90 田邊先生は便乗した
蒔絵の妊娠を知った時、徳校長先生はその日のうちに、百葉村の小中高合同臨時職員会議を開催した。勿論、前もって、議題は「校則変更について」と全教職員に知らせ、変更案も校内教職員全員に周知した。百葉村の職員会議は、事務職員や技術員も全員参加する。
内容は以下のものだった。
「生徒が妊娠出産した場合の取り決め」
1生理休暇に加えて、「悪阻休暇」「産前産後休暇」「育児休暇」も新設する。期間・内容については、職員に適用される内容に則る。
2上記休暇中に、成績に関わる授業や考査があった場合は、補習等でそれを保障する。
3「育児休暇」が1年を超える場合は留年とする。
4「育児休暇」が1年未満の場合は別途協議するが、十分な学力が得られなかった場合は留年とする。
5パートナーの「育児休暇」は、連続して取得しなくても良い。休暇中に成績に関わる授業や考査があった場合は、補習等でそれを保障する。
6上記に関わる生徒が欠点を保有した場合は、他の生徒と同じく、欠点指導等を受けて、欠点を解消しなくてはならない。
7生まれた子供は、百葉保育園に優先的に入園することが出来る。
校内LANから、流れた議題を前に、鮫島先生は暫く固まった。
「どうしましたか?お兄様」
田邊先生にからかわれても、鮫島先生は動かなかった。
そして、暫くするとため息をついた。
「つまり、蒔絵達の真似をして妊娠して、勉強をサボろうとしても無理って言うことか?」
「蒔絵さんは、産休は取るけれど、育休は取らないんでしょ?」
「多分。出産前後もガツガツ勉強してそうだ」
「その姿を見れば、サボるための妊娠はなくなるでしょうね。ただ、在学中に妊娠することのハードルを更に挙げてしまいそうですな」
「返って、そうかも知れない」
「だったら、勉強をしない生徒もどんどん留年させてしまえばいいんじゃないですか?」
シャープペンを回しながら、考え事をしている田邊先生の顔を、鮫島先生は恐ろしいものを見るような顔で見た。
「この学校は、高校がほぼエスカレーターなんで、学力が低い子もいますよね。これから、未来TEC系の転校生がどんどんやってきた時、勉強に差が付くじゃないですか。『テストが悪くても、補習で進級すればいい』と考える子の世話なんかしたくないんですよ。勉強する気がない生徒は、どんどん留年させて、もう1年勉強させればいいじゃないですか」
隣の席の竹内先生も賛成した。
「それはいいですね。始業の合図と共に、机に伏せる生徒に補習したくないですね」
3年担任の出口先生には、少し違う考えがあった。
「留年はしなくてもいいんじゃないか。学年はそのままで、欠点を取った科目だけ、1年下の連中と受ければいいんじゃないか?」
「出口先生、3年生で1科目落としたらどうするんですか?」
「卒業単位数を満たしていれば、その科目を未修特にすればいいし、満たしていなければ、新たに4年生を作ればいいんじゃないか。今までも、浪人生に補習するクラスがあるんだからそこに入れてやればいいんだ」
黙っていたパソコンに何やら打ち込んでいた田邊先生が、何枚かの紙を印刷して先生方に渡した。
「じゃあ、この『留年案』も職員会議に提出しましょう」
「はや!」
「多分、校長先生の案とセットで出したほうがいいですね。では、出口先生、代表して説明お願いします」
「おいおい、田邊先生が説明してくれないか?」
「僕はもう一つ、提案することがありますから」
田邊先生は肩に強い力を感じた。振り返ると栗橋養護教諭がそこにいた。
「田邊君、いいわね。その案、私も賛成だわ」
田邊先生のパソコンには、「制服廃止案」の文字が打ち込まれていた。
臨時職員会議は、思ったよりスムーズに進行した。
徳校長の案は、全女子教職員からの強い賛成意見が次々と出て、あっという間に可決した。
出口先生の「留年案」については、中学教師から多少の抵抗が出た。しかし、高校に入学しても中学の教室で学ぶことで、ぬるま湯に浸かっていた中学の生徒に危機感が出ると言うことで、結局可決した。
最後は、田邊先生の「制服廃止」の提案だった。
「現在、私のクラスには、3人の転校生がいますが、制服業者の都合が付かなくて、未だに私服です。菱巻兄弟も今回の災害で制服がありません。また、鮫島蒔絵は今後、体形が変わるでしょうから、それに合う制服を作るのは、不合理です。また、今後未来TEC本社の生徒を受け入れるに当たって、制服を強制することには、大きな経済負担を強いることになります」
教職員中では、蒔絵の妊娠は周知の事実となっていた。
近嵐教頭から質問が出た。
「体操服はどうしますか?」
「体操服も、上履きも不要じゃないですか?大学の体育の時も、体操服はいらないですよね。そもそも、制服って陸軍や海軍の制服から着ているんですよね。戦争を連想させるので、いらないですよ」
中学教師から質問が出た。
「修学旅行や各行事の時はどうしますか?」
田邊先生の弁舌は冴え渡った。
「沖縄やディズニーランドは、修学旅行生に制服で来ないように言ってきています。制服で旅行に行く必要性はないと思います。
生徒が迷子になると言うなら、いっそ教員が蛍光色のリュックでも背負って目印になればいいんじゃないですか?」
会議室から失笑が漏れた。
鮫島先生が、田邊先生にこっそり耳打ちした。
「教員も、Tシャツ短パンで、ビーチサンダルで教壇に立っていいですか?」
「スーツ着なければ授業を聞いて貰えないなら、スーツを着ればいいでしょ?」
会議の最後に、司会の近嵐教頭が話をまとめた。
「では、以上3つの案件の施行日は12月1日にします。それまでに、校則としてまとめ、全校生徒と保護者に周知します」
保護者は戸惑ったが、生徒は大喜びだった。しかし、百葉村は、お洒落な服を買う店などなく、ほとんどの生徒は、今までどおり制服や体操着しか選択肢がないことに、すぐ気がついた。
また、一部の生徒が100均で化粧品を購入して、顔をパレットにして楽しんでいた。しかし、2学期の期末考査が留年に直結することで、周囲がテスト勉強をし始めると、化粧に夢中だった生徒達も、髪を振り乱してすっぴんのまま勉強を始めた。
蒔絵も、期末考査が近くなると、将来の推薦入試に備えて、今まで以上に勉強を始めた。
最近は、穂高の代わりに銀河に勉強を教えて貰うので、土日はマンションに籠もることが多かった。あまり、机に齧り付いているので、銀河が心配して外出に誘った。
「蒔絵、今日は昼、下のパン屋に行かないか?その後、鈴音姉ちゃんのところに行って、マタニティウエアを貰って来よう」
村営マンションの1,2階には、英子達が売り子をしている「萬屋」の他に、次々とショップ等が開店し、買い物に来る人々で賑わうようになった。
「銀河ご免ね。私がご飯の匂いが駄目で、家でご飯を食べられなくてパンを買うんだよね」
「いやー。学食で米は食べているから、大丈夫だよ。それより、『萬屋』の前通るけれど、嫌なら違うルート通るよ」
銀河は、祖母の英子がまた萬屋で、蒔絵の悪口を言っているのではないかと気をもんでいた。
「英子お祖母ちゃんに、『思い出ポスト』で集めた写真で印刷したアルバムを渡すんでしょ?喜ぶよ」
蒔絵は全く意に介していないようだった。表面上は・・・。
英子はアルバムを渡すと喜んでいたが、蒔絵に声を掛けることはなかった。蒔絵に背を向けると小百合と、お互いのアルバムを見比べながら、昔話に興じた。小百合は、視線を蒔絵に寄越して、にっこり笑ってくれた。
銀河は大きく深呼吸をして怒りを押し殺して、これ見よがしに蒔絵の肩を抱いて、萬屋を後にしてパン屋に向かった。
「このパン屋さんは、ベーグルや米粉パンも置いてあって、減量にもいいんだって」
「え?私太った?」
「いや、これからの話だよ。パン屋の後、和菓子屋にも行こう」
パン屋ではベーグルを1週間分買った。冷凍しておくと日持ちがするそうだ。
和菓子屋では、水ようかんや葛饅頭など、これも糖質や脂質が低い菓子を買い込んだ。
「いつも買って貰って悪いね」
「家族じゃないか。それに俺は『金のなる木』を何本か持っているからね」
銀河は、勉強の傍ら、いくつかアプリを開発して、村役場や未来TEC社に買い取って貰っている。アプリのメンテナンスは銀河が行っているので、その分の手間賃等も、毎月銀河の財布に入ってくるのだ。
「これから、子供にもお金かかるよね」
先ほどの英子の態度で、蒔絵は少し気落ちしたようだ。言葉が沈んでいる。
「まあ、子供に関しては気にするな。百葉村では母子健診から、出産費用まですべて無償だし、高校までの授業料から中学までの給食もすべてタダだから、気にしなくていいよ」
「じゃあ、子供が出来るとどうしてお金がかかるの?『エンジェル係数』って言うじゃない」
「塾や習い事、子供と一緒のレジャーや子供の服なんかに、お金を払いたくなるんじゃないか?特に少子化が進むと、そういう方面にお金を使うよな」
「後は、自宅での食費かぁ。それから、子供の大学進学には、お金は当然かかるよね。奨学金は実質子供の借金だけれど」
「アメリカの若者は、自分の奨学金がかなり負担になっているらしいね」
これは、ジェームズからの情報である。
「私も、千葉大医学部に合格すれば400万くらいだけれど、私立の医学部だったら、6年間で3,000万円以上かかるもんね。親もまだ、諸手を挙げて賛成はしてくれていないもんね」
銀河は、肩を落とした蒔絵の頭を撫でた。
「大丈夫だよ。ここに諸手を挙げて賛成している人が1名いるから」
「もう。ありがと!」
蒔絵は、銀河の尻を叩いた。
「あれ?お尻が少し締まった?私に隠れて走っている?」
銀河は、隠していたことが少しバレたようだが、そのまま誤魔化し続けた。
「そんなことないよ」
話しているうちに、2人は未来TEC第2マンションにある、鈴音達の住宅に着いた。
「鈴音お姉ちゃん、久し振りぃ。藍と茜は、暫く見ない間に大きくなったね」
藍はつかまり立ちをしながら、結構な速さで蒔絵の方にやってきた。茜は立つことに興味はなく、ひたすらハイハイで家中移動している。
「姉ちゃん、これ葛饅頭。小さく切れば、双子も食べられるかと思って」
「ありがとう。蒔絵ちゃんには、これね。蒔絵ちゃんと身長が変らなくて良かった」
そう言って、袋いっぱいのマタニティウエアを出してきた。蒔絵は袋から、自分が着られそうなものを数枚選んだ。
「えー。全部持っていかないの?」
「うーん。鈴音お姉ちゃんと出産時期が半年ずれているから、夏物の細身なのは着れないし、制服代わりの服は、あんまりひらひらしているのは気が引けるよね」
銀河は「また、蒔絵の我が儘が出た」と思っていたが、鈴音の反応したのはそこではなかった。
「え?学校にマタニティウエアで行っていいの?」
「うん。田邊先生が頑張ってくれて校則が変わったんだ。12月から中学高校の生徒全員、制服がなくなったんだよ」
「義崇、やるね」
「高校1年生は転校生も多くて、制服着ていない子もいるんだよね。銀河も制服ないし」
「そうそう、デブ用の制服をまた、特注で買う金ないし」
「鈴音お姉ちゃん、本社移転で、転校して来る子供ってどのくらいいるか分かる?」
「本社は、30歳から40歳くらいの社員が多かったから、小中学生が多いかも」
「保育園も手狭手狭になるかな?」
銀河が大変なことに気がついた。
「園児が増えれば、普通クラスの部屋はもう保育園に戻すことになるよね?そうすると、来年の高校2年は、2展開じゃなくなるよ。担任は鮫島先生と田邊先生のどっちになるんだ?」
「えー。担任は田邊先生がいいな」
「鮫島先生は、妹がいるクラスの担任は出来ないはずだよな」
そう言いながら銀河は、特進クラスの連中が、普通クラスの授業を受ける姿を想像してみた。そこで生じる不満が蒔絵に跳ね返って来なければいいと思った。
実際は、学年の途中で、成績関係の規定を変えることはありませんが、お話だと思って読んでください。一応、この学校は辛うじて、2022年度からの新カリキュラムで授業をしている体で書いていますが、教科書は、多分、転校生もすべて買わないといけないんですよね。少なくとも高校生は、早く、デジタル教科書のみで授業して欲しいと思っています。私見ですが。