うなら笑ってよいのに。旦那様の前でなければ、私も一緒に笑えたのだけれど。
「昨夜のことをまだ根に持っているのか」
私は紅茶を飲んだ。
「昼には商会の者が来る。そうだ、先月頼んだ絨毯は届いたのか。玄関広間には少し暗いと思うが、君はどう思う。ああ、今夜は客が来るかもしれない」
ひとつ尋ねて、答えの代わりに次を重ね、さらに次を載せる。旦那様は以前、朝食には静けさが必要だと言っていたはずだ。今朝はずいぶん盛況である。
私は蜂蜜をひと匙、紅茶へ落とした。
旦那様は咳払いをした。
「その、茶会では失礼のないように」
もちろん。私はいつだって礼儀正しい。人の声を煩わしいとは申しませんもの。
午後の茶会では、私がカード入れを卓上に置いた途端、マルグリット夫人が扇の陰で笑った。
「まあ、今日はずいぶん珍しい趣向ね。喉でも痛めたの?」
私は一枚書き、夫人へ見せる。
「『いいえ。家風に静けさを取り入れております』」
「新しい流行かしら」
「『旦那様が最初の愛好家です』」
マルグリット夫人の肩が揺れた。しれっと答えただけである。誰も旦那様の先見性を笑ってなどいない。たぶん。
向かいに座った年嵩の婦人が、細い眉を上げた。
「でも、話せないのでは茶会もおつらいでしょう。あなた、昔から少しおしゃべりが過ぎましたものね」
はい来た。焼きたて。湯気まで立っている嫌味である。
私はペンを走らせ、テッサへ渡した。
「『人のお話を遮る悪癖を矯正中です。これでようやく、淑女の入口が見えてまいりました』」
年嵩の婦人は満足そうに頷きかけ、自分がその入口の外へ押し出されたと気づいたらしい。カップの持ち手を二度撫でた。
ほかの皆さまは、私が次のカードを抜くたび、少し身を乗り出すようになった。口を閉じた私へ、なぜ昨日までより楽しそうに話しかけてくるのだろう。世の中は理不尽だが、茶菓子が充実しているので許す。
「エレノア様、先日の件は本当に助かりましたわ」
隣席の夫人が言った。
「主人と弟が口も利かなくなっていたでしょう? あなたがそれぞれから話を聞いて、同じ卓へ座らせてくださらなかったら、今も意地を張っていました」
私は書いた。
「それはお二人が互いの話を聞いたからです」
「でも、聞くところまで連れていったのはあなたよ」
マルグリット夫人がカードを覗き込み、からりと言った。
そういうものだろうか。旦那様からは、私が余計な話へ首を突っ込んだことになっていた。けれど仲直りした二人から届いた桃は、旦那様もたいそう気に入って三つ召し上がった。余計な桃はおいしい。
話題が音楽へ移ると、誰かが残念そうに息をついた。
「今日は歌もお願いできないのね。あなたの春の歌、好きなのに」
指がカードの上で止まった。
その横へ、砂糖をまぶしたレモン菓子の皿が置かれる。マルグリット夫人が一つ取り、次に年嵩の婦人が手を伸ばした。残り一つ。
私はすばやく書いてテッサへ渡した。
テッサは表情を消した。
「『話せぬ身ですので、せめて最後のレモン菓子をお譲りいただければ幸いです』」
年嵩の婦人の手が止まった。
私は淑女らしく微笑み、無事にレモン菓子を確保した。声を失っても社交性は失われないし、甘味に対する判断力など、むしろ研ぎ澄まされている。
帰宅すると、旦那様は書斎にいた。
「茶会はどうだった」
私はマントをテッサへ預けた。
「何か言われなかったか。マルグリット夫人は? 君が黙っていたら、先方も困っただろう」
カード入れには触れず、手袋を外す。旦那様へ向けるカードは、もうなかった。
「いつまで続けるつもりだ」
私が廊下へ出ると、旦那様もついてきた。
「エレノア。聞いているのか」
聞いておりますとも。旦那様の声はよく通る。私の分までお使いになっているので、近頃ますます磨きがかかった。
その夜の食卓で、旦那様は新聞で読んだ議会の話をした。次に天候、馬車の車輪、料理の塩加減、昔会った音楽家の噂。
私は魚の皮を割った。ぱりり、と実によい音がした。
旦那様はその音にまで顔を上げた。
(どうせじきに音を上げる。人前で話すことも歌うことも、あれほど好きなのだから)
カードにすれば三枚は要る自信満々ぶりである。
十日ほどたつと、「お静かな奥方様」は妙な人気を得た。
私は茶会や訪問へ以前どおり出かけた。玄関ではカードで挨拶し、相談には相手が話し終えるまで耳を貸し、必要なら短い一文を渡す。話を聞いてほしい人にとって、途中で自分の経験を差し挟まない相手は都合がよいらしい。
以前の私は、旦那様の客へ挨拶し、険悪になった二人の間へ話題を滑り込ませ、食後には歌った。
旦那様はそれを、花瓶の花と同じように扱っていた。卓上にあれば使う。誰が水を替えたかは知らない。もっとも私は花瓶と違い、皿の最後の菓子を奪う。
ある日、クラリスの祝いへ招かれた。
婚約でも結婚でもない。彼女が長く手がけていた刺繍絵を完成させたので、親しい者だけで祝おうという会だった。祝いとは、このくらい好き勝手な理由で開くのがよろしい。私なら難しい譜面を一度も間違えずに歌えた日にも開きたい。
壁にはクラリスの刺した庭園が掛けられていた。何百色もの糸で、春の光まで縫い留めたような絵だった。
「どう? 遠くからなら粗が見えないでしょう」
私は首を横へ振り、カードを書く。
「『近くで見ても、粗を見つけるには百年かかります』」
「では、百年後にもう一度来てちょうだい」
クラリスはそのカードを胸元へ掲げた。褒め言葉をここまで堂々と飾られると、書いた側が気恥ずかしい。返してください。少し控えめな文面へ差し替えたい。
誰かが小さな竪琴を奏で始めた。
クラリスが私を見た。唇が「歌って」と形を作りかける。
私の指は、喉へ触れていた。
歌える。
痛めたわけでも、忘れたわけでもない。息を吸えば、いつもの最初の音がそこにある。クラリスの庭園へ、春の歌を重ねたかった。彼女が何度も糸をほどき、結び直した夜まで明るくするように。
クラリスは私の指を見て、口を閉じた。
「……この曲、最後まで聴いていって」
私は頷いた。
新しいカードへ、祝いの言葉を書いた。いつもの機知も、逃げ道も入れず、完成を見せてくれて嬉しいこと、百年後にも見たいことをそのまま書いた。
クラリスは両手で受け取り、刺繍絵のそばに立てかけた。
竪琴だけで終わった祝いは、少しも足りなくなかった。だからこそ帰りの馬車で、喉から離した指を、膝の上で握っておかなければならなかった。
屋敷へ戻ると、旦那様が玄関広間で待っていた。
「クラリスの祝いだったそうだな。歌わなかったのか」
私はマントの留め具を外した。
「まさか、本当に一音も?」
テッサがマントを受け取る。私はカード入れを閉じたまま、階段へ向かった。
「そこまで意地を張るな、エレノア」
足が止まった。
旦那様は、自分の命令を私の意地へ着替えさせた。ずいぶん仕立ての悪い上着である。袖から元の言葉が丸見えだ。
振り返ると、旦那様は安堵したように息をついた。ようやく反応した、と思ったらしい。
私は一礼だけして、階段を上がった。
その翌週、旦那様が公務の客人を招いた。
晩餐には十人ほどが集まり、銀器も花も料理も申し分なかった。旦那様は上機嫌で客人を迎え、一人ひとりに流れるような言葉をかけた。さすが弁舌で世を渡る方。声の在庫が豊富で羨ましい。
私は旦那様の隣に立ち、白いカードで挨拶をした。
最初の客人はカードを受け取って微笑んだものの、私の顔を見たまま、少し待った。
「今夜は、エレノア様のお声でお迎えいただけないのですね」
旦那様がすぐに笑った。
「妻は近頃、妙な遊びを覚えまして。どうぞ気になさらず」
客人はもう一度カードを見た。
「遊び、ですか」
私の歓迎の言葉は丁寧に並んでいる。けれど客人が待っていたのは、紙の白さではなかったらしい。
席に着くと、旦那様は途切れなく話した。交易の見通し、道の整備、倉庫の不足。どれも必要な話だ。必要な話だけで人が親しくなれるなら、議事録同士で結婚すればよろしい。
向かいの客人が、隣の者と目を合わせた。
「以前、エレノア様にご相談した件ですが」
旦那様が頷く。
「ああ、あれなら私も承知しています」
「いえ。お二方をもう一度同席させるにあたり、エレノア様から先方へお口添えいただければと」
旦那様の笑みが、ほんの少し薄くなった。
「私から伝えましょう」
「先方は、エレノア様のお言葉なら聞くと」
私へ顔が向く。
私はカードへ書いた。
「ご本人からお話しになるのがよろしいかと存じます」
客人はそれを読み、しばらく黙ってから胸元へしまった。
「わかりました。自分で参ります」
旦那様はすぐ次の話題を出した。料理、狩り、最近届いた葡萄酒。いつもなら私が誰かの故郷の話へつなぎ、別の誰かが笑えるところまで運ぶ。今夜は旦那様の言葉だけが卓上を走り、行き先をなくして戻ってくる。
食後、客人の一人が壁際の楽器を見た。
「今夜は歌をお願いできるものと思っておりました」
別の客人も頷いた。
「エレノア様の歌を楽しみにしていたのです。前回の、川辺の夕暮れを歌った曲をもう一度と」
「妻は——」
旦那様が言いかける。
「ご本人に伺っております」
客人は穏やかに遮った。
皆の目が私へ集まった。無理に歌わせようとする目ではない。ただ、私が歌うかどうかを待っている。
私はカード入れの留め金へ指を置いたまま、動かなかった。
やがて一人が視線を伏せた。もう一人は空になったグラスを置く。期待が、ひとつずつ顔から消えていった。
旦那様は新しい話題を探した。
見つからない。
「エレノア」
声が低くなった。
私はそちらを見る。
「客人の前だ。挨拶だけでもいい。いつものように場を——」
テッサが私の後ろに控えていることへ気づき、旦那様は手招きした。
「テッサ。エレノアの返事を」
テッサは動かなかった。
いつもなら私のカードを読み上げる口を、まっすぐ閉じている。旦那様の命令で、私の代わりに返事を作る気はないらしい。
「何をしている。カードを読め」
読むカードは、まだない。
旦那様の手が卓の縁を掴んだ。客人の前では流暢だった声から、飾りが削れていく。
「言葉の綾だった。頼む、ひとこと」
初めて旦那様の顔から、弁舌だけがきれいに消えた。
私は一枚抜いた。
ペンの尻でこめかみを一度叩く。
旦那様の目は、ペンの尻を素通りしてカードへ落ちた。
私は書き終えたカードを、今度だけは旦那様へまっすぐ向けた。
「声は、しまってございます」
旦那様の唇が動いた。
音は出なかった。
卓の縁を掴んだ指から力が抜ける。
先に音を上げたのは旦那様だった。
これは少々、胸のすく採点結果である。満点に花丸まで差し上げたい。
私はカードを引き戻し、テッサへ渡した。
テッサは読まずに、カード入れへ収めた。
「本日は失礼いたします」
マルグリット夫人が席を立つと、客人たちも続いた。旦那様は引き留める言葉をいくつも持っていたはずなのに、誰の足も止まらなかった。
私は最後の一人へ一礼した。
その夜を境に、旦那様は一人で社交の席へ出るようになった。
どこで誰と何を話し、どの話がまとまらなかったのか、私は尋ねなかった。謝罪らしい手紙も釈明らしい手紙も届いたが、返事をする役目はもう引き受けない。言葉の綾は、言った方がご自分でほどけばよろしい。
私はクラリスの祝いでもらった小さな花を、窓辺で乾かした。白いカードは相変わらず使ったけれど、旦那様の食卓へ置くことはなかった。
ほどなく、マルグリット夫人から一枚の招待状が届いた。
私的な音楽の集いを開くという。演目も席順も堅苦しく決めず、弾きたい者が弾き、聴きたい者が聴く夜らしい。
末尾に、夫人の大きな字が添えてあった。
『役目ではなく、あなたが来たい日にいらっしゃい』
その下には、さらに小さく書かれていた。
『歌ってくださるなら嬉しい。でも、使わせてほしいのではないの。私はあなたの歌を聴きたいのよ』
その一文を、私は指でなぞった。
集いの日、部屋には二十人ほどが集まっていた。
クラリスは刺繍絵の前でもらったカードを、本当に持ってきていた。返してほしい。恥ずかしい。百年後まで保存する気ではあるまいな。
けれど彼女は歌をねだらなかった。マルグリット夫人も、楽器のそばに立つ私を急かさない。
ほかの人々も黙って待っていた。
役に立つ挨拶をするためではない。誰かの仲を取り持つためでも、旦那様の客を楽しませるためでもない。
私が歌うかどうかを、私に任せたまま待っている。
喉へ指を触れた。
あの日、クラリスの祝いで押し戻した音が、まだそこにあった。
私は手のひら大の白いカードを一枚抜いた。今夜の礼を書くつもりで持ってきたけれど、やめた。
カードを戻す。
留め金を掛け、カード入れを閉じた。
息を吸う。
最初の音は、少し震えた。
マルグリット夫人は笑わず、頷きもせず、ただこちらを見ていた。クラリスは胸の前で手を組み、次の音を待っている。
二つ目は、待っていた人たちの笑顔まで届いた。
春の野を渡る風の歌だった。
窓の外は冬だったけれど、構わない。歌いたい季節くらい、私が選ぶ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
「悪くなかったな」と思われたら、★や感想を残していってもらえると、とても励みになります。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




