婚約破棄だ、地味な記録係令嬢」と笑われましたが――はい、承知しました。では違約金は三倍で。あなたが捨てた契約書、監査公爵様が全部読んでいました
「エリアーナ・ベルフォード! 私は君との婚約を破棄する!」
王立学院の卒業記念舞踏会。
百を超える蝋燭がきらめく大広間で、王太子レオンハルト殿下のお声は、楽団の音色を断ち切るほど高らかに響き渡った。
踊っていた者たちの足が止まる。扇を広げていた令嬢たちが息を呑む。談笑していた紳士たちは、互いに目配せを交わした。
その視線の中心に立っているのは、わたくし、エリアーナ・ベルフォード侯爵令嬢。
そして、わたくしに婚約破棄を突きつけたレオンハルト殿下の隣には、桃色のドレスをまとった男爵令嬢ミレーユ様が寄り添っていた。
彼女は小鳥のように震えながら、殿下の腕に両手を添えている。潤んだ瞳。か弱げな肩。庇護欲を誘う表情。
なるほど。
たしかに、殿下のお好みではあるのだろう。
ただ、わたくしの視線は彼女の涙ではなく、その白い喉元で艶やかに光る真珠の首飾りに吸い寄せられていた。
大粒の南海真珠。粒の揃い、照り、金具の細工。間違いない。
三日前、王太子宮の交際費で購入された品だ。
用途欄にはたしか、「隣国大使夫人への贈答品」と記載されていたはずだけれど。
わたくしは胸の内で、静かに一行を書き加えた。
――王太子殿下、王家財産の私的流用。証人多数。
「君のように冷たく、可愛げのない女を、私はもう愛せない」
殿下はよく通る声で続けた。
「君はいつも帳簿だの契約だの、規則だのと口うるさい。私が誰と会おうと、どこへ行こうと、まるで監視役のように目を光らせる。そんな女を王妃に迎えれば、この国は息苦しくなるばかりだ」
会場のあちこちから、小さな笑いが漏れた。
聞き慣れた笑いだった。
地味な記録係令嬢。
わたくしにつけられた、不名誉な呼び名である。
華やかな夜会より議事録。新しいドレスより予算書。恋文より契約書。
王太子の婚約者でありながら、笑顔を振りまくより執務室に籠もる時間のほうが長かったわたくしを、社交界はそう呼んだ。
地味な記録係令嬢。
殿下の背後で控えているだけの、可愛げのない女。
「それに、君はミレーユを虐げた。彼女に冷たい言葉を投げ、私に近づくなと脅したそうではないか」
「わ、わたしは、エリアーナ様に逆らうつもりなんてなかったんです」
ミレーユ様が涙声で言った。
「ただ、殿下がお苦しそうだったから……少しでもお慰めしたくて……。でも、エリアーナ様は、身分をわきまえろって……」
あら。
そのような直接的な言葉を使った覚えはない。
ただ、「王太子殿下と二人きりで密室に入るのは、あなたの名誉にも関わります」と忠告しただけだ。
もっとも、彼女にとっては、それも脅しだったのかもしれないけれど。
「私は真実の愛に目覚めた!」
殿下はミレーユ様の肩を抱き寄せた。
「ゆえに、エリアーナ・ベルフォードとの婚約を破棄し、ここにいるミレーユ・ロゼット男爵令嬢を新たな伴侶として迎える!」
広間がざわめいた。
非難。好奇。嘲笑。同情。
そのすべてが、わたくしに向けられている。
泣くと思われているのだろう。
怒ると思われているのだろう。
あるいは、王太子殿下の足元に縋り、「どうかお考え直しくださいませ」と訴えるとでも。
だからわたくしは、背筋を伸ばしたまま、静かに膝を折った。
「はい、承知いたしました」
その瞬間、殿下の顔に勝ち誇った笑みが浮かんだ。
「ふん。ようやく身の程を――」
「では殿下」
わたくしは微笑んだ。
「違約金は三倍でございます」
広間の空気が、ぴしりと凍った。
殿下の口元から笑みが消える。
「……何?」
「婚約破棄の申し入れ、たしかに承りました。王族側からの一方的な破棄であり、かつ婚約者以外の異性への公費使用が確認されておりますので、王族婚約契約第十二条三項に基づき、通常慰謝料および補償金に加え、違約金は三倍となります」
わたくしは淡々と申し上げた。
「なお、ミレーユ様が現在お召しになっている真珠の首飾り、髪飾り、ドレス代、馬車代、香水代、舞踏会前の美容費用についても、王太子宮の予算から支出されております。用途偽装の疑いがございますので、そちらも合わせて精査が必要です」
「なっ……」
殿下のお顔が赤く染まった。
「何を馬鹿なことを言っている! 私に金を請求するつもりか!」
「はい」
「私は王太子だぞ!」
「存じております。ですので、契約書の署名欄にも『レオンハルト王太子殿下』と記されております」
わたくしの返答に、周囲の令嬢が扇の陰で息を呑んだ。
殿下は信じられないものを見る目で、わたくしを睨む。
「そのような条項、私は知らん!」
「お読みになっていないのであれば、それは殿下の落ち度でございます」
「エリアーナ!」
殿下は怒鳴った。
「君は最後の最後まで可愛げがないな! だから私は君を愛せなかったのだ!」
その言葉は、思っていたよりも深く胸に刺さった。
十歳で婚約してから十年。
わたくしはずっと、殿下の隣に立つために努力してきた。
礼儀作法。外交史。財政学。法学。語学。慈善事業。地方行政。
朝から晩まで学び、夜は王太子宮の帳簿を確認し、殿下が出し忘れた書簡を整え、側近が見落とした予算の穴を埋めた。
殿下が外交使節の名前を間違えそうになったときは、わたくしがさりげなく訂正した。
地方視察の日程が重複していたときは、わたくしが寝ずに調整した。
王太子宮の予算が赤字になりかけたときは、不要な支出を削り、王家の体面を傷つけぬよう静かに処理した。
それらを、殿下は一度も見なかった。
見ようともしなかった。
けれど、傷ついたからといって、ここで泣くわけにはいかない。
わたくしが泣けば、わたくしの記録まで感情で歪んだものだと扱われる。
だから微笑む。
王妃教育で最初に教わったことだ。
どれほど心が乱れても、背筋だけは曲げてはならない。
「エリアーナ様が嘘をついているんです!」
ミレーユ様が叫んだ。
「わたしを陥れるために、そんな契約書を持ち出して……。ひどいです、エリアーナ様。そんなに殿下を奪われたのが悔しいんですか?」
彼女は涙を散らしながら、わたくしを責めた。
それを見て、何人かの令息が同情的な視線を彼女に向ける。
しかし、わたくしが口を開くより早く、大広間の扉が重々しく開いた。
「その契約書なら、私が確認済みです」
低く、よく通る声。
広間のざわめきが、今度は別の意味で凍りついた。
黒い礼服を纏い、銀の髪を後ろに撫でつけた長身の紳士が、数名の監査官を従えて入ってくる。
ユリウス・ヴァレンタイン公爵。
王国監査院を統べる、若き公爵閣下である。
社交界では、氷の監査公爵と呼ばれていた。
「ユリウス卿……なぜここに」
殿下の声がわずかに震えた。
「王太子宮の予算に不審な流れがあると報告を受けましたので。本日、正式に監査を開始いたします」
「誰がそのような報告を!」
殿下の視線が、わたくしに突き刺さる。
しかしユリウス公爵は静かに首を振った。
「報告は複数の経路から上がっております。もっとも、最も正確だったのはベルフォード侯爵令嬢の記録でしたが」
広間に、またざわめきが広がった。
わたくしはわずかに目を伏せる。
ユリウス公爵とは、何度か監査院で顔を合わせたことがある。
王太子宮の決算書類を提出するたび、彼は必ず隅々まで目を通した。そして、わたくしが付けた補足欄まで読んでくださった。
ある時、彼は言った。
「あなたの記録は美しい」
美しい。
帳簿に向けられる言葉としては、少し不思議だった。
わたくしが戸惑っていると、彼は無表情のまま続けた。
「誰かを貶めるためではなく、国を壊さないために書かれている。数字に私怨がない。だが、見逃す甘さもない。よい記録です」
その言葉を、わたくしは忘れられなかった。
可愛げがない。
冷たい。
地味。
そう言われ続けてきたわたくしの仕事を、初めて誰かが正面から見てくれたのだ。
「レオンハルト殿下」
ユリウス公爵は、監査官から受け取った書類を開いた。
「まず、ミレーユ・ロゼット男爵令嬢への贈答品について。真珠の首飾り、金額は白金貨二十枚。用途は隣国大使夫人への贈答品とされておりますが、現物は現在、ロゼット嬢の首元にあります」
ミレーユ様が慌てて首飾りを押さえた。
「こ、これは殿下が、わたしに似合うからって……」
「次に、先月の地方視察費」
ユリウス公爵は淡々と続ける。
「記録上は東部穀倉地帯の視察となっておりますが、実際に殿下が滞在されたのは湖畔の離宮。同行者は護衛二名、侍女一名、そしてロゼット嬢。視察報告書は未提出です」
「それは……休養も兼ねていたのだ!」
「公務費で?」
短い問いに、殿下は詰まった。
「さらに、ロゼット男爵家への補助金。申請理由は洪水被害への復興支援。しかし該当地域に洪水被害の記録はありません。補助金の一部は、王都の仕立屋および宝飾店への支払いに充てられています」
ミレーユ様の顔から血の気が引いていく。
「わ、わたし、知りません。お父様が……殿下が……」
「知らなかったかどうかは、今後の調査で確認されます」
ユリウス公爵の声音に、怒鳴り声のような激しさはない。
だからこそ、逃げ場がなかった。
「それから、ベルフォード侯爵令嬢による警告書が三通、王太子宮執務室で未開封のまま保管されていました」
ユリウス公爵がこちらを見た。
「令嬢は、王太子宮の予算支出に不自然な点があると、殿下に正式な確認を求めていましたね」
「はい」
「殿下は確認されましたか」
殿下は答えない。
答えられるはずもない。
あの封筒は、殿下ご自身が「また小言か」と言って机の奥へ放り込んだものだった。
「私は王太子だぞ」
殿下は歯を食いしばって言った。
「多少の融通くらい、許されるはずだ」
「王太子だからこそ、許されません」
ユリウス公爵は即答した。
「国庫は殿下の財布ではない。王家財産は恋人への贈り物ではない。臣下の税は、真実の愛を飾るために納められているのではありません」
広間が静まり返った。
殿下は唇を震わせる。
ミレーユ様はとうとう泣き崩れた。
「わたし、そんなつもりじゃなかったんです。ただ、殿下がくださるっておっしゃったから。わたし、愛されているんだって……」
彼女の涙は、本物なのかもしれない。
けれど、本物の涙が、すべての責任を洗い流してくれるわけではない。
「ミレーユ様」
わたくしは彼女へ声をかけた。
彼女はびくりと肩を震わせる。
「あなたが現在身につけている品は、王家の財産です。返還をお願いいたします」
「そんな……これを取られたら、わたし……」
「あなたのものではございません」
静かに告げると、彼女は怯えた目で殿下を見た。
けれど、殿下は彼女を守る余裕などないようだった。
監査官の女性が進み出て、ミレーユ様に声をかける。
「別室にて確認いたします。こちらへ」
ミレーユ様は抵抗しようとしたが、周囲の視線に耐えられなかったのだろう。ふらふらと監査官に連れられていった。
先ほどまで彼女を可憐だと褒めていた者たちが、今は小声で囁いている。
「やはり男爵令嬢では……」
「王太子妃など無理だったのだ」
「ベルフォード侯爵令嬢を敵に回すとは愚かな」
その声を聞いても、胸は晴れなかった。
彼らは、先ほどまでわたくしを笑っていた。
今度はミレーユ様を笑っている。
笑う対象が変わっただけで、その軽さは何も変わらない。
「陛下、王妃陛下のおなりです!」
侍従の声が響いた。
広間の全員が一斉に膝を折る。
入ってきた国王陛下のお顔は険しく、王妃陛下は痛ましげにわたくしを見つめていらした。
「レオンハルト」
陛下の声は低かった。
「今宵の騒ぎ、すでに聞き及んだ。ユリウス卿、監査内容は事実か」
「現時点で確認できているものだけでも、重大な不正支出および契約違反に該当します。詳細は後ほど正式な報告書にて提出いたします」
「そうか」
陛下は目を閉じ、深く息を吐いた。
そして、殿下を見た。
「お前の王太子としての権限を、本日をもって一時停止する。王都離宮にて謹慎せよ。継承権については、議会および王族会議で再審議する」
「父上!」
殿下は叫んだ。
「私はただ、愛を選んだだけです!」
「愛を選ぶために、契約を破り、国庫を偽り、婚約者の名誉を傷つけたのか」
陛下の声が鋭くなる。
「それは愛ではない。幼稚な欲だ」
殿下は愕然とした。
王妃陛下が、わたくしの前まで歩み寄ってこられる。
「エリアーナ」
「はい、王妃陛下」
「あなたには、長い間、苦労をかけました。王家を代表して謝罪します」
「もったいないお言葉でございます」
わたくしが頭を下げると、王妃陛下は首を振った。
「いいえ。あなたは王太子妃となるために、十分すぎるほど務めを果たしました。果たさなかったのは、我が息子のほうです」
その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなった。
認められたかった。
わたくしは、ただ、それだけだったのかもしれない。
殿下がふらりとこちらへ一歩進み出た。
「エリアーナ」
その声は、先ほどまでとは違っていた。
焦りと恐怖と、わずかな甘えが混じっている。
「君なら、私を助けられるだろう? 今までだって、そうしてくれたじゃないか。今回も、君がうまく帳簿を整えて、父上に説明してくれれば……」
広間が静まり返った。
わたくしは殿下を見つめる。
十年前、初めて会った日のことを思い出した。
幼い殿下は、わたくしに花をくださった。
「僕が王になったら、君を一番幸せにする」と、無邪気に笑っていた。
その言葉を、わたくしはずっと信じようとしていた。
けれど、もういい。
信じようと努力することと、現実から目を逸らすことは違う。
「ええ、助けてまいりました」
わたくしは静かに答えた。
「殿下の失敗を補い、殿下の名誉を守り、殿下が王太子として立っていられるよう、できる限りのことをしてまいりました」
「ならば――」
「ですが殿下は、それを愛ではなく、義務だとお思いになった」
殿下の言葉が止まる。
「ならば本日をもって、その義務をお返しいたします」
わたくしは左手の手袋を外した。
薬指には、王家から預かった婚約指輪がある。
十年間、わたくしを王太子の婚約者として縛り、支え、誇りでもあった指輪。
それをゆっくりと抜き取った。
殿下が手を差し出しかける。
けれど、わたくしはその手には渡さなかった。
近くに控えていた王家管理官へ、両手で差し出す。
「王家より預かった品ですので、王家へお返しいたします」
殿下個人に返すものは、もう何もない。
殿下の顔が歪んだ。
怒りなのか、悔しさなのか、初めて失ったものの大きさに気づいたのかは、わからない。
けれど、わたくしはもう、それを記録しようとは思わなかった。
舞踏会は当然ながら中止となった。
貴族たちは侍従の案内で順に退出し、王太子殿下は近衛に付き添われて別室へ連れて行かれた。ミレーユ様も監査官の確認を受けているはずだ。
わたくしは人の波から離れ、バルコニーへ出た。
夜風が熱を持った頬を撫でる。
王都の空には、細い月が浮かんでいた。
静かになった途端、指先が震え始めた。
ああ、と思う。
わたくしは傷ついていたのだ。
怒ってもいた。悲しくもあった。悔しくもあった。
けれど、それ以上に疲れていた。
十年間、背筋を伸ばし続けるのは、思っていたよりも難しかったらしい。
「震えている」
背後から声がした。
振り返ると、ユリウス公爵が立っていた。
「公爵様」
「失礼。ひとりになりたいのであれば、すぐに戻ります」
「いいえ」
わたくしは首を振った。
「少し、夜風に当たっていただけです」
「そうですか」
彼は隣に並んだ。
慰めの言葉を軽々しく口にしないところが、この方らしいと思った。
しばらく、二人で王都の灯りを眺めた。
「怒りでしょうか。悲しみでしょうか」
わたくしはぽつりと言った。
「自分でも、よくわかりません」
「どちらでもよいのでは」
「よいのでしょうか」
「感情は帳簿のように分類できるものではありません。無理に仕分けなくてもいい」
思わず、小さく笑ってしまった。
「監査公爵様のお言葉とは思えません」
「私も、人の心まで監査したいわけではありませんので」
その言い方があまりに真面目で、今度は少しだけ本当に笑えた。
ユリウス公爵がこちらを見る。
「あなたはよく耐えた」
その一言で、胸が詰まった。
けれど彼は、すぐに続けた。
「ですが、耐えたことだけを褒めるつもりはありません」
わたくしは顔を上げる。
彼の灰青色の瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「あなたの帳簿は正確だった。警告書は的確だった。予算の流れを見る目も、損失を最小限に抑える判断も、並の文官では及ばない。あなたは王太子殿下の婚約者としてではなく、あなた自身の能力で王国を支えていました」
喉の奥が熱くなる。
「わたくしは……ただ、務めを果たそうとしただけです」
「その務めを果たせる者が、どれほど少ないかご存じない」
ユリウス公爵の声は静かだった。
「私は、あなたを哀れな令嬢として見てはいません。優秀な一人の人間として尊敬しています」
涙がこぼれそうになった。
殿下から欲しかったのは、甘い言葉ではなかった。
宝石でも、花でも、情熱的な愛の囁きでもなかった。
ただ、見てほしかった。
わたくしが積み上げてきたものを。
わたくしが飲み込んできた言葉を。
わたくしが守ろうとした国を。
「エリアーナ嬢」
「はい」
「監査院に来ませんか」
思いもよらぬ言葉に、目を瞬かせる。
「わたくしが、ですか」
「はい。あなたの能力が必要です。正式な任官手続きはこちらで整えます。もちろん、侯爵家および王家の承認を得た上で」
監査院。
王国の財政と不正を監視する機関。
そこは、貴族令嬢が腰掛けで務めるような場所ではない。
けれど、胸の奥に小さな灯りがともった。
誰かの後ろで失敗を繕うのではなく、自分の名前で仕事をする。
それは、想像したこともない未来だった。
「そして」
ユリウス公爵が、珍しく言い淀んだ。
「これは、仕事とは別の話ですが」
「はい」
「あなたに婚約者がいなくなった今、私は正式に求婚の許可を願いたい」
夜風が止まった気がした。
わたくしは数秒、言葉を失った。
「……公爵様」
「はい」
「順番が逆ではございませんか」
彼は真顔で答えた。
「監査院長としては人材を失いたくない。男としては、誰にも渡したくない。どちらを先に言うべきか迷いました」
あまりにも真剣な顔でそんなことをおっしゃるので、わたくしは頬が熱くなるのを止められなかった。
「わたくしは、本日婚約破棄されたばかりです」
「承知しています」
「社交界では、傷物だの、捨てられただのと言われるかもしれません」
「言わせておけばよい。私の耳に入れば、その家の帳簿を少し丁寧に見るだけです」
「それは脅しでは?」
「監査です」
ついに堪えきれず、笑ってしまった。
笑うと、目尻から涙が一粒こぼれた。
ユリウス公爵はそれに気づいたが、拭おうとはしなかった。ただ、胸元から白いハンカチを取り出し、わたくしに差し出した。
「急がなくていい。あなたの返事を、私は待てます」
「どのくらい?」
「必要なだけ」
「監査公爵様は、期限を切らないのですか」
「あなたに関しては、例外を認めます」
ずるい方だと思った。
そんなふうに言われたら、心がほどけてしまう。
わたくしはハンカチを受け取り、小さく頭を下げた。
「では、まずは監査院のお話から伺ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「求婚のお返事は、その後で」
「承知しました」
彼は少しだけ目元を緩めた。
その表情が、普段の氷の監査公爵とはまるで違っていて、わたくしの胸はまた少し騒がしくなった。
数週間後、王太子宮は混乱のただ中にあった。
レオンハルト殿下は王都離宮で謹慎。王太子としての権限は停止され、日々、教師役の老臣から王族法と財政規律を叩き込まれているらしい。
ミレーユ様が受け取った宝飾品や衣装はすべて返還対象となり、ロゼット男爵家には補助金不正受給の疑いで調査が入った。男爵家は罰金と返還金の支払いに追われ、当分、社交界に顔を出す余裕はないという。
そして王太子宮では、わたくしがいなくなった途端、業務が滞り始めた。
外交予定は重複し、予算書は合計が合わず、贈答品の手配は遅れ、地方から届いた嘆願書は未処理のまま積み上がった。
側近の一人が、青ざめた顔で呟いたそうだ。
「ベルフォード侯爵令嬢は、これを毎月お一人で整えておられたのか……」
その言葉を人づてに聞いたとき、わたくしは不思議なほど何も感じなかった。
怒りも、得意げな気持ちも。
ただ、そうですか、と思っただけだった。
すでにわたくしの日々は、新しい書類で埋まり始めていたからだ。
監査院の執務室は、王太子宮よりずっと静かで、ずっと忙しい。
最初の日、わたくしの机には山のような帳簿が置かれていた。
歓迎の花束ではなく、不審な支出一覧。
それを見た瞬間、思わず微笑んでしまった。
「嬉しそうですね」
隣の机から、ユリウス公爵が言った。
「はい。とても」
「普通の令嬢は、初日にこの量の帳簿を見せられると逃げます」
「では、わたくしは普通ではないのでしょう」
「存じています」
彼は当然のように言った。
その一言で、また胸が温かくなる。
監査院の文官たちは最初こそ、侯爵令嬢であるわたくしを遠巻きに見ていた。
だが、一週間もすると態度が変わった。
わたくしが過去五年分の補助金記録から不自然な支払いを見つけ、さらに三つの帳簿に分散されていた不正の痕跡を結びつけたからだ。
それ以来、誰かがぽつりと呼び始めた。
監査院の銀筆、と。
地味な記録係令嬢ではなく。
その名が気恥ずかしくて、最初は訂正しようとしたけれど、ユリウス公爵に止められた。
「よい名です」
「大げさではありませんか」
「足りないくらいです」
「公爵様は、時々とても過分な評価をなさいます」
「事実を述べています」
この方のそういうところに、わたくしは少しずつ慣れてしまった。
ある日、監査院の受付に一通の手紙が届いた。
差出人は、レオンハルト殿下。
宛先は、エリアーナ・ベルフォード。
封は開けずに返送された。
返送理由は、受付担当の文官が規則に従って記した。
――宛先人は現在、職務中につき私的な嘆願を受け付けません。
その文面を見たユリウス公爵が、少しだけ満足そうに頷いていたのを、わたくしは見逃さなかった。
さらに季節がひとつ巡るころ、わたくしとユリウス公爵の婚約が正式に整った。
王家からは謝罪と祝福を兼ねた祝いの品が届き、侯爵家の父は最初こそ驚いていたものの、ユリウス公爵が提出した求婚申請書のあまりの丁寧さに沈黙した。
求婚申請書。
そう、彼は求婚まで書類にしたのである。
婚約式の日。
ヴァレンタイン公爵家の庭園には、白い薔薇が咲いていた。
華美すぎず、けれど隅々まで手入れの行き届いた庭。まるで彼の人柄のようだと思った。
ユリウス公爵は、わたくしの前に立ち、小さな箱を差し出した。
中には指輪が入っていた。
王家の指輪ほど大きな宝石はない。
けれど、澄んだ銀青色の石が、控えめに、しかし確かな光を宿している。
「派手ではありませんが」
「とても綺麗です」
彼はわたくしの手を取り、指輪を嵌めてくれた。
その内側に、小さな文字が刻まれていることに気づく。
――あなたの記録に、これからは私の名も隣に。
頬が熱くなった。
「公爵様」
「はい」
「これは少し、情熱的すぎませんか」
ユリウス公爵は真顔で答えた。
「三度書き直しました」
「最初は何と?」
「あなたの記録も、沈黙も、怒りも、優しさも、すべて美しい、と」
「それは……」
「長すぎて入らないと言われました」
わたくしは扇で口元を隠した。
隠しきれないほど笑ってしまったからだ。
「ユリウス様」
初めて、名前で呼んだ。
彼の目がわずかに見開かれる。
「はい、エリアーナ」
「わたくし、これからも記録いたしますわ」
「何を?」
「不正も、数字も、国のことも。それから……」
わたくしは、自分の指に光る指輪を見つめた。
「わたくしを正しく見てくださった方のことも」
ユリウス様は、ほんの少しだけ微笑んだ。
それは氷の監査公爵などという呼び名が似合わない、穏やかで、優しい表情だった。
「では私は、読み違えないよう努めます」
「監査公爵様ですものね」
「あなたに関しては、監査ではなく、努力です」
かつて、わたくしは地味な記録係令嬢と笑われた。
可愛げがないと捨てられた。
帳簿と契約書しか愛せない女だと、そう言われた。
けれど今、わたくしの隣には、わたくしの記録を、沈黙を、怒りを、優しさを、読み違えない人がいる。
だからわたくしは、もう誰かの後ろで小さく笑う必要はない。
これからは自分の名前で、自分の筆で、自分の人生を記していく。
その最初の一行に、わたくしはこう書くつもりだ。
――婚約破棄されたその日、わたくしの人生は終わらなかった。
むしろその日から、本当の物語が始まったのだ。
終幕




