88 コウノトリが来た
11月になって、更紗は2次試験の合格通知を手に入れた。後は共通テストの結果次第で合否が決まるが、それが駄目でも前期と後期の個別試験にチャレンジする計画は揺るがなかった。
松本で出会った後閑姉弟からは、後日丁寧なお礼状と水沢うどんが届いた。礼状には、悠仁が2次試験に不合格だったという一筆が添えてあった。
今日は、兄妹3人で、水沢うどんをすすりながら日曜日の昼食を取っていた。
鮫島の両親は、やっと開通した町への道を使い、買い出しに出かけていた。
「私も買い出しに行きたかったな」
台所へお代わりを取りに行った蒔絵に更紗が突っ込んだ。
「銀河にバイクで連れて行ってもらえばいいのに」
「銀河は、鈴音お姉ちゃん達も、買い出しに行ったから家で子守りしているよ」
町に繋がる道は、JR外房線沿いの国道1本である。津波の被害で今まで通行止めだったが、最近やっと復旧した。反対に、今まで町への繋がる道だった、山沿いの道は現在、未来TECが路面電車を走らせるために工事をしていて通行禁止になっている。
「紫苑も今日、推薦試験だな」
「うん。でも、田中先生が『この試験は合格可能性が低いから、下見のつもりで行け』って言っていたんだよね。面接と口頭試問だけの推薦入試なんて、競争率高いからね」
「田中先生ははっきりおっしゃる方だったよな」
「でも、そう言って貰えると、落ちてもがっかりしないから、いい面もある」
お代わりを持って戻ってきた蒔絵は、更紗に話しかけた。
「これって、後閑さんから来たうどんでしょ?後閑君は不合格だったの?」
「うん。保健学科に変えて再度、信州大学を受けるみたい。検査技術科学専攻にするみたい」
「えー。保健学科系だったら、群馬県内の大学でいいのに」
「なんか、悠仁君の家、この3月で廃業するんだって。それで、お兄さんが信州大学医学部の付属病院の非常勤医師になったから、一緒に住めるし信州大学の方が、都合がいいんだって」
「お兄さんも産婦人科なの?」
「小児科だって。兄弟3人とも小柄で可愛いみたいよ」
「随分詳しく知っているね」
「LINEで繋がったからね」
うどんを食べ終わった穂高が立ち上がって、食器を洗ってから戻ってきた。
「後閑さんのご両親と佳美さんは、『未来テック百葉村病院』準備委員会に入ってもらって、4月からこちらで働いて貰うことになったんだ」
蒔絵が、前のめりに話に入ってきた。
「え?じゃあ、産婦人科は4月から開業するの?」
「鈴音さん達が引越し次第、建物を改装してからの開業だけれどね。群馬の産婦人科で使っていた道具をすべてこっちに運ぶから、初期投資は少ないかも」
「入院もその病院でできるの?」
「多分。あの建物を3階建てにしてエレベーターもつけるから、産婦人科と小児科を併設できるらしい」
「じゃあ、小児科医は誰がするの?」
「最初は、千葉大から非常勤の人に来て貰って、1年後にお兄さんがこっちに来るって話だよ。準備委員会の間は、給料が少ないからね。お兄さんも結婚費用を貯めないといけないしね」
「彼女がいるんだ」
「彼女は、今、群馬大学で内科医をしているみたい」
「えー。じゃあ、後閑君は結局、お兄さんと住むのは1年じゃない」
「そう言えばそうだね。でも、家族全員、群馬から引き払うから、群馬の大学に行く必然性もないけれどね」
「穂高も詳しいね」
「美佳さんに聞いたから」
姉妹は顔を見合わせて、「ふーん」と納得した。今まで、穂高は食器を流しに運ぶことすらしなかったが、最近は、食器を洗うようになっていた。そんな変化の原因を発見したようだ。
食事が終わると3人は勉強を始めた。3人で過ごす時間は後少ししか残されていなかった。
ヘリコプターでつくば未来村に搬送された桐生朔太郎の土地が更地になると、工事は加速し、12月にはマンションの全体像が見えるようになってきた。
桐生の土地の整備が終わったことで、土砂崩れの心配が完全になくなった裏山には、斜面に沿って2階、3階と高層階が積み上がり、8階建て96戸の集合住宅ができあがった。
桐生の住宅などがあった側の56戸は、空中回廊で未来テック社屋につながり、「未来TEC第2マンション」となった。
村役場を挟んで、反対側の保育園や学食の裏手にあった住宅跡地に出来た集合住宅は、「村営マンション」という名称になった。といっても、それぞれの集合住宅で使われているプレキャストコンクリート住宅の基本的な形は変らない。
仮設住宅にいた高齢者は、そのまま住み続けるかと思いきや、全員が村営マンションに引っ越していった。それは新しいマンションが見晴らしがいいという理由だけではなかった。
村営マンションでは、広いベランダで自由に花の栽培ができる上に、1階に生きがいを見いだせる「萬屋」という施設が出来たからだ。
「萬屋」の話は追々することにして、引越しの話を続けよう。
そのように村営マンションへの引越しが終わった後は、鯨谷一家と鈴音の家族の引越しが始まった。鯨谷一家は、保育園前の「村営マンション」への引越しを即座に決めた。一方、鈴音一家は、空中回廊で直接、未来TEC社に通勤できる「未来TEC第2マンション」に引っ越していった。
銀河と蒔絵は、千葉大学に通うにも便利な、百葉駅に近い「村営マンション」の最上階を選んだ。エレベーターを降りればすぐ、保育園があることも理由の1つだった。
あらかじめ引越しを前提に荷物を少なくしていた銀河は、1人で数日に分けて引越しを終わらせた。蒔絵も、「登校に楽だ」という理由で、私物を銀河の部屋に運び込んだ。
ただ、勉強だけは相変わらず更紗と一緒に、穂高に習っていた。
「蒔絵、お前の荷物がかなり減っているんだけれど、銀河の部屋に運び込んでいるのか?」
「高校に近いんだもん」
「将来結婚するにしても、高校時代に同居って、どうかと思うぞ」
「更紗と私がいなくなれば、穂高は佳美さんとここで暮らせるよ」
鮫島家は、8畳を両親が、2つの6畳の内1つを穂高が、もう一つを妹2人で使っている。
「親と同居なんて、勘弁してくれよ」
「後閑家に入り婿するの?」
「どうしてそう言う話になるかな?あの家には長男がいるだろう?新しく出来る産婦人科・小児科の3階に自宅が出来るから、家族全員でそこに住むんじゃないか?」
穂高は、佳美とのことをはっきり否定はしなかった。結婚の方向に考えていることが、妹たちには分かった。穂高の今の関心は、佳美とのことではなく、蒔絵の同棲のことだった。
兄の追求を上手く誤魔化したつもりでノートに向かっている蒔絵に、穂高は容赦がなかった。
「蒔絵、話を誤魔化すな。高校生が同棲なんて、世間体が悪いだろう」
「うわ。『世間体』なんて死語が出てきた。例え、『世間体』が悪くても、誰も困らないのに何でそんなこと気にするの?」
「・・・・」
短気な穂高が、自動車のキーを持って外出する時は、頭を冷やすため、ドライブをすると決まっている。部屋には更紗と蒔絵が残った。
「ねえ。蒔絵、私に隠していることある?」
「更紗の試験が終わったら話そうと思っていたんだけれどな」
「それって、私がショックを受けるってこと?」
「事によると」
「黙っていられる方が嫌だな」
「じゃあ、話すね。私、多分、妊娠している」
更紗は、暫く口がきけなかった。
「お母さんには話したの?」
「これから。話したのはお姉ちゃんが2人目。
来週、お母さんと産婦人科医に行くつもり。生理も2回来ていないし、妊娠検査薬でも陽性だった」
蒔絵はネットで、妊娠検査薬を手に入れていたのだ。
「最初に話したのは銀河?」
「勿論。銀河との子だもん。『ありがとう。俺との子を妊娠してくれて』って言ってくれたよ」
「合意の上なんだね」
蒔絵は少し考えて、言葉を選んで答えた。
「正確に言えば、合意させたって言うか・・・」
「何言っているの?蒔絵が襲ったの?」
「最初は抵抗していましたが・・・、次のチャンスは10年後だと言ったら諦めてくれた」
更紗は妹の言葉が全く理解できなかった。
「『チャンス』って何?」
「子供を2人で育てるチャンスだよ。高校2年間+医学部6年間+インターン2年間の間に産休を取る機会ってあると思う?でも、高校2年の9月に産んだら、半年は銀河と一緒に育てられるし、百葉高校なら、産休取っても高校卒業できるだろうし、子供預けて授業も受けられる。大学に入る頃には1歳半だから、保育園に預けて、勉強できるでしょ?」
「計算上は合理的にも聞こえるけれど、妊娠中や子育て中に十分な勉強が出来ると思っているの?」
「子育て中に勉強が出来ることを、私達は証明済みだけれど、妊娠中の体調はわからない。だからこそ、入試直前の出産を避けて、1年前倒しにしたの」
「菱巻の家はそれで許してくれるの?あそこの嫁になったら、医学部受験ですら許しそうにないよ」
「そう、だから医者になるまでは籍を入れない。銀河は『鮫島になってもいい』と言っているけれど、そもそも、穂高ですら『世間体』云々って言っているんだから、お父さんがなんて言うか想像できるじゃん。入籍自体がそこまで面倒くさいなら、籍を入れない方が楽じゃない?」
何も言えなくなっている更紗の手を取って蒔絵は、目を見つめた。
「どうして、更紗は『おめでとう』って言ってくれないのかな?結婚した夫婦がちょうどいいタイミングで妊娠した時以外は、不幸な妊娠なのかな?そんなこと言っているから、みんな子供を持たないんだよ。『欲しい時に産む!』。これでいいじゃない」
更紗は、妹の悲しい目を見て、その気持ちを理解した。
「ごめん。おめでとう。生まれたら赤ちゃんを見に来るからね」
「そのためには、お互い合格しようね」
「もう2人でこの部屋では寝られないのかな?」
「うん。2段ベッドから落ちるといけないから、銀河が3つマットレスを並べてベッドを作ってくれたんだ」
「3つって、生まれるのが双子だったら?」
「そこまでは許容範囲なんだけれど」
穂高が玄関を開ける音と同時に、2人は本来の勉強に戻った。
1週間後、蒔絵と銀河は絹子の車で、町の産婦人科に行って、妊娠していることを確認した。出産予定日は、修学旅行にでかける1ヶ月前だった。その日の夜、蒔絵がマンションに向かった後、母親の口から父親と兄に、蒔絵の妊娠が伝えられた。
翌月曜日に、2人は、百葉高校の校長室に行き、妊娠の報告をした。徳校長は両手を広げて蒔絵を抱きしめ、「おめでとう」とお祝いを言ってくれた。そして、産休について校則に盛り込むこと、出産後は保育園に入園できるように手続きすることを約束してくれた。
「蒔絵さん、出産祝いは何がいいですか?」
「ベビーカーをお願いします」
「即答だな」
呆れた銀河に蒔絵は、にやっと笑って答えた。
「もう必要品のリストを作ってあるの」
最後に、職員室で担任の田邊先生に報告をした。もう既に鮫島先生から聞いているらしく、田邊先生もにこやかに応対してくれた。
「それでは、2人は修学旅行に行けないんですね」
「はい」
鮫島先生が横から口を挟んだ。
「銀河君も行かないんですか?」
「蒔絵がまだ産休中なので」
銀河は素っ気なく答えた。田邊先生も当たり前だと頷いた。
「愛妻家だな」
「妻が産休中は、夫は普通、育児休業を取るでしょう?」
鮫島先生の言葉に、田邊先生が呆れたように答えた。
教室に朝のホームルームに行くと、山賀里帆の黒板アートが2人を迎えた。
「蒔絵ちゃん、妊娠おめでとう。銀河パパ、おめでとう」
普通クラスはお祝いムードだったが、体育で一緒になった特進クラスは、担任の鮫島先生の影響もあってか、微妙な雰囲気だった。妊娠初期と言うことで、バレーボールから外れた蒔絵は、体育館をゆっくり走りながら、囁かれる言葉に耳を傾けた。
「高校生で妊娠ってあり得ないよ」
「高校を辞めないのかしら」
「銀河も手が早いよな」
蒔絵は、涼しい顔でランニングを続けた。想定内の反応だった。双子を連れて登校した時も、同じ雰囲気だったことを思い出した。そして、銀河が在学している内に、妊娠をしたことが間違いではなかったと改めて思った。
銀河は、その言葉が全く聞こえていないような態度だった。
蒔絵は「銀河も大人になったのかな」と思った。
放課後、銀河はいつもの通り、田邊先生と一緒にプログラム製作や、情報オリンピックの準備をし、5時からは鯨人と一緒にバドミントンのシングルスの試合をした。
蒔絵は図書館での勉強の後、体育館に来て、銀河達の試合が終わるまで、他の選手の練習のサポートをしたり、ランニングをしたりしていた。
下校時になるといつものように、野球部が体育館になだれ込んできた。
「銀河、おめでとう。パパになったんだって?」
口さがない野球部員が早速、冷やかしてきた。どこか、嫌らしい響きだった。
「もう2人で住んでいるんだって?あんまりやり過ぎると、双子になっちゃうぞ」
銀河は涼しい顔で答えた。
「流産の危険があるから、お預けなんだ」
卑猥なからかいをした部員は、翔太郎に野球帽で叩かれた。
「そんなんだから、お前は女にモテないんだ」
「翔太郎だって、モテないだろう?」
騒ぎながら、野球部が体育館を抜けていくと、銀河は静かに道具を片づけ始めた。
藍と茜は、既に5時に鈴音が迎えに来て、帰って行った。鈴音の体調も今はかなり良くなって、銀河達の手伝いもほぼいらなくなっていた。
銀河と蒔絵は、黙って校舎の裏手にあるマンションに戻っていった。
新居に着くと、銀河は大きなため息をついて、ベッドに寝転んだ。
「銀河、疲れた?」
「え?ああ、藍や茜の時は、どこか自分たちは被害者だって居直りが出来たけれど、今回は自分たちの話だし・・・・。まあ、明日からは慣れるっしょ」
蒔絵はいつものように銀河のお腹に頭を乗せて、仰向けになった。
「やっぱり、銀河で良かった」
銀河は目をつぶって、蒔絵の頭を撫でた。
「ただ、徳校長はああ言ったが、『産休』は取れるにしても、成績の配慮はないはずだから、体調がいい内に勉強を進めておけよ」
「は~い」
そう言うと、蒔絵は冷蔵庫に向かった。
銀河はその動きを薄目を開けて見つめた。
(最近よく食うよな。悪阻の前にも腹って空くのかな?それとも、ストレスか?まあ、蒔絵がデブになっても、俺は気にしないけれど・・・)
いよいよ、銀河と蒔絵自身の子育て記が始まります。先日、千葉に行ったら、子連れの家族がいっぱいいました。「どこが、少子化だ!」って思いました。でもすぐ「結婚しないとか、子供を持たないという選択をした人は、別の場所に行くな」って、思い直しました。見えるものが立場によって変るものです。