囁く壁
その家は、見つけた瞬間から、タクヤとマナミの心を捉えて離さなかった。
ウェブサイトに掲載されていた写真は、都心のマンション暮らしに疲弊していた二人の目に、楽園のように映った。郊外の小さな村にひっそりと佇む、築50年の古家。レトロな瓦屋根と、苔むした庭石が、時代を超えた温かさを感じさせた。
「ここだ、マナミ。俺たちが求めていたのは、こういう場所だよ」
タクヤはそう言って、画面を食い入るように見つめた。35歳の彼は、中堅ウェブ制作会社でリモートワークが可能な職に転職したばかりだった。妻のマナミ、33歳は、結婚を機に専業主婦となり、都会の人間関係の希薄さに寂しさを感じていた。この家は、二人の人生の再スタートを象徴する場所だった。
「庭も広いし、家庭菜園もできるね。私、ずっと夢だったんだ」
マナミは写真の中の小さな庭に目を輝かせた。その表情を見て、タクヤは確信した。
契約は、あっけないほどスムーズに進んだ。不動産会社の担当者であるイシバシは、どこか気の抜けた男で、家の歴史や以前の住人について聞いても、「いやー、ちょっとその辺は書類がないんですよねー」と適当にごまかすばかりだった。そのいい加減さが、逆にこの家には何の曰くもない、普通の物件なのだと思わせてくれた。
引っ越し当日、家は写真で見た以上に、二人の心を惹きつけた。広々としたリビングには、古い梁が剥き出しになっており、木材の温かみが部屋全体を包み込んでいた。窓の外には、手入れの行き届いていない庭が広がっており、二人はそれを「自分たちの手で作り上げていく場所」だと前向きに捉えた。
引っ越し作業も終盤に差し掛かった頃、マナミがふと立ち止まった。
「タクヤ、なんか音がしない?」
タクヤは耳を澄ましたが、何も聞こえなかった。
「気のせいじゃないか?古い家だし、風の音とか…」
マナミは首を傾げたが、それ以上は言わなかった。その日は、疲労から二人ともすぐに眠りに落ちた。
翌朝、タクヤは朝食の準備を始めた。コーヒーを淹れ、トースターにパンをセットする。
「カチャン」
パンがトースターに入った瞬間に、壁の向こうから、何かが床に落ちるような小さな音が聞こえた。タクヤは気にも留めなかった。しかし、その夜、マナミが洗い物を始めると、壁の向こうからも「ジャー」と水が流れる音がする。二人は顔を見合わせた。
「やっぱり、何か音がするよね?」マナミが不安そうに言った。
「ネズミか、小動物でも入り込んでいるのかもしれない。明日、業者に連絡してみよう」
そう言ってタクヤは妻を安心させようとしたが、彼の心の中にも、奇妙な違和感が芽生えていた。
その日から、壁の音は、二人の日常に完全にシンクロし始めた。
朝、目覚まし時計が鳴ると、壁の向こうからも同じメロディが聞こえてくる。
昼、タクヤがキーボードを叩くと、壁の向こうからも、まるで誰かが同じようにキーボードを叩いているかのような音が聞こえてくる。
夜、マナミがテレビをつけると、壁の向こうからも、かすかにテレビの音声が聞こえる。
それは、まるで自分たちの生活が、壁の向こうで**「模倣」**されているかのようだった。
マナミは、その恐怖を直感的に感じ取っていた。
「ねえ、タクヤ…壁の中に、誰かがいるんじゃない?」
タクヤは妻の言葉を笑い飛ばした。
「そんなわけないだろ。マナミ、疲れてるんだよ。もう少ししたら慣れるさ」
しかし、マナミは夜になると眠れなくなった。壁の中から聞こえる物音に耳を澄まし、その音の主が誰なのかを探ろうとした。
ある夜、壁の向こうから、口笛の音が聞こえてきた。それは、タクヤが口癖のように吹く、マイナーな洋楽のメロディだった。タクヤが口笛を吹くのをやめると、壁の向こうの音もぴたりと止まった。
「タクヤ、今…」
マナミは声にならない悲鳴をあげた。タクヤも、さすがにその現象を否定することができず、顔面蒼白になっていた。
夫婦の精神は、徐々に追い詰められていった。
タクヤは、仕事に集中できなくなり、クライアントからの連絡にもうまく返答できなくなった。彼の冷静で論理的な思考は、この不可解な現象の前では、全く役に立たなかった。
マナミは、日中も家で一人になると、壁の向こうから聞こえる音が、まるで自分に話しかけているかのように感じ始めた。
「ねえ、マナミ。寂しい?」
誰もいないはずなのに、壁の向こうから、自分に話しかける声が聞こえてくる。それは、彼女の孤独や、都会で過ごした日々の寂しさを知っているかのような、優しい声だった。その声は、彼女の心の隙間に、ずるずると入り込んでくるようだった。
マナミは、壁に耳を当てて、その声の主を探ろうとした。すると、壁の向こうから、彼女が子供の頃に母が歌ってくれた子守唄が聞こえてきた。それは、彼女しか知らないはずの、古い歌だった。
「誰…?誰なの…?」
マナミが震える声で尋ねると、壁の向こうから、まるで紙を細かく引き裂くような音が聞こえた。そして最後に、「ペタリ」と、何かが壁に貼り付くような、湿った音がした。
その音を聞いてから、マナミは毎晩、悪夢を見るようになった。悪夢の中で、彼女は壁の中に閉じ込められ、自分の体から肉が剥がれ落ちるのを感じる。剥がれた肉は、壁の内側で増殖し、彼女の形をした何かに変わっていく。
タクヤは、マナミの異常な精神状態に気づき、この家を売却することを決意した。彼は不動産担当者のイシバシに電話をかけた。
「家を売りたいんです。すぐに」
イシバシは、面倒くさそうに電話に出た。
「えー、もうですか?まだ引っ越してきて一ヶ月も経ってないでしょう。それに、村の慣習で、一年経たないと売却できないんですよ」
「そんなの聞いてないぞ!」タクヤは声を荒げた。
「いやー、説明しましたよ。村の神様が気に入らないと、すぐに家を捨てたって、良くないですからねー。そういうの」
イシバシはそう言って、一方的に電話を切った。タクヤは絶望した。彼らは、この家から逃げられない。そして、この村からも。
その夜、タクヤは壁に耳を当てた。
「もうやめてくれ…頼むから…」
彼の声は、壁の中に吸い込まれていくようだった。しかし、壁の向こうからは、何も聞こえなかった。
タクヤは、壁を叩いた。すると、壁の向こうからも、同じように「ドン」と、壁を叩く音がした。
彼は、自分の行動が、壁の中の「住人」に筒抜けになっていることを確信した。
その翌日、タクヤは妻を連れて、村の中心部にある小さな雑貨店に入った。
「すみません、この村の『神様』って…」
店番をしていた老夫婦は、タクヤの言葉を聞くと、表情を凍り付かせた。
「あんたたち…壁の音を聞いたのかい?」
タケシは絶句した。村人たちは、彼らの家の異変を、すべて知っているようだった。
「その家は、神様が住んでいるんだよ。あんたたちが気に入られるといいがね」
老夫婦は、それ以上何も語らなかった。タクヤは、この村全体が、自分たちを監視し、この恐怖から逃げられないようにしていることを悟った。
その日の夜、タケシは意を決した。
「マナミ、もう逃げられない。なら、この壁の正体を突き止めるしかない」
マナミは震える声で言った。
「やめて、タクヤ。見ちゃいけないものがあるんだよ。私、知ってる。壁の中の…」
しかし、タクヤは聞く耳を持たなかった。彼は、道具箱からハンマーとバールを取り出し、リビングの壁に向き合った。
「見つかるわけないだろ。でも、これ以上このままでは…」
タクヤは、ハンマーを振り上げた。しかし、その瞬間、彼の耳に、声が聞こえた。
「ねえ、タクヤ…壁を壊さないで」
それは、マナミの声だった。しかし、マナミは彼の隣に立っている。タクヤは振り返った。マナミは、恐怖に顔を歪ませながら、タクヤをじっと見つめていた。
「どうしたんだ、マナミ…?」
「私じゃないの…私の声じゃない…」
タクヤの手に持ったハンマーが震えた。彼の目の前で、マナミの顔が、一瞬だけ、歪んだように見えた。それは、まるで誰かが彼女の顔の皮膚を引っ張り、別の表情を作ろうとしているかのようだった。
そして、壁の向こうから、微かに囁き声が聞こえてきた。
「早く、こっちに来て」
タクヤは、ハンマーを床に落とした。その音は、まるで彼の心臓が、恐怖で砕け散ったかのようだった。




