Chapter 2 Part 2
あれから1ヶ月が経った5月下旬、羽田空港で緊急事態が発生した。国際線の大型機が計器故障を起こし、緊急着陸を試みているという情報が入った。管制塔内の雰囲気は一変し、瞬く間に緊張が走る。警告音が鳴り響き、各所から報告が飛び交った。
そのとき、無線に切迫した声が飛び込んできた。
「メーデー、メーデー! 東京タワー、こちらWSC459! 計器に異常発生。自動操縦不能。燃料も余裕がない。エマージェンシーを宣言する!」
緊急事態を発令したのはB777型機、ワールドスカイキャリア(WSC)459便。ロンドンから羽田に向かう便であったが、着陸直前に計器の異常が確認された。機長の報告によれば自動操縦が機能せず、手動での着陸を強いられているという。
管制塔内は張り詰めた空気に包まれる。無線から続けざまに機長の声が響いた。
「東京タワー、こちらWSC459。緊急着陸への支援をお願いします!指示を頼む!」
その声を聞いた佐藤が険しい表情を浮かべ、片山に問いかけた。
「片山、どうする?」
片山はすでにモニターに映る機影を凝視し、冷静に状況を分析していた。
「他の便をすべて待機させてください。この機体を最優先にします。」
片山は落ち着いた声で指示を出した。その言葉は即座に塔内、そしてレーダー室へ共有され、管制官たちが一斉に動き始める。
「了解。滑走路34Rを緊急用に確保します。」
三津谷が即座に応答し、着陸態勢にあった他の航空機へ指示を飛ばした。
「こちら東京タワー。滑走路05からの出発便は全機待機。周辺空域の着陸機はホールドパターンに入ってください。」
田辺が揺るぎない声で伝える。最年長らしい落ち着きがあり、待機を命じられたパイロットたちから次々と応答が返ってきた。
「滑走路周辺の地上車両はすべて撤去しました!」
内田が状況を報告する。管制塔内は一丸となり、WSC459の受け入れ準備が着々と進んでいった。
一方で、真奈美は緊張で手が固まり、マイクから一瞬手を離す。深呼吸をして気持ちを整えたそのとき、隣から片山の声が飛んだ。
「山口さん……。…真奈美、大丈夫か?」
それは、これまで「山口さん」と呼んでいた片山が、初めて仲間たちと同じように「真奈美」と名を呼んだ瞬間だった。思わず真奈美は驚いたように片山を見やった。心臓が強く跳ね、緊張でこわばっていた指先に力が戻っていくのを感じる。周囲の同僚たちも一瞬だけ視線を交わし、片山の変化を悟ったように息を呑んだ。
片山の落ち着いたトーンに勇気づけられ、真奈美は再びマイクを握りしめた。
「WSC459、こちら東京タワー。現在の高度を維持してください。滑走路34Rを緊急用に確保しました。」
「了解、東京タワー。現在、計器は使えないが目視で着陸を試みる。」
緊迫したやり取りが続くなか、片山は全体の状況を見渡しながら必要な補助情報を真奈美に的確に伝えていった。
「片山さん、風速が急に変わりました。クロスウィンドが強まっています。」
篠田がモニターを確認しながら報告する。片山は一瞬思案し、すぐに決断した。
「WSC459、こちら東京タワー。風速が変化しています。修正角を考慮し、慎重に降下してください。」
「了解しました。」
機体が滑走路に近づくごとに、管制塔内の緊張は高まった。そして、WSC459の車輪が滑走路に触れ、スムーズに減速を始めるのが確認された瞬間、塔内は大きな安堵の息に包まれた。
「やった……!」
真奈美が小さくつぶやくと、周囲から拍手が沸き起こる。
「片山、それからみんなも、見事な連携だった。」
佐藤が笑みを浮かべて言った。その視線は、15年地方での経験を感じさせない片山の対応力に注がれていた。
「見事な対応だったよ、片山君。」
田辺が静かに言葉を添えた。ベテランらしい重みのある声に、片山は軽く肩をすくめて答えた。
「いや、全員のチームワークがあったからこそです。」
片山のその言葉に、真奈美は静かに頷いた。自分もその一員として役割を果たせたことに、胸の奥から誇りが込み上げてくる。
その日の勤務を終え、真奈美は片山にそっと声をかけた。
「片山さん……今日のこと、本当に勉強になりました。」
片山は少し驚いた顔を見せたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「俺も昔は失敗ばかりだった。経験ってやつだ。」
その言葉には管制官としての確固たる信念が込められていた。
それから真奈美は少し躊躇いながらも口を開いた。「片山さん……今日、私のことを“真奈美”って呼んでましたよね。いつもは“山口さん”だったのに……」
片山は少し考えるように視線を前に向けた。「……ああ、あのときは、どうしてもそう呼ばなきゃいけない気がしたんだ。チームとして、すぐそばでフォローする存在として。」
真奈美の頬がわずかに赤らみ、胸の奥が温かくなる。「……はい。ありがとうございます。」
その短いやり取りは、二人の距離をほんの少しだけ近づけていた。
真奈美はその一言を胸に刻み、次の日も全力で挑むことを心に誓った。
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その日の夜遅く、真奈美は篠田と並んで駅へ向かって歩いていた。羽田空港の灯りが遠くに瞬き、昼間の緊張感とは対照的に静けさが広がっている。篠田は真奈美にとって歳の近い先輩であり、日頃から相談に乗ってくれる頼れる存在だった。
「今日は本当によくやったね、真奈美。」
篠田が柔らかな笑みを浮かべながら言う。その言葉に真奈美は少し照れくさそうに頷いた。
「でも、片山さんがいたからですよ。私、一人だったらきっと動揺してました。」
「そうかな? 私、最近見てて思ったの。真奈美、片山さんが来てからどんどん変わってきてる。今日の対応もそう。前ならきっと声が震えてたはずだけど、すごく落ち着いてた。」
篠田の言葉に真奈美の胸が熱くなる。確かに、あの瞬間に支えられたのは片山の存在だった。だが、自分が少しずつ成長しているのだと先輩に認めてもらえたことは、何より嬉しかった。
しばし歩きながら、真奈美はふと口を開いた。声は少しだけ弾んでいる。
「……実は今日、片山さんが初めて私のことを“真奈美”って呼んだんです。」
篠田は驚いたように目を丸くした。「えっ、ほんと? あの片山さんが?」
「はい。今までは“山口さん”って呼ばれてたのに……。突然でびっくりしたけど、なんだかすごく嬉しくて……。」
真奈美は頬を赤らめながら俯いた。思い出すと胸が高鳴り、呼ばれた瞬間の温かさが甦るようだった。
篠田はにっこり笑い、からかうように肩を軽く叩いた。
「なるほどね。片山さんも、やっと壁を少し下げたんじゃない? あの人、普段は周りに距離を置いてるけど、真奈美のことはちゃんと仲間として認めてるんだと思うよ。」
「……そう、なんでしょうか。」
「そうだって。あれだけの緊急事態で、真奈美の名前を呼んで声をかけてくれた。それって信頼してる証拠だよ。」
その言葉に、真奈美は胸の奥がじんわりと温かくなり、小さく頷いた。夜風が頬を撫で、昼間の緊迫した空気とは打って変わった穏やかさが、明日への力を与えてくれるように感じられた。




