93 公開授業
翔太郎達がホワイトボードを運んできた時は、教室の後ろに見知らぬスーツ姿の4人の男性が並んでいた。千葉県教育委員会の教育主事と、千葉大学の情報データサイエンス学科教授に、教育学部の教授、隣の海原町にある海原高校から、若手数学教師が見学に来ていた。
「田邊先生、ホワイトボードはどこに置きますか」
翔太郎の質問に、田邊先生は感謝を込めて答えた。
「お手数掛けました。皆さん運搬、ありがとうございます。ホワイトボードは、廊下に置いてください。使う人が都合のいいところに持って行くでしょうから」
田邊先生の授業は、チャイムと共に始まり、号令が掛けられることがなかった。
廊下には、徳校長、近嵐教頭、一応「指導教官」の鮫島先生も見学に来ていた。
授業を聞く生徒は、教室前方の黒板周辺に集まってきたが、銀河と火狩は、廊下に出てきて、そこのホワイトボードで、おもむろに問題を解きだした。
千葉大学の教育学部教授は興味を持って火狩に尋ねた。
「君達は、何の問題を解いているのかな?」
火狩は、田邊先生からiPadに送られた問題を開いて見せた。
「多分、『大学への数学』の『学力コンテスト』の過去問かな?数字は少し変っているみたいですけれど」
質問に答えると、すごい勢いで、ホワイトボードに書き殴っている銀河に追いつくために、火狩もすぐ問題を解き始めた。
教授は、銀河が手を止めたタイミングで、質問した。
「君は解き終わったの?」
「多分。解答は合っているけれど、式が美しくないんで、別の解き方を考えます」
「田邊先生には見せないの?」
「終わったら、写メして先生に送ると、時間のある時にコメントをくれます。先生もお釈迦様じゃないんで」
「本当に、忙がしそうだね」
銀河と教授が話していると突然、蒔絵が口を押さえて、廊下に飛び出してきた。トイレからは盛大に吐く音と、口をゆすぐ音が聞こえた。
「大丈夫?あの子」
教授が心配して聞くと、すました顔で銀河は答えた。
「ああ、ただの悪阻ですから」
向こうで鮫島先生が遠い目をしていた。
トイレから戻ってきた蒔絵は、何事もなかったように銀河に声を掛けた。
「私は応用問題が終わったんだけれど、不等式の証明でひっかかっている子が、特進に何人かいるんだよね。手が足りないんだけれど」
「航平は使えないのか?」
「航平は最後の応用問題を今、私の解いたホワイトボードを見ながら確認しているところ」
火狩がイライラしたような声で、銀河に話しかけた。
「特進の子は、いつも解答集を見て分かった気になっているから、証明が自力で出来ないんだよ。放っておけば?」
銀河と蒔絵が顔を見合わせた。
「特進クラスから来た子にそういう欠点があるなら、早いうちに直してあげないと」
蒔絵はそう言って教室に戻っていった。
その後に続いて行こうとする銀河を、火狩が止めようとした。
「銀河君は、別の解き方を考えるんじゃなかったの?」
「そんなのは趣味の問題だから、昼飯の時にでも考えるさ」
教育学部教授が部屋に戻ると、教室後方の黒板で銀河が解説を始めていた。
「基本問題が分からない人は田邊先生に質問して。応用問題Ⅰが分からない人は俺が解説する。応用問題Ⅱは、航平のいるホワイトボードの前に行ってくれ」
蒔絵はどこにも行けず固まっている生徒1人1人に声を掛けて回っていた。
廊下から、渋々入ってきた火狩も、里帆に声を掛けられ、その質問に丁寧に答え始めた。
キーンコーンカンコーン
2時間目が終了するチャイムと共に、銀河がクラスメートに声を掛けた。普通クラスにとっては当たり前のことだが、特進クラスには説明が必要だったからだ。
「後ろの黒板には応用問題Ⅰ、ホワイトボードには応用問題Ⅱの解き方が書いてあるから、必要な人は写メして。見ても分からなかったら、明日、質問して」
教科書付属の解答書には、簡単な解説しかないので、生徒は一斉にiPadを持って、黒板に走った。
学級委員の翔太郎が、特進クラスの生徒に声を掛けた。
「写メは、各教科のホルダーを作って、タイトルをつけて放り込んでおくといいぞ」
入学直後に、田邊先生から教えて貰ったことを、特進クラスの生徒に教えた。
3時間目は、つづけてコンピュータ室に移動して「情報」の授業が公開された。
銀河と火狩は、授業見学者がいるにもかかわらず、ヘッドホンをつけて、情報オリンピックの問題に取り組んでいた。
それ以外の生徒は、Pythonを使って、基礎的なゲームを作っていた。4,5人でグループを組んで、お互いに教え合っていたので、田邊先生は正面のパソコンの前で、ボーッと画面を見ているだけだった。
しかし本当は、各グループの画面を見て進捗状況を確認していたのだ。行き詰まったグループには、メールでアドバイスを送っていたが、実に見学しがいのない授業だ。
ただ、情報データサイエンス学科教授と、情報の授業も持っている山田先生にとっては非常に興味深い内容だった。
「ねえ、田邊先生。この授業は考査はないんだよね。点数はどうやってつけているの?」
「はい?時間が始まる前に、『各自の目標』を決めさせて、そこへの到達度をAIで測って点数化しています」
教授は、AIを使っていることに、興味を持った。
「AIに採点させているのですか」
「教師の気分で点数をつけられるより客観的です。ああ、言い過ぎましたね。『教師の裁量』って、教師の印象が大分入りますよね。生徒の頑張っている『振り』に騙されたり、前の学年の印象に引きずられたりしませんから、『客観的』といいました」
いや、言い過ぎは「気分」というところだが・・・。
山田先生が質問を被せた。
「『各自の目標』を低く設定したら、いつも満点じゃないですか」
「例え満点を繰り返していても、学年の最後に、カリキュラムが終わっていなければ、単位は貰えませんから、年間通しての『目標』を設定することは意識させていますね」
山田先生は、銀河達に視線を向けた。
「あの2人の点数は?」
「高校1年の目標は、Pythonの初歩をマスターすることと、情報リテラシーを身につけ、コンピュータの仕組みを理解することですよね」
「あの2人だけ別のテストをするんですか?」
「あの2人はC++もマスターしているから、そこは満点ですが、基本情報技術者試験の問題を毎時間数問、時間の最初に出題して解いて貰っています。問題集は既に渡してあります。情報リテラシーについては、各考査時期1本ずつ、レポートを書いて貰っています」
「いや、難しすぎるでしょ?」
「武藤さんにとっては難しいかも知れませんね。
菱巻さんにとっては、村役場の情報発信の仕事もしていますし、簡単すぎるんですが、武藤さんは問題集のページ数を前持って予告しているんで、どうにかついて行けていますね」
情報データサイエンス学科教授は、舌を巻いた。
「菱巻さんは、もう実務に携わっているんですか?」
「多分、起業してもいいレベルですね」
「じゃあ、大学に行かなくてもいいんじゃないか。ああ、教授の前で失礼しました」
山田先生が頭を掻いた。
田邊先生は声を落として答えた。
「鮫島さんと一緒に大学生活を送りたいからですよ」
相原先輩の大学の側という理由で、T大学を選んだ田邊先生にとって、極当たり前の理由であった。
用語解説:「大学への数学」難関校を目指す大学受験生のために月刊誌。昔医学部を目指す友人がこれ見よがしに持ち歩いていた記憶があります。「Python」「C++」ともにプログラミング言語です。「C++」を使って情報オリンピックの問題を解く人が多いようです。
文系の私にとっては、名前だけで仰け反ってしまいます。