Chapter 3 Part 2
それから1ヶ月後、田辺の最終勤務を前日に控えた夜、管制塔のメンバーたちは小さな送別会を開いた。場所は空港近くの居酒屋「空の縁」。木の温もりを感じさせる内装に、テーブルの上には焼き鳥や刺身、そしてビールのジョッキが並び、賑やかな笑い声が響いていた。
佐藤が立ち上がり、グラスを掲げて音頭を取った。
「それじゃあ、田辺さんの門出を祝って、乾杯!」
全員がグラスを掲げ、「乾杯!」と声を揃えた。
「田辺さん、いままで本当にありがとうございました!」
篠田が真っ先にグラスを掲げて感謝の言葉を述べると、周囲からも「そうだそうだ!」と声が上がる。三津谷が笑いながら付け加えた。
「田辺さんの仙台行き、ほんと寂しいですよ。でも向こうの人たちはきっと喜びます。田辺さんには何度も助けられましたからね。」
田辺は顔をほころばせ、軽くうなずいた。
「そう言ってもらえると嬉しいよ。三津谷も家族を大事にな。」
その後、思い出話に花が咲いた。
内田は「田辺さんが大雨の日に、ギリギリで誘導を成功させた話」を語り、篠田は「新人の頃に叱られたけど、その後にさりげなくフォローしてくれたこと」を話した。場は笑いと感謝で満ちていた。
やがて田辺は真奈美を見つめ、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「山口君、最初の頃は緊張で声も小さくておどおどしていたのが、今では堂々と指示を出している。ほんと成長したな。これからも片山君の指導の下で、頑張ってくれ。」
「田辺さん……ありがとうございます。」
真奈美の声は少し震えていたが、その目は田辺に対する感謝と決意に満ちていた。
ふと内田がグラスを置き、軽い調子で疑問を口にした。
「ところでさ、片山さんってあんなに優秀なのに、どうして15年も地方の大分にいたんだろう?」
その場が一瞬静まり返った。篠田や三津谷も、心の奥で同じ疑問を抱いていたのだろう。互いに視線を交わしながら、言葉を探しているようだった。
田辺は静かに笑い、肩をすくめた。
「まあ、本人にしかわからない事情があるのかもしれないな。」
その言葉で場は再び和やかさを取り戻したが、真奈美はふと、空いた席に目を向けた。そこには片山の姿がなかった。彼がこうした席に顔を出さないことは珍しくもなかったが、今夜ばかりは寂しく感じられた。
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送別会が終わった後、真奈美はなんとなく気になり、空港へ戻ることにした。夜の静まり返ったオフィスには、窓の外から滑走路の誘導灯が淡く差し込んでいた。その明かりの中で、片山が一人デスクに向かい、黙々と書類を整理していた。
「まだ仕事していたんですね……」
真奈美が驚いたように声をかけると、片山は手を止めてわずかに微笑んだ。「真奈美か。」
「片山さん、どうして来なかったんですか?」
不意にかけられた声に、片山は少し驚いたように振り向いた。
「いや、俺は送別会とか、そういうのはあまり得意じゃないんだ。」
「でも、田辺さんきっと片山さんにも会いたがってたと思います。」
真奈美はまっすぐに言った。
片山は一瞬だけ考えるように黙り込み、小さくため息をついた。
「……そうかもしれないな。」
真奈美はさらに一歩踏み込んだ。
「片山さん……どうして、そういう場からいつも距離を置くんですか? 私たち、もっと片山さんのこと知りたいし、仲良くなりたいです。」
片山はしばらく黙ったまま視線を机に落とし、やがて静かに答えた。
「……俺は、人と深く関わるのが苦手なんだ。昔色々あってな。だから仕事の場以外ではどう振る舞えばいいのか、わからなくなる。」
真奈美は驚きながらも、その言葉に込められた重さを感じ取った。
「……でも、私たちは片山さんに感謝してます。今日だって、田辺さんが片山さんのことを大事な存在だって言ってました。だから……少しずつでも、距離を縮めてくれませんか?」
片山はわずかに目を見開き、真奈美を見つめた。彼女の真剣な瞳に一瞬だけ心を揺さぶられ、苦笑いを浮かべる。
「……考えてみるよ。」
その言葉は短かったが、真奈美には大きな一歩に思えた。再び書類に目を落とす片山の横顔はどこか柔らかく見え、真奈美は安心したように軽く頭を下げてその場を後にした。
静かな管制部の廊下を歩きながら、真奈美の胸には片山の言葉と、その背中の影が深く残っていた。
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翌日、ついに田辺の最後の勤務の日がやってきた。朝のミーティングでは佐藤が皆を前にして口を開いた。
「今日は田辺さんの最後の勤務だ。みんなで気持ちよく送り出せるように、いつも以上に気を引き締めていこう。」
「はい!」と声を揃える面々。その声に普段より少し力がこもっていた。
管制官たちは短く頷き、すぐに持ち場に散っていった。田辺もいつもと変わらぬ表情で「よし、やるか」と席についた。その横顔を見た真奈美は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。
この日の業務は普段と変わらぬ慌ただしさに包まれていた。片山は冷静に航空機をさばき、真奈美は緊張感を持ちながらも的確に指示を出していた。レーダー室では三津谷と内田、そして篠田が息の合ったやり取りを続けている。そして、田辺は最終日でもいつもと変わらず、時折真奈美のフォローをしながら、鋭く冷静な判断で航空機に指示を出していた。
――そして、見送りの時間がやってきた。オフィスにメンバーたちが集まる。緊張と寂しさが入り混じった空気が漂っていた。
佐藤が田辺の前に立ち、静かに言葉をかけた。
「田辺さん、長年本当にお疲れさまでした。」
田辺は少し照れくさそうに笑い、
「これからも皆を頼むぞ、部長。」
と応じた。
その時、片山は花束を手に、ゆっくりと田辺に近づいた。その背中を、佐藤や真奈美、内田たちがじっと見つめている。普段寡黙な片山の姿に、皆が自然と息を呑んだ。
「田辺さん、羽田での勤務お疲れさまでした。短い期間でしたが、本当にありがとうございました。」
その言葉はシンプルだったが、片山の心からの感謝がにじんでいた。田辺は花束を受け取り、しばし片山を見つめてから、静かに笑った。
「ありがとう、片山君。君のような管制官がいるからここは安心だ。山口君やみんなのことを頼むよ。」
その言葉を聞いた片山は、小さくうなずきながら真奈美をちらりと見た。真奈美は驚いたように目を見開いたが、すぐに真剣な眼差しで頷き返した。
周囲のメンバーも次々に言葉を投げかけた。
内田は
「本当にいなくなっちゃうんですね!」
と目を潤ませ、
篠田は
「仙台でも頑張ってください、田辺さん。」
と声を震わせた。
三津谷は
「時々こっちにも遊びに来たくださいよ。」
と静かに告げ、
佐藤は
「田辺さんがいたから、ここまでやって来られました。ありがとうございました。」
と深々と頭を下げた。
田辺は一人ひとりの言葉をゆっくりと聞き、花束を抱えながら穏やかに微笑んだ。その姿を見て、誰もが改めて彼の大きな存在に気づかされていた。
やがて田辺はオフィスを後にした。ドアの外へ歩いていくその背中を、全員が黙って見送った。静かな余韻が残り、管制塔には少し寂しさが漂ったが、同時に新たな一歩を踏み出す決意がそれぞれの胸に芽生えていた。




