86 更紗の受験
翌日は、綺麗な晴天だった。ただ、深夜に2時間ほどかなり激しい雨が降ったので、野外観察では、川沿いのコースが外された。
受験生の男女比はほぼ半分。その20名が学校近くの崖まで歩いて行き。サンプル採取などをした。10月とはいえ、暑い日だった。
更紗は、地表でよく見たことがある灰の固まりを見つけた。
「あ」
指でこすり、光に当てるとキラキラしていた。
「どうしましたか?」
大学の教授が、声を掛けてきた。
「これ、富士山の火山灰ですか。松本まで飛んできているんですね」
「そうかも知れません。風向き次第で広範囲に広がる可能性はあります」
別の教授が、話題に入ってきた。
「昨夜の雨で火山灰はすべて洗い流されていませんか?大学に戻って確認しないと、確実に富士山由来とは断定できませんよ。えーと、鮫島さんですよね。あなたはどうしてそう思ったのですか?」
更紗は記憶を辿った。
「富士山からの降灰は、雨の後が大変でした。コンクリートみたいに固まるんです。村民総出で片付けましたから覚えています。女性は、屋根から水で流して落としたのを集めて、灰集積場に運びました。その後、コンクリートの材料に再利用するって聞きました」
「実際に見て質感を覚えたのですね。是非帰って、顕微鏡でその組成を見てみましょう。それと比べるために、こちらの地層の凝灰岩も、比較用のサンプルとして取っていきましょう」
崖には、過去の噴火の痕跡でもある凝灰岩を含む地層もあった。
更紗は、自分たちの苦労も、歴史の1ページになるのだという感慨を覚えた。
地層サンプルを取るには、斜面をよじ登らなければならないが、昨日の雨の影響で、結構登りづらい。体重の軽い男子が、身軽に登っていったが、掴んだ木が急に折れて、1m程落下してしまった。その男子は足首を抱えてうずくまってしまった。
「あー。捻挫ですかね。医者に行きますか?」
男子生徒は、試験の途中で脱落したくないので、教授の心配する言葉にも「大丈夫」の一点張りだった。
更紗は、リュックの中の救急箱を取りだした。そして、男子生徒の足元にかがんだ。
「ちょっと見せて。あー。まだ腫れてないね。テーピングする?」
男子生徒は、半分涙目でこくんと頷いた。
更紗は、過去に自分が捻挫を庇って、最終的には膝の靱帯を切ってしまったので、他人のものであっても、ぐらぐらの足首をそのままにしておくことは出来なかった。
「はい、巻き終わった。でも、もう少しすると、腫れてテーピングがきつくなるかも知れないから、その時は言って、鋏で食い込んだテープに切り込みを入れるから」
男子生徒は、その後のレポート作成、講義受講まで、辛うじてこなすことが出来た。最後は面接だった。20人は教室で、面接の順番が来るまで、静かに待っていた。
先ほどの男子生徒は、脂汗を流しながら、面接の順番を待っていた。更紗はその様子に気がついて声を掛けた。
「大丈夫?脚が腫れて来たんじゃない?脚見せてくれる?」
男子学生の足首は、かなり腫れていた。更紗は、一旦圧迫を解いて、腫れに触らないように再度テープを巻き直した。腫れている部分には、救急箱から「冷えピタテープ」を持ち出し貼った。
「これは気休めだから、面接が終わったら、必ず大学の人に、氷を貰ってガンガン冷やしてね」
更紗は、男子学生より先に面接に呼ばれた。
「ありがとう。君も試験があるのに。僕、後閑悠仁と言います。面接頑張って」
後閑は、弱々しげな笑顔で、更紗に手を振った。
「うん。私は鮫島更紗。後閑君も、頑張ってね」
更紗は、後閑と話したことで緊張が解け、冷静に面接を受けることが出来た。
面接が終わると、出口で「受験生の皆さんへ」という紙を受け取った者から、帰宅することが出来た。穂高は、引率者待機場所である学食で待っていた。
「どうだった?」
更紗は、小走りに穂高に近づいていった。
「まあまあ・・・かな?後は、共通テストを頑張るだけ。見て、見て、富士山の灰がここまで降っていたのを見つけたよ」
更紗は小袋に入れたサンプルを見せた。穂高はそれを外の光に透かして呟いた。
「これは富士山の灰かな?焼山の灰じゃないのか?まあ、学校に帰ったら、顕微鏡で見てみようか」
「えー。間違っていたら、恥ずかしい。教授は何も言ってくれなかったよ。あー。意地悪」
「いや、もし富士山噴火の灰なら、それはそれでいいデータが取れるから、再度検証しているかもね。大学だから裏付けが取れるまで、しっかり調べるんだよ。まあ、更紗が今すべきことは、後輩のために試験報告をしっかり作っておくことだ」
「はあい。鮫島先生。あっ、後閑君だ。あの人が家族の人かな?」
「また、男に声を掛けられたのか?」
「違うよ。あの子、課外活動の時、捻挫したから、私がテーピングしてあげたんだ」
そんな話をしながら、後閑を見ていると、家族とおぼしき女性が2人のところへやってきた。
「ありがとうございます。私、悠仁の姉の、後閑佳美です。これ、テーピング代です。お納めください」
「いや、いいんですよ。僕の使いかけのテーピングで申し訳ありません。後で新しいものを買って巻き直してください。これから医者に行くんですか?」
「いいえ、今日は日曜なので、行きません。多分、救急に行くほどの怪我ではないと思います。高崎に戻って、月曜になったら、医者に行かせます」
試験が終わって、悠仁の方も少しほっとしたのだろう。砕けた話し方になっていた。
「鮫島さん、これ、俺の姉ちゃん。看護師なんだ」
姉の佳美は、悠仁に似て華奢な女性だった。
「あの、駅までいらっしゃるんですよね。私達、タクシーを呼んであるので、一緒に行きませんか?」
そう佳美に言われれば、同乗する選択肢しかなかった。悠仁は、普通に歩けそうもないし、荷物も2人分ある。更紗と穂高は目配せした。
「では、悠仁君、背負われるのと横抱きどっちがいいかな?」
「えー」
「鮫島先生、足元がまだ滑るから、負んぶがいいと思います」
更紗は、鮫島の荷物も一緒に持って動き出した。
「あの、そんなつもりでは、なかったのですが」
佳美は、真っ赤になって言い訳をした。
「私達も、高崎駅経由で帰るんで、一緒に行きましょう」
更紗は、佳美と並んで歩いた。
「あの、鮫島さんは、鮫島先生とはどのような関係で・・・」
「兄です。でも、高校の先生でもあるんです。今日は引率で付いてきて貰いました。私達の村って、この間の土砂崩れで通行止めなんです。だから、ヘリコプター出して貰って、大回りで松本にたどり着いたんです」
タクシーで駅に着いたことで、少し時間は稼げたが、ヘリコプターが飛行できる時間に、つくば未来村に着かなければ、今日中に百葉村に帰ることはできない。
駅に着いても、穂高は再度、悠仁を担いで、さっさと駅を移動していた。
「背負われるのはかっこ悪いでしょうが、申し訳ないけれど、僕たちは4時までにはつくば未来村に着かないといけないんです。急がせて申し訳ないね」
高崎までの新幹線に乗り込むと、4人は席を向かい合わせにして、やっと食事をすることが出来た。再び、穂高が駅弁を買ってきた。
「どうぞ、好き嫌いもあるでしょうから、4種類買ってきました。好きな物を選んでください」
「あー。すいません。これは私がお支払いします」
「気にしないで下さい。独身貴族はお金持ちなんです」
更紗が茶化すような言い方をしたので、穂高は、こっそり更紗を睨んだ。
「じゃあ遠慮なく頂きます。僕は幕の内。姉ちゃんはサンドイッチ弁当がいいだろう?」
悠仁は場の空気を読んで、さっさと弁当を選んだ。
「じゃあ、私はこっちかな?鮫島先生は、ガッツリ系がいいですよね」
いくら軽いとはいえ、男子高校生1人負ぶって、駅を移動したので、穂高はそれなりに腹が減っていた。あっという間に、1人分を完食すると、買ってきたお茶も勢いよく1本飲みきってしまった。
その後、接続の列車について調べ始めた。そんな穂高を、佳美はぼんやり眺めながら、ゆっくりサンドイッチを食べていた。受験生2人は、今日の試験の振り返りをしていた。
「悠仁君は、面接で何を聞かれた?」
「自分のレポートの不備を突っ込まれたよ。時間がないから、なんとか結論までまとめたつもりだったんだけれど、『いささか、強引でしたね』なんて、言われちゃった。更紗さんは?」
「私は、灰に注目して、顕微鏡で調べた結果をまとめたかな?そして、そこで不明瞭な点を列挙して、次に調べる課題についての考察を書いた」
「ああ、その辺でレポートまとめても良かったのか。更紗さんは地学の先生に、高校で指導して貰ったの?」
「家の学校は、地学は開講していないよ。教えてくれたのは、物理の先生」
穂高はスマホを見ながら、「それは自分だ」と手を挙げた。
「鮫島先生は、オールマイティーなんですね」
「いやいや、学校が小さいんで、生物や化学は、中学の理科の先生に教えて貰いながら、高校の授業をしていますよ。地学に関しては、教科書を読み込んだだけ。
ただ、研究レポートの書き方なんかは、大学時代の友達にレクチャーして貰ったり、千葉大学の高校生対象の地学講座を2人で受講したり、試行錯誤です」
「鮫島先生には、ご迷惑をおかけしています」
更紗はこういう時だけ、兄に敬語を使う。穂高も、一応引率教員モードだ。
「ご理解いただきありがとうございます。蒔絵は医学部受験だから、生物と化学だし、本当に僕は今、一生で一番勉強しています」
悠仁は、初めて話題に出てきた「蒔絵」の名前に、首を傾げた。
「蒔絵はね、私の2つ下の妹。医者になりたいんだって」
サンドイッチをやっと食べ終わった佳美は、感嘆していった。
「妹さんも優秀なんですね。更紗さんは、もう卒業後の進路を考えているんですか?」
更紗の答えは穂高も聞きたいことだった。
「私達の住んでいる百葉村って、地震、津波、噴火による降灰、台風、土砂崩れ、洪水って、1年でこれだけの災害に見舞われたんです。母は、村役場の職員なんで、その度に泊まりがけで仕事をしています。だから、大学で、災害対策について専門的知識を勉強して、同じ公務員として働きたいと思っているんです。専門は、中に入って決めるつもりですが、今は土砂崩れの印象が強くて・・・」
穂高は、更紗の顔を見つめた。幼なじみの家が土砂崩れで跡形もなく、なくなってしまったことに、ショックを覚えているのではないかと、気になったのだ。
穂高の視線に気がついた更紗は、口の端を挙げて、笑顔を見せた。
「悠仁君は、将来何になりたいの?」
悠仁は、佳美を盗み見た。
「うちさ。産婦人科をやっているんだ。中学まではそこで働くもんだと思っていたから、医学部志望だったんだけれど、経営が厳しくて、そろそろ、そこを畳むことになったんだ。だから、好きな進路を選べることになったんだけれど、最近の災害の多さに、地学に興味が出てきて、ここを受けたって訳。ご免ね、ミーハーな学部選択で」
「そんなことないよ。私も、学力不足で東北大学から、夏休み明けに進路変更してきたんだもん」
穂高は、スマホにまた視線を戻しながら、呟いた。
「彼氏も巻き込んでね」
更紗は肘で穂高を小突いた。小さい声だが、後閑姉弟はしっかりそれを捉えた。
「更紗さんの彼氏さんは、どこの学部を受けるんですか?」
弟が聞けない質問を、佳美が代わりに行った。更紗は困ったように笑った。
自分の発言の責任を取るように、穂高は訂正を入れた。
「彼氏の家は、先日の土砂災害で自宅が全壊したので、進路については、白紙になったかも知れないんです」
佳美は、申し訳ない顔になってしまった。そして、一生懸命フォローをひねり出した。
「ごめんなさい。答えにくい質問をしてしまって。廃院した後は、私も無職ですけれど」
「看護師さんは、どこでも引く手あまたじゃないですか?」
穂高の慰めともつかない言葉に、佳美は反論した。
「看護師ならそうかも知れませんが、私は、助産師として働きたいんです」
穂高が顔をしっかり上げて感嘆の声を上げた。
「いいですねぇー」
佳美は穂高の言葉に、赤面した。
「ど、どうなさったんですか?」
穂高がそれに答えた。
「百葉村は無医村なんですが、近い将来、病院を作る構想が出ているんです」
「村立ですか?」
「表向きは村立ですが、未来TEC社の健康保険組合と共同運営する形になるかも知れません。佳美さんもご存知だと思いますが、医療法人の経営が悪化するのは、非営利組織だからですよね」
「はい。診療報酬が上がらないのに、物価も人件費も高騰して、もう大変です。そもそも、医者って経営は素人なんで、こういう場合の対策をなかなか立てられないんです。家みたいな家族経営は家計を切り詰めて営業しています」
「大変ですよね。村で計画している病院は、経営はプロが行い、病床は少なくして、医療スタッフの給料と住居費はすべて未来TECが請け負う計画です。勿論、高度医療は無理ですが、日常的に健診を行い、村全体の健康状態を守るんだそうです」
「病床を少なくするとは?」
「出産や手術以外は在宅診療を主に行います。村はこぢんまりしていて、車を使わなくても一周できるんです」
「そもそも村民と社員だけでは患者数が少なくて、ペイできないのではないですか?」
「対象は、『百葉村』と『つくば未来村』の村民と未来TECの社員全員ですから、健診するだけでも、かなりの数ですね。それに、今、二つの村では新しいマンションが建設中で、新宿にあった本社が丸々移転してきますから、人口はかなり増えます」
更紗が、兄の袖を引いた。
「鮫島先生は、どうしてそんなに詳しいの?」
「家の両親が、その仕事に今度専任で就くことになったんだ。居間ではもっぱらその話だよ」
「でも、極秘じゃ?」
穂高は名刺入れから、ピンクの縁取りの名刺を取りだした。名刺には次のように書かれている。
「未来テック百葉村立病院準備委員会 企画広報部 部長 鮫島政成」
穂高はその名刺を、佳美に両手で渡した。
「このお話に興味が湧きましたら、こちらにご連絡いただければ幸いです。資料もでき次第お送りいたします」
そして、更紗のほうに顔を向けてこう言った。
「今日初めて、この名刺を使った。なかなか産婦人科関係の方にご縁がなくてさ」
ここまで話が進んだ時、新幹線は高崎駅に到着した。乗り継ぎ時間がほとんどないため、ホームで、鮫島兄妹は後閑姉弟と分かれた。
後閑姉弟は、駅員に車椅子を頼んで、改札まで向かったが、改札からタクシー乗り場まで、気が遠くなるほど長かった。ケンケンに疲れた悠仁は、タクシー乗り場前のガードレールに腰を下ろして、呟いた。
「俺、今回の試験に落ちたら、医学部保健学科受験しようかな?」
「急にどうしたの?」
「百葉村の病院が、健診に力を入れるなら、検査技師が必要だろ?それに、俺、フィールドワークを舐めていたよ。更紗さんは、スーツケース2つ持って階段を駆け上っていたけれど、あの体力は俺にはないわ。俺はこの捻挫が、進路変更のいい機会を与えてくれたと思うさ」
佳美は寂しそうな顔をして、悠仁を見た。
「本当は、医者になりたかったんだよね」
「家にそんな金はないだろう?それに検査技師には夜勤がないからね」
悠仁は、タクシーに乗り込んで、静かに目をつぶった。
週末、外に出ておりまして、更新が滞りました。次回は、更紗と穂高が松本に行っている間の出来事です。