第一話 ごめん、奏。好きな人ができたの
西日に染まる教室は、放課後のざわめきが嘘のように静まり返っていた。窓の外では運動部の掛け声が遠くに聞こえ、黒板には今日の授業の痕跡がうっすらと残っている。そんな穏やかな静寂を破ったのは、俺の目の前に立つ彼女──白瀬玲愛の、震える声だった。
「奏、ごめん。……好きな人が、できたの」
その言葉は、まるで異国の響きのように俺の耳を通り過ぎ、すぐには意味をなさなかった。玲愛は、俺の幼馴染で、一年と少し前から付き合っている、たった一人の大切な恋人だ。艶やかな黒髪を揺らし、少し潤んだ瞳で俺を見つめている。その表情は真剣で、冗談を言っているようには到底見えなかった。
好きな人、ができた。
その六文字が、ようやく脳内で像を結ぶ。つまり、俺たちは──。
「そっか……」
俺の口から漏れたのは、自分でも驚くほど落ち着いた声だった。もっと取り乱したり、理由を問い詰めたりするものだと思っていたが、現実は違った。ただ、心臓のあたりがぎゅっと、冷たい手で掴まれたような感覚が広がる。
玲愛は、俺の反応が意外だったのか、少しだけ目を見開いた。彼女が想像していたのは、きっとこんな反応ではなかったのだろう。
「……それだけ?」
「え?」
「だって、他に言うことないの? なんで、とか、誰なんだよ、とか……」
責めるような、あるいは、すがるような響きを含んだ声。その瞳の奥には、俺には理解できない複雑な感情が渦巻いているように見えた。
なんで、と聞かれても困る。玲愛が誰かを好きになってしまったのなら、それはもう俺にはどうしようもないことだ。彼女の心を縛る権利なんて、俺にはない。
「玲愛が決めたことなんだろ? だったら、俺が何か言うことじゃないよ」
俺がそう言うと、玲愛は悔しそうに唇を噛んだ。
彼女が不満を抱えていたことには、薄々気づいていた。俺、響木奏は、どこにでもいる平凡な高校生だ。勉強も運動も人並みで、顔だって中の下くらい。そんな俺が、クラスでも屈指の美少女である玲愛と付き合っていることは、周りから見れば奇跡のようなものだった。
玲愛が俺を選んでくれた理由は、「奏の優しさが好き」だからだと、告白してくれた時に言ってくれた。俺はその言葉を信じていたし、彼女を悲しませないように、大切にしてきたつもりだった。
しかし、その「優しさ」が、いつしか彼女を苛む原因になっていたのかもしれない。
「奏くん、ここの問題、ちょっと教えてくれない?」
昼休み、クラスメイトの女子にそう声をかけられれば、俺は嫌な顔一つせず教える。
「響木、悪いけど今日の委員会、代わってくれないか?」
友人に頼まれれば、断れない。
「響木くんって、誰にでも優しいよね」
そう言われるたびに、隣にいる玲愛の表情が少しずつ曇っていくのを、俺は見て見ぬふりをしてきた。彼女が俺の「特別」でありたいと願っていることを知りながら、困っている人を放っておけない俺の性分は、どうしても変えられなかった。
きっと、そういう小さな不満の積み重ねが、彼女の心を俺から離れさせてしまったのだろう。
「……ごめんね、奏。本当に」
俯きながら謝る玲愛の姿に、胸が痛む。俺の方こそ、彼女の気持ちにちゃんと向き合ってやれなくて、ごめん。
「謝るなよ。玲愛が、本当に好きだって思える人を見つけられたってことだろ? それは、良いことじゃないか」
俺は精一杯の笑顔を作って、そう言った。嘘じゃない。心から、そう思った。彼女が悩み、苦しんだ末に出した結論なら、俺はそれを尊重したい。俺と一緒にいて我慢を続けるよりも、本当に好きな人と幸せになる方が、彼女にとってずっと良いに決まっている。
だが、玲愛はそんな俺の言葉に、さらに顔を歪めた。
「……奏は、それでいいの? 私が、他の男のところに行っても、平気なの?」
「平気、ではないよ。そりゃ、寂しいし、悲しい」
本音だった。心にぽっかりと穴が空いたようだ。明日から、隣に玲愛がいない日常が始まる。一緒に登下校したり、昼休みにお弁当を食べたり、休日に出かけたりすることも、もうない。そう思うだけで、呼吸が浅くなる。
「でも、俺は、玲愛に笑っていてほしいんだ。俺と一緒にいて無理してる顔を見るより、好きな人と一緒にいる幸せそうな顔が見たい。だから……いいんだよ、これで」
俺の言葉が、玲愛の心をさらに追い詰めていることにも気づかずに。
彼女は何かを耐えるようにぎゅっと目を閉じ、そして、覚悟を決めたように再び俺を見据えた。その瞳には、先ほどまでの迷いはなく、代わりに何かを突き放すような冷たさが宿っていた。
「……そう。奏がそう言うなら、もういい」
彼女は小さく息を吸い込むと、決定的な一言を、まるでナイフのように俺の心に突き立てた。
「もう、その人とは……先に進んじゃったから。だから、もう奏とは一緒にいられないの」
先に、進んだ。
その言葉が意味するものを、俺は一瞬理解できなかった。だが、玲愛の頬が微かに赤く染まっているのを見て、その残酷な意味を悟る。
そういうことか。もう、後戻りはできないところまで、関係は進んでしまっているのか。
俺を嫉妬させるための、彼女の精一杯の嘘だとも知らずに。
ずきり、と今までで一番強く胸が痛んだ。それは嫉妬というより、もっと深い、どうしようもない喪失感だった。俺と玲愛が一年かけてゆっくりと育んできたものが、いとも簡単に踏み荒らされたような感覚。
しかし、それと同時に、諦めにも似た感情が湧き上がってきた。そこまで本気になれる相手が見つかったのなら、俺が引き留めるのは、もはや彼女の幸せを邪魔するだけの行為でしかない。
俺は、ゆっくりと息を吐き、そして、もう一度笑った。今度は、さっきよりもずっと自然な笑顔だったと思う。
「そっか。……分かった。そこまで本気なんだな」
俺は彼女に一歩近づき、その頭にそっと手を置いた。玲愛の肩がびくりと震える。いつもこうして撫でると、猫のように気持ちよさそうに目を細めた彼女の姿が、脳裏をよぎる。でも、それももう今日で終わりだ。
「今までありがとうな、玲愛。短い間だったけど、すごく楽しかった。お前と付き合えて、俺は幸せだったよ」
「かな、で……」
俺の名前を呼ぶ声が、震えている。やめてくれ。そんな顔をされたら、決心が鈍ってしまう。
「だから、お前も幸せになれよ。絶対だぞ」
ポン、と軽く頭を叩いて、俺は手を離した。
これが、俺にできる最後の強がりであり、彼女への最大のエールだった。
玲愛は、何も言えずにただ俺を見つめていた。その大きな瞳から、ぽろり、と一粒の涙がこぼれ落ちる。それは俺が想像していた悲しみの涙ではなく、もっとずっと複雑な、後悔と絶望が入り混じったような色をしていた。
「……なんで」
絞り出すような、か細い声。
「なんで、怒ってくれないのよ……! なんで、引き留めてくれないの……! 奏の、馬鹿……!」
そう叫ぶと、玲愛は俯いて、自分の口元を強く押さえた。そして、俺が何かを言う前に、踵を返して教室を飛び出していく。バタン、と乱暴に閉められたドアの音が、がらんとした教室に虚しく響いた。
一人残された俺は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
なんで怒らないのか、か。
俺だって、腹が立たないわけじゃない。他の男に乗り換えた挙句、体の関係まで持ったと聞かされれば、普通の男なら激怒するだろう。殴り込みにだって行くかもしれない。
でも、俺にはできなかった。玲愛の涙を見てしまったから。彼女が本当に悩んで、苦しんで、それでも新しい恋を選んだのだとしたら、俺が怒る資格なんてない。
「……馬鹿は、どっちだよ」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に聞かれることもなく、夕日のオレンジ色に溶けて消えていった。
獅子堂猛。サッカー部のエースで、クラスの中心にいる、いわゆる陽キャだ。玲愛が最近、彼と親しげに話しているのは知っていた。きっと、新しい相手は彼なのだろう。俺とは正反対の、明るくて、人気者で、自信に満ち溢れている男。玲愛が惹かれるのも、無理はない。
俺は、玲愛が出て行ったドアをじっと見つめる。
心臓はまだ痛む。喉の奥が熱い。でも、これで良かったんだ。俺が彼女の幸せの足枷になるくらいなら、こうして手放す方がずっといい。
「幸せになれよ、玲愛」
もう一度、今度は声には出さずに、心の中で呟いた。
失恋の痛みは、思ったよりもずっと深くて重い。それでも俺は、彼女の選択を祝福することしかできなかった。
机の上に置きっぱなしになっていた自分の鞄を、ゆっくりと肩にかける。
明日から、俺の日常は変わる。
幼馴染で恋人だった白瀬玲愛のいない、新しい日常が始まる。
それがどんな日々になるのか、今の俺には想像もつかなかった。ただ、窓から吹き込んできた生ぬるい風が、一つの季節の終わりと、新しい季節の始まりを告げているような気がした。




