79 台風の目
夕飯の配布が終わった後、ほとんどの避難者がそこで配られたパンの缶詰を開けて食べ始めた。パンの缶詰は5年間保存の品で、徳憲子が村長に就任した年に購入したものだった。
里帆は、パンの配布をしている長机の近くで、缶詰に見入っていた。
「ああ、ブルーベリー入りのパンがあったんだ。私はそれが食べたかったな」
配布作業が終わった銀河は、自分の場所に戻ろうとしていたが、里帆のつぶやきを聞きとがめた。
「そんなこと言うなよ。自分の分をもう食べたんだろ?」
「うん、お昼抜いたからね。貰ってすぐ食べちゃった。銀河は食べないの?」
「家から持ってきた食料を食べてから、こっちに手をつけるよ」
「何を持ってきたの?」
「色々だよ。まず消費期限が切れそうなものから、計画的に食べる。今日は、冷蔵庫の食材で作ってきたサンドイッチを食べたよ」
里帆が中々帰って来ないので、心配した和帆と甲次郎がやってきた。
「里帆、ママが心配していたよ」
「ああ、ゴメン。すぐ戻る」
「あっ、銀河さん。今日は。銀河さんは本当に格好いいですね。さっきも、サッと名簿を出してきて、iPadを使いこなしていますね」
「和帆だって、学校でiPadを使っているんだろう?同じことができるよ」
里帆が、我が事のように銀河を褒めた。
「銀河が、小学校6年の頃は、iPadを使いこなしていたんだよ。すごいんだから」
「里帆だって、iPadでお絵かきしていただろう?ほら、お迎え来たんだから、無駄話してないで、戻れよ。俺も双子の世話があるから」
里帆は、もっと銀河と話したかったようで、名残惜しそうに銀河の後ろ姿を見ていた。
そんな里帆に気づいて、和帆が放った言葉に、里帆と甲次郎の2人の顔は引きつった。
「里帆も、銀河君のファンなんだろう?明日も話ができるから、今日は戻ろうよ」
「ファンじゃないよ。ただの幼なじみだから」
そう言いながらも、蒔絵と茜を連れて、工場から出て行く銀河の後ろ姿から、里帆は目が離せなかった。
銀河の帰りを待っていた蒔絵は、むずかる茜を抱いて、あやし続けていた。
「茜は、限界だな」
「うん。桐生さんの大声で起きちゃってから、ずっとこの調子なんだ。私も工場出て、地下の通路に行くよ。そろそろみんな眠る時間だし・・」
隣からは、紫苑の寝息が聞こえていた。夕飯にパン1つと水だけだったので、「起きていると腹が減ってしょうがない」などと言って、早々に寝てしまったのだ。
「あんなに、問題集なんか持ってきたのに、本を枕にしてもう寝ているよ。今年受験生とは思えないな」
そう言うと、ポケットからカロリーメイトを出して、半分を蒔絵に渡しながら、銀河は動き出した。
「銀河は先に寝ていていいよ」
「いや。先に姉ちゃんを休ませてやらないと。俺はまだ、眠くないから」
「まず、蒔絵はトイレに行ってこなきゃ」
そう言って2人は、女子トイレの前まで茜を抱いていった。
「俺、入り口で待っているから、行ってこいよ」
茜を抱いて待っている銀河の横に、里帆がやってきた。
「里帆を待っているの?」
「ああ、避難所の女子トイレは、安全じゃないから」
「えー?さっき私入ったけれど、別に大丈夫だったよ」
「そうか?でも、避難所って女性には危ないところだからね。夜中にトイレに行く時は、翔太郎か甲次郎について来て貰ったほうがいいよ」
「大丈夫だよ。蒔絵ちゃんだって、そこまで心配しなくていいのに」
銀河は海里の事件を思い出して、それ以上話を止めてしまった。
「銀河、お待たせ。あー。里帆もいたんだ」
「早く鈴音姉ちゃんのところに行こうぜ。朝、5時に母ちゃんが未来TECに仕事に出かけるから、そこまで、姉ちゃんと母ちゃんにはゆっくり休んで貰おう」
「じゃあ、朝5時には、地下通路から未来TECの社屋に行くドアが開くんだね」
「そうだな。母ちゃんは出勤したら、夕飯の片付けが終わるまで、多分、向こうにいるよ」
「私も、そこを通って、マンションに戻れないかな?」
「何か、忘れ物?いや、マンションで寝てきてもいいよ。疲れただろう?」
もじもじしている蒔絵に、情況を察した銀河は、蒔絵の腰を叩いた。
「今晩は大丈夫か?」
「うん、今晩は大丈夫だけれど、・・・」
「いいよ。マンションに帰ったら、風呂に入って、2日くらい布団でゆっくり休んでこいよ」
「ゴメン。手伝うって言ったのに」
銀河は、蒔絵の肩を抱いて工場の地下通路へ行こうとしたが、向こうから翔太郎がやってきたので、立ち止まった。
「おーい。銀河、里帆を知らないか?なかなか戻ってこないんで、みんなで手分けして探していたんだ」
蒔絵がすぐそれに答えた。
「ここにいるよ」
銀河は、翔太郎の肩に手を置いて、耳元に囁いた。
「里帆は、危機感が全くないから、ちゃんと見張っておけよ」
そう言うと、蒔絵と一緒に工場の地下通路へ歩いて行った。
里帆は、蒔絵の肩を抱いて消えていく銀河をじっと見つめた。翔太郎は、里帆の視線の先に銀河がいることに気がついた。
「里帆って、本当は銀河のことが好きなの?」
「まさか。銀河には蒔絵ちゃんがいるじゃない」
「じゃあ、甲次郎のことはどう思っているの?」
「好きだよ。パソコンも得意だし」
翔太郎の頭に一つの疑念が浮かんだ。思ったことを隠せないのが翔太郎である。
「甲次郎は銀河の代わりにはならないからな」
里帆は翔太郎の言葉に胸を突かれた。「銀河の代わり」にするつもりなんてなかったが、そう言われれば思い当たる節がある。
翔太郎は、里帆が黙っているのが答えだと理解した。
「勘弁してくれ。里帆に利用されていると分かったら、あいつはまた、引き籠もっちゃうよ」
「利用なんて」
翔太郎は、無性に情けなくなった。誰も彼もが、あのぽっちゃりした銀河がいいという。腹立ち紛れに、里帆に聞こえるか聞こえないかの声で呟いた。
「銀河が格好良く見えるのは、蒔絵が側にいるからだからな」
銀河は、自分たちのベッドから毛布を2枚持って、地下通路に向った。鈴音から受け取った藍はよく眠っていたが、茜は抱っこしていないと眠りそうになかった。
蒔絵は藍を湯たんぽ代わりに抱えると、毛布の上に座り込んだ。銀河は茜を背中に負んぶすると、iPadを見ながら、長い通路を歩きながら行ったり来たりした。
「嫌だ。銀河は二宮金次郎みたい」
地下の通路には、冷たい風がやって来るので、銀河は眠りそうな蒔絵の肩に、もう1枚の毛布を掛けてやった。
台風がもたらす強い雨風の音は、地下通路にまでは響かなかったが、銀河は勉強の合間にiPadで台風の進路を確認していた。
巨大台風は、伊豆半島付近で本土に上陸し、速度を落として、ゆっくりと北上しているらしい。雨雲レーダーを見ると、早朝5時に千葉県上空を通過するらしい。
「すごい渦だな。台風の目も大きい。さて、茜も静かになったし、俺も少し眠るかな」
そう言って、銀河は茜を膝に抱えて、蒔絵の隣に座って束の間の眠りについた。
「銀河、ありがとう。代わるよ」
鈴音の声で、銀河は起こされた。蒔絵ももぞもぞ動き出した。鈴音の後ろには、未来TECの厨房に向う茉莉も立っていた。
「ああ、母ちゃん。蒔絵は『始まっちゃった』んだって、だから一緒に連れて行ってくれないか?マンションに戻りたいんだって」
「えー。ご免ね。夕べは助かったよ。私は、5時と8時にあそこのドアを開けて出入りするから。こっちに来ることがあったら、連絡頂戴ね。荷物持ってくるんでしょ?私は仕事に遅れるから、先に会社に向うけれど、銀河にドアの鍵を渡して置くから、蒔絵ちゃんは荷物持って、後から来て」
鈴音が開けたドアを、銀河が閉めたのは10分後だった。しかし、その間に1人の男が、社屋を通ってマンションに抜けたことに、誰も気がつかなかった。
その男が、マンションの1階から外に出た時は、調度、台風の目が百葉村上空にあり、朝日が静かな村を照らし始めていた。
「全く、こんないい天気で、何が避難だ」
男は開放感に浮かれて、その美しい青空を大きく囲んでいる暗く重たい雲を見落としていた。
男は、涸れ沢から流れ出た水が、綺麗に洗い流した道路を、悠々と自宅に向っていった。
先まで流れていた水は、今、ある場所に貯まって、そこの土砂を流す準備をしていた。
「避難するって、小百合さんは、自宅のドアを閉めなかったんだろうか?物騒だな」
熊によって、器用に開けられた玄関先には、小百合が持ち出そうとしていた着物バッグが放置されていた。
「これは、小百合さんが大切にしていた着物だな?我が家に持っていって、保管しておこう。火事場泥棒に盗まれたら、悲しむだろうからな」
男にとって幸いだったのは、玄関先で荷物を持ってすぐ自宅に戻ったことだ。小百合の家の台所では、熊が逃げる前の腹ごしらえをしていたから・・・。
男が避難所からいなくなったことに、家族が気づくのは、台風の目が過ぎ、再び激しい雨風に百葉村が襲われ初めてからだった。
昨日は、もう一台のパソコンが故障しまして、バタバタしておりました。ヒューレットパッカード社の、電話サポートの方は非常に丁寧で、最後にはパソコンの初期化までしましたが、不具合が解消して今はほっとしております。スタッフの方の日本語もとても上手で、わかりやすかったです。