座面の厚み
エレベーターの箱が十八階に到着し、重力を失うような浮遊感が一瞬だけ胃のあたりを掠めた。扉が開くと、消毒液とカーペットの繊維が混ざったような、空調で管理されたビル特有の匂いが鼻腔を突く。
佐知子は首にかけている社員証のストラップの位置を直した。合成皮革の安っぽい帯が、襟のないブラウスの首元に触れて少し冷たい。廊下を歩く足音は吸音材に吸い込まれ、誰ともすれ違わなかった。
午前八時五十分。
派遣社員である彼女の職場は、フロアの奥まった場所にある「業務支援室」と呼ばれる部屋だ。
部屋に入ると、先に来ていた社員の男性が一人、パーティションの向こうで背中を丸めているのが見えた。「おはようございます」と声をかけるが、相手はモニターを見つめたまま小さく顎を引いただけだった。佐知子もそれ以上の反応は求めない。
彼女の席は、窓際から二列目の、柱の陰にある。
支給されている椅子は、定価で買えば十万円は下らないであろう高級なオフィスチェアだ。黒いメッシュ素材の背もたれは、どれだけ体重を預けてもたわむことなく、無言で彼女の背骨を支え続けている。
荷物を引き出しにしまい、パソコンを立ち上げる。ファンの回る低い音が、部屋の静寂の底に沈殿していく。
佐知子の仕事は、「何かあった時のための待機」だった。
部署再編のあおりで一時的に設置されたこの部署は、突発的なデータ入力の補助や、電話回線が混雑した際の溢れたコールの受け皿として機能していることになっている。しかし、実際にはシステムが安定しており、電話も滅多に鳴らない。
彼女はただ、ここにいることを求められていた。
九時を告げるチャイムはない。パソコンの画面右下のデジタル時計の数字が「09:00」に変わったのを視界の端で確認し、彼女はマウスに手を置いた。
右手のひらの付け根が、マウスパッドのジェル部分に沈み込む。その感触だけが、仕事の始まりを告げていた。
午前十時十五分。
何も起きない。
画面には、社内ポータルサイトのトップページが表示されている。新着情報の欄には、地方支社の移転や、健康診断の日程変更といった、彼女には関係のないニュースが並んでいる。
佐知子は時折、マウスを数センチ動かして、スクリーンセーバーが起動するのを防ぐ。それが今のところ、唯一の能動的な業務だった。
机の左端に置かれた電話機を見る。
グレーの筐体は埃一つなく、受話器の螺旋コードもきつく巻かれたままだ。赤ランプは消灯している。この電話が鳴ることは、月に一度あるかないかだ。それでも彼女は、いつ鳴ってもいいように、身体の右半分を常に電話の方へ意識付けながら座っている。
その、「何もしないで待っている」という行為が、じわじわと体力を削っていく。
書類を作成するわけでも、計算をするわけでもない。ただ、不測の事態という名の空白に備えて、神経をアイドリング状態に保つ。それは、渋滞した道路でブレーキペダルを踏み続ける足の疲労に似ていた。
空調の風が、頭上の吹き出し口から規則的なリズムで降り注いでいる。
設定温度は二十四度。暑くもなく、寒くもない。季節感の一切ない人工的な空気が、皮膚の表面を乾燥させていく。
佐知子はマグカップに口をつけた。白湯はもうぬるくなっている。液体が喉を通り、胃に落ちていく感覚だけが、自分の身体が有機物であることを思い出させた。
窓の外を見る。
十八階からの景色は、隣のビルのガラス壁面と、その奥に見える首都高速道路の一部だけだ。
音のない世界で、豆粒のような車が流れていく。赤、白、銀色。トラックの屋根。それらは絶え間なく左から右へと移動し、視界から消えていく。あの中に人がいて、それぞれの目的地へ向かっているという事実が、うまく想像できない。
ガラス窓のサッシには、微細な塵が積もっている。清掃業者が入るのは床だけで、窓枠までは手が回らないのだろう。その薄灰色の粒子の堆積を眺めていると、時間の経過が可視化されているような気分になる。
十一時半。
腰のあたりに鈍い重さを感じて、佐知子は椅子の座面の下にあるレバーを操作した。ガス圧が抜け、座面が二センチほど沈む。太腿の裏側にかかっていた圧力が変わり、少しだけ血流が戻った気がした。
キーボードを叩く音が、部屋の反対側から聞こえる。社員の誰かが、何かを報告しているのだろう。
佐知子の手元にあるキーボードは、黒い沈黙を守ったままだ。キーの隙間に溜まりそうな埃を、エアダスターで吹き飛ばしたい衝動に駆られるが、備品棚まで取りに行くのが億劫でやめる。
ディスプレイの光を見続けているせいで、眼球の奥が乾いた砂のようにざらついている。目薬をさす。一滴の液体が眼球の表面に広がり、視界が歪む。その数秒間だけ、世界が滲んで見えた。
瞬きをして水分を馴染ませると、また明瞭な、しかし退屈な輪郭を持ったオフィスが戻ってくる。
十二時。昼休憩の時間だ。
佐知子は逃げるように席を立った。
エレベーターホールには、他のフロアから吐き出された人々が滞留していた。グレーや紺色のスーツ、オフィスカジュアルのニット、社員証のストラップ。全員が似たような顔をして、下向きの矢印が点灯するのを待っている。
箱が到着し、人が吸い込まれていく。佐知子もその隙間に入り込む。誰かの整髪料の匂いと、微かな汗の匂いが混ざり合う。
ビルの地下にあるコンビニエンスストアで、おにぎりを二つと野菜ジュースを買った。
レジの店員は外国人の名札をつけていて、機械的な手つきでバーコードを読み取っていく。
「レシートはご利用ですか」
「いりません」
今日初めて発した言葉は、喉に引っかかって掠れていた。
地上のベンチは埋まっていたため、佐知子はビルの裏手にある公開空地の植え込みの縁に腰を下ろした。
石の冷たさがスカート越しに伝わってくる。
おにぎりの包装フィルムを剥がす。パリパリという音が、都会の喧騒にかき消される。
梅干しのおにぎりを口に運ぶ。冷たい米の粒が口の中でほどけ、酸味が唾液腺を刺激する。味は知っている通りの味だ。驚きも感動もないが、炭水化物が体内に入ってくるという安心感はある。
目の前を、鳩が歩いている。
首を前後に振りながら、地面に落ちている何かを啄んでいる。
佐知子はその鳩を見ながら、野菜ジュースのストローを噛んだ。
空は薄曇りで、太陽の輪郭はぼやけている。風が吹くと、街路樹の葉が擦れる音がした。
あと四十五分で、あの部屋に戻らなければならない。
仕事が嫌いなわけではない。人間関係の煩わしさもないし、残業もない。給与は生活していくのに十分な額が振り込まれる。
ただ、毎日八時間、自分の身体をあそこに「置いておく」ことの対価として金銭を受け取っているような感覚が、時折、どうしようもなく重たくのしかかることがある。
自分という存在が、誰の役にも立たず、何の害もなさず、ただ時間だけを消費して摩耗していく。
おにぎりの最後の一口を飲み込み、ペットボトルのお茶で流し込んだ。
午後一時。
午後の業務、つまり待機が始まる。
満腹になったことで、血液が消化器官に集まり、脳の活動レベルが低下していく。
眠気が、温かい泥のように足元から這い上がってくる。
佐知子は背筋を伸ばし、椅子のリクライニングを固定した。
眠ってはいけない。何もしていなくても、起きていることが業務だ。
眠気を覚ますために、エクセルの空白のシートを開き、意味もなく罫線を引いては消す作業を繰り返した。
カチ、カチ、というマウスのクリック音が、自分の耳だけに響く。
午後二時過ぎ。
電話が鳴った。
室内の空気が一瞬で張り詰める。
佐知子の席の電話ではない。向かいの席の、社員の男性の電話だ。
「はい、業務支援室です」
男性の声は低く、抑揚がない。
「ええ……はい。その件につきましては、システム部の方へ……はい。転送します」
通話は三十秒で終わった。
再び、静寂が戻ってくる。
佐知子は息を吐き出した。自分が対応する案件ではなかったという安堵と、今日もまた出番がなかったという微かな徒労感が、胸の中で混ざり合う。
午後三時半。
西に傾きかけた陽射しが、ブラインドの隙間から差し込んでくる。
縞模様の光が、グレーのカーペットの上に長く伸びている。
佐知子はトイレに立った。
個室に入り、鍵をかける。この狭い空間だけが、完全に自分だけの場所だ。
便座に座り、目を閉じる。
瞼の裏に残像がちらつく。
何もしていないのに、肩が凝っている。何も持ち上げていないのに、腕が重い。
じっとしていることの負荷。重力に逆らって座り続けていることのエネルギー消費。
深く息を吸い込むと、芳香剤のラベンダーの香りが肺を満たす。
五分だけ、そうしていようと思った。
スマートフォンを見る気にもなれない。情報の摂取はもう十分だ。ただ、感覚を遮断したかった。
席に戻ると、机の上の書類の配置がミリ単位で変わっていないことに気づく。
当たり前だ。誰も触っていないのだから。
ボールペンを手に取り、ノックをカチカチと鳴らす。
インクの残量はまだ十分にある。このボールペン一本を使い切るのに、あと何年かかるだろうか。そんなことを考えて、ふと馬鹿らしくなり、ペンをペン立てに戻した。
午後四時四十五分。
終業までのカウントダウンが、感覚的に始まる。
フロアの空気が少しだけ浮き足立つのを感じる。
他の社員たちが、引き出しを閉める音、書類を揃える音を立て始める。
佐知子も、デスクトップ上のアイコンを整列させた。
今日は一日、この画面を眺めていた。
ニュースサイトの見出しは三回更新されたが、世界は何も変わっていないように見えた。
自分の仕事も、何かを生み出したわけではなく、何かを解決したわけでもない。
ただ、今日という一日が、確かに消費された。
その事実だけが、目の前のゴミ箱に捨てられた付箋のように、確かな質量を持ってそこにある。
午後五時。
定時を告げるチャイムはない。
佐知子は即座にパソコンをシャットダウンした。
画面が暗転し、ファンの音が止まる。
「お先に失礼します」
誰に向けるでもなく呟き、席を立つ。
返事は期待していないし、実際に誰からも返ってこなかった。
更衣室でコートを羽織り、カバンを持つ。
朝よりもカバンが重く感じるのは、気のせいではないだろう。
一日分の疲労という目に見えない澱が、カバンの底に溜まっているのだ。
ビルの外に出ると、外気は冷たく、そして生々しい匂いがした。
排気ガス、飲食店の換気扇から漏れる油の匂い、湿ったアスファルトの匂い。
それらが混然一体となって、都市の夕方を形成している。
空は群青色に沈みかけ、ビルの明かりが星座のように浮かび上がっている。
駅へと向かう人波に合流する。
誰もが早足で、何処かへ帰ろうとしている。
佐知子は駅前のスーパーマーケットに立ち寄った。
明るすぎる照明の下、野菜売り場を回る。
キャベツが半玉で売られている。カットされた断面は少し乾燥して、白っぽくなっている。
パック詰めされた鶏肉、豆腐、もやし。
カゴに入れていく動作は、オフィスのマウス操作よりも遥かに実感を伴う。
レジに並び、財布からポイントカードを出す。
小銭の金属的な冷たさが、指先に心地よい。
買い物を終え、レジ袋を提げて店を出る。
レジ袋の持ち手が、指に食い込む。
その痛みは、自分が今日一日を生き延び、明日への糧を手に入れたことの証拠のように思えた。
重い。
けれど、不快ではない。
駅のホームで電車を待つ。
冷たい風が吹き抜け、髪が乱れる。
電光掲示板には「到着まであと三分」と表示されている。
佐知子はホームの端に立ち、暗闇の向こうから近づいてくる光の点を見つめた。
今日という日が終わり、また明日が来る。
その繰り返しの中に、自分はいる。
電車が警笛を鳴らしながら滑り込んでくる。
ブレーキの軋む音と、風圧。
ドアが開く。
佐知子はその中へ、静かに足を踏み入れた。




