78 避難所に全員集合した
その日は、朝から重い雲が垂れ込めていた。風が次第に強くなる中、TVでは、史上最大級の台風への警戒を繰り返し、訴えていた。予報では、昼には線状降水帯が停滞し、大量の雨をもたらし、深夜に台風が房総半島を襲うと告げていた。
今回の台風は、サイズも巨大だが、満潮時に房総半島を襲うということで、高潮の被害も心配されていた。
今回の予報が出るや否や、千葉県全域で避難指示が発出され、百葉村の住民も続々と避難場所に移動してきた。避難しないのは、未来TECマンションの4階以上の住民だけで、3階以下の住民も、山側の窓を割って、土砂が流入する危険が予測されたため、未来TECの工場への避難が推奨された。
菱巻家も、土砂災害警戒区域に入っているので、早朝から避難の準備に追われていた。菱巻家のワゴン車に積み込む荷物をついては、まず、双子の生活用品が優先された。
高校生達が、避難所に指定されている工場に、村役場から運び込んだのは、段ボールベッドと紙製のパーテーション、それに1,000人が3日食いつなげるだけの災害食と、水だった。
工場は、もともと路面電車の製造用に建築された建物なので、空調は効いていたが、雨風が凌げるだけなので、その他の生活用品は各自持ち込まなければならない。
「銀河、パソコンはいいが、その大きなバッグは何だ?」
「五月蠅いな。俺の私物だよ」
「貴重品と生活用品以外、ワゴン車には入らないんだぞ。それに、ワゴン車も軽トラも一旦、未来TECの駐車場に入れたら、もう出せないから」
「紫苑だって、そんなにたくさんの問題集や参考書は邪魔だろう?最初からiPadにデータを入れておけば良かったろう」
縁側でもめている兄弟の前に、蒔絵が現れた。
「銀河、パソコンとそのバッグだけでいい?iPadは避難所に持っていくでしょ?」
蒔絵は、詳しいことは聞かず、喧嘩の元のバッグを抱えて、マンション5階の蒔絵の部屋のベッドにそれを置いて、走って戻ってきた。
紫苑が蒔絵に尋ねた。
「更紗は、何しているの?」
「ん?家でいつも通り勉強しているよ」
紫苑は、更紗が自分のために下りてくる気がないことに、がっかりした。
「蒔絵、俺の参考書を更紗のところに持っていってくれないか?」
「ゴメン。更紗がいいって言わないと無理だよ。それに、私達は、避難所に先に行って、ワゴン車の荷物を受け取りに行かなきゃ」
そう言って、蒔絵は銀河と一緒に、直接避難所に走って行った。
「蒔絵ちゃんは、避難所に泊まるのかね、悪いね」
そう言うと、英子と鈴音は双子を抱えて、ワゴン車に乗り込んだ。助手席に銀次を乗せると、茉莉はさっさと出発してしまった。
「ほら、何しているんだ。お前はこっちを手伝え」
鉄次は、軽トラにTVや冷蔵庫など、流されて困る家財道具を積み込んで、布団でくるんで、ブルーシートを掛けている。
「そっちにロープを投げるぞ」
文句は言うが、車1台分の家財道具は、未来TECの駐車場に運べば、守ることができるので、紫苑も必死で作業をした。
徒歩ラリーの時、ゴール地点になっていた広場には、次々と自家用車が入ってきた。一度入ると、避難指示が解除されるまでは車は出られない。それは、奥からびっしり車が詰めて入れられているだけでなく、午前10時になったら、山側と海側の両方のゲートが閉められて、土砂の流入や浸水を防ぐからだ。
「鈴音お姉ちゃん。菱巻家の場所、作っておいたよ。荷物運ぶね」
「ああ、蒔絵ちゃん。オムツやミルクは、1日分だけ持っていってくれる?」
「いいよ。ああ、必要な分は、駐車場に戻って取りに来ればいいね」
鈴音達が避難所に入ると、入った順から場所を取り、家族ごとにパーティションで区切っていた。
銀河はパーティションの中で、段ボールベッドを組み立てていた。
「あれ?数が足りている?」
「ここは、4人分だよ。双子と鈴音姉ちゃん、母ちゃんと俺達の6人は、別に場所を取った」
「双子が泣き出しても、そこなら、下の通路に出やすいんだ」
避難所で双子が泣き出した場合を、銀河は想定していた。
避難所となった工場は、地下の通路で未来TECに繋がっているが、そこは風が通り、夜でも灯りがある。泣いた赤ん坊を抱いて、そこへ出れば、寝ている人から冷たい視線を投げられなくても済む。
「2人泣いて夜中にあやさなければならなくても、残りの2人はここで休めるだろう?避難生活は長いと思うんだよね」
銀河が用意した場所は、段ボールベッドを6つ、くっつけて並べてあり、その上に毛布を広げてあった。双子は、そこに腰を下ろして、楽しそうに遊び始めた。
春二が未来TECの災害対応で避難所に来られないので、不安に思っていた鈴音は、肩の荷が軽くなったような気がした。
百葉村の住民は続々と、避難所にやってきた。
中村翔太郎と甲次郎の兄弟も、未来TECのマンション住まいだが、1階に住んでいるので、こちらの工場にやってきた。甲次郎の顔を見つけると、山賀里帆とその弟が走ってきた。
「甲次郎君達の場所も、僕たちの隣に作っておいたよ」
嬉しそうに、和帆が甲次郎と話している。翔太郎は、甲次郎と里帆が視線を交わしているのに気がつき、胸の中がもやっとした。
駐車場が閉まる10時直前には、小百合と花子が、鯨谷一家と鯨人と一緒に滑り込んだ。
「出づ水さん、本当に助かりました。車がないので、途方に暮れていたんですよ。食べ物も歩いて持って来るのも大変ですし、本当にありがとうございました」
「小百合さん、本当に着物は持ってこなくて良かったんですか?」
「ジェイ君、着物は食べられないわよ。一応大切な着物は、防水の鞄に入れて置いたから、運が良ければ、また手元に戻るかも知れないわね。でもね。赤ちゃんの用品とか、私達の食べ物や水などの方が大切よ」
そう言いながらも、自分のために、翻訳機を持ってきてくれたことが、ジェームズは嬉しくてしょうがなかった。
午前10時を過ぎると、避難所の壁のプロジェクターに、「避難所での注意」が流れた。
未来TECの社員は、決して避難してきた村民の前に顔を出さない。避難所の運営は、村民が行うもので、未来TECは場所を提供しただけというスタンスだ。
田邊先生は相変わらず、家族と一緒にマンションにいるが、成り行き上、村民のGPSの動きを監視する仕事を遠隔で行っていた。
田邊義崇は、朋実が用意してくれたサンドイッチを口に運びながら、ブツブツ文句を言っている。
「まだ、全員避難してないよ。これは、桐生のじいさんが、またごねているんだな。小町さんは、そんな我が儘じじい、放って置けばいいのに」
「全員避難したら、もう仕事は終わり?」
「そうでしょ。行政の仕事って、そこで終わりでしょ?見てよ。水嵩はどんどん増えていって、涸れ沢がもう川になっているじゃない」
朋実は、愛実の食器を洗い終わって、仕事をしている義崇の側にやってきた。
「こっちの画面は村役場から来ている映像?」
「うん。GPSのソフトを作って、『実際の被害状況とデータを重ねたい』って言ったら、山林監視カメラの映像も送ってくれているんだよ」
「あれ、猪や狸も映っているね」
「雨がひどいから、電気柵の電源をみんな切ったらしい。だから、野生動物がみんな山から里に避難してきているんじゃないかな。どこへ行くんだろう」
「動物は安全なところへ逃げるのかな?」
義崇は、菱巻家の畑で、サツマイモを掘り返していた猪が、何かに怯えて、一斉に逃げ出すのに気がついた。
(あそこが危ないのかな?)
「おっと、最後のGPSデータが避難所に入ってきたよ。ついに頑固じじいも観念したのかな?」
そう言うと、義崇は最後に、村役場に「避難完了」の一報を入れ。停電の可能性も考慮に入れて、早めに風呂に向った。
その頃、最後の避難者を迎え入れた避難所は、最初の夜を迎えようとしていた。
夕飯時、菱巻鉄次が音頭を取って、各自治会の会長を集めた。
「皆さん。ここの運営について話をしたいんだが、いいだろうか?」
ボランティア経験が豊富な鉄次の言葉には、誰も異議を唱えなかった。
「まず、食事についてだが、みんな持ち込んだものもあるだろうが、少なくとも、この避難所には3日以上滞在することが予想される。その上、自衛隊や警察からの応援もすぐ来るとは限らないので、1日1回は、全員に食料を配ろうと思うんだ。それはすぐ食べてもいいし、自分が持ってきた食料を食べた後に手をつけてもいい。と、したいんだが、どうだろうか」
会長達は、毎食、食べ物が配布されると思っていたので、一瞬言葉を失った。
「避難所では、運動量も少ないし、毎食食べなくても大丈夫。逆に、食べ過ぎると太ってしまうぞ。じゃあ、配布は各家族の人数分を代表に取りに来て貰おう。おい、銀河。避難者名簿は持っているか?」
「はあ?なんで俺が持っているんだ」
銀河は口をゆがめたが、すぐ、村役場にいる蒔絵の母親に頼んで、データを送って貰った。
「父ちゃん、名簿を手に入れたぞ」
「よし、最初は手間取るが、一応、名簿にチェックを入れながら、食料と水を配布しよう」
自治会長達は、名簿を見ながら、自分の自治会内の人数分の食料を、倉庫から運んできた。
銀河の名簿はスクリーンに映し出されたので、誰が食料を受け取ったのか一目瞭然だった。
しかし、配布している間も、文句を言っている男がいた。
「なんで、あの男が代表して仕切っているんだ。何の権利があるんだ」
「お祖父さん、鉄次さんだから、みんなまとまるんですよ。これから夜になるんで、静かにしてくれませんか?」
桐生朔太郎が、避難を嫌がった理由の一つは、自分以外の人間の命令に従わなければならないことだ。自分が正しいと思ったこと以外には耳を貸さないのだ。
だからこそ、ここまで連れてきて貰ったにもかかわらず、自宅避難に拘った。
「我が家は頑丈にできている。地震の時もびくともしなかった。逃げなくて大丈夫なんだ。今すぐ帰るぞ」
「お祖父さん、避難所のドアは閉まりました。もう外は土砂降りで、道路も冠水しています。帰れませんよ」
「お祖父ちゃん。もう、小さい子供もいるんだから、静かにして頂戴」
普段、声を荒げない美鳥でさえ、かなり頭にきたのだろうか、祖父に大声で意見している。
大きな声での怒鳴り合いで、うとうととし始めた子供が、そこここで起きて、泣きだしてしまった。
しょうがないので、小百合が出てきて、朔太郎をなだめに入った。
「良かったわ。朔太郎さんを置いて、避難してきてしまったので、あなたが無事か、もう心配で、心配で、これで私も安心して、お休みできますわ」
「小百合さん、我が家は、関東大震災でも、太平洋戦争でも大丈夫だった家なんですよ。小百合さんも、我が家に逃げ込めば、こんなむさ苦しいところで、眠らなくても良かったのに」
小百合の側にいたジェームズは、日本語は分からなくても、この老人が、暴言を吐いていることが分かった。周囲の人達の痛いような視線が、この老人に注がれているのだ。それでも、朔太郎を黙らせるために、小百合は、芝居を続けた。
「まあ、そうだったんですか?ちっとも存じ上げなくて。それでも私は、ここで皆さんとおしゃべりしながら、台風が去るのを待つのも、楽しいかと思っていますのよ。
朔太郎さんからも、是非、明日、昔のお話を伺えるのを楽しみにしていますわ。
今日は、曾孫さんと一緒にお休みなるんですね。羨ましいですわ。
では、私は少し疲れましたので、お休みさせていただきます。じゃあ」
そう言って、小百合は人差し指を唇に当てて、花子と一緒の場所に戻っていった。
朔太郎は、小百合の「静かに」というジェスチャーを見て、少し頬を赤らめた。
それでも、小町や美鳥に、憎まれ口を最後に言うことは忘れなかった。
「今晩は、我慢して寝てやるが、明日、晴れたら、すぐこんな所から出て行くからな」
昔、膝まで冠水した道を車で走ったことがあります。その時乗っていた車は、その後も動きましたが、クーラーからカビの匂いが吹き出してきて、もう、乗るだけで病気になりそうになって、新車と買い換えました。車屋さんからは、ほとんどの方はエンジンがやられて、廃車になったんですから、幸せな方ですと慰められました。