77 準備は整ったか
「今日も臨時職員会議か」
田邊先生は、非効率的なことが大嫌いだ。
毎日、決まり切った授業をして、定時に帰って、妻と子供と過ごすことが楽しいのに、昨日に続き今日も、臨時職員会議がある。
内容は、①自然学習 ②避難物資の搬出作業 ③避難訓練 の3つもある。
昨日話し合った「自然学習」は、個人的には最も苦手な分野だ。なにせ、田邊先生は究極のインドア派で、先日の「徒歩ラリー」でもまともに火起こしができないと、里帆に散々叱られた。
「出口先生のように、熊を撃ったり、蜂の巣を撤去したり、マタギじゃないんだ。みんなができるようになる必要はない」と本音では思っている。
ただ、夕べ、妻の朋実に、「家族を守るためにそういう知識も必要ね」と言われたので、俄然、やる気が出て、職員研修にも積極的に参加することにした。
今日は、2つ目の議題「避難物資の搬出」の話し合いだ。村役場にストックしてある「物資」を「未来TEC」社の工場に運ぶらしい。この後、秋の長雨が続くと、裏山から土砂崩れが起こる可能性が高いらしい。もし、土砂崩れや水害が起こったら、村人全員で避難してもいいように、物資を運んでおくそうだ。
これには、手子として、中高生を使うらしい。当然、それを指揮監督するのは担任だ。田邊先生は、クラスに銀河と蒔絵がいて助かったと思った。
(すべて丸投げしよう)
今日は時間があったので、最後の議題に入るそうだ。とっとと話し合いを進めて欲しい。避難訓練の手順など、係が決めて、そのまま言うとおりに行えばいい。
それでも、言うとおりにしたくないこともある。
「鮫島先生、避難はクラスごとに行うんですか?うわー。家族単位で避難すればいいのに」
文化祭の夜の停電の時も、田邊先生は、自宅に戻って家族と避難生活をしていたのだ。
この件に関しては、いつもは貝のように黙っている田邊先生だが、しっかり反対意見を述べた。
「避難訓練をクラス単位で行うのは、反対です。学校で行うのは、家族への引き渡し訓練のみで、家族ごと、地域ごとに、避難するべきです」
「田邊先生そうおっしゃいますが、避難所の運営に若者の力は欠かせません」
「いや、未来TECのマンションは基本的に、土砂災害に耐えられるように作られています。そちらでお子さんを引き取りたいご家族もいるはずです」
「それでは、全員が避難したか分かりません」
近嵐教頭は、田邊先生が、自宅で家族と避難したいという気持ちが、よく分かっている。
「危険が過ぎた後、点呼すればいいんじゃないですか?二重遭難は困ります。1人残らず助けたいなら、村人全員にGPSでもつければいいんです」
徳校長が突然、発言を始めた。
「そのアイディアいいですね。田邊先生は、村人全員の居場所がGPSで分かるアプリが作れますか?」
田邊先生は、失言したと後悔した。しかし、後には引けない。
「まず、スマホを持っていない人に、GPS機能が付いている発信器をつけなければ、いけません。特にお年寄りですよね。風呂に入っても寝ていても、外されたら困ります」
「マイクロチップを埋め込みますか?」
職員会議の場に静寂が訪れた。
文化祭の入場券代わりの腕輪とは、ハードルの高さが違う。村人の体にこの短い間に埋め込むなんて、無理だという雰囲気が会議室に広がった。
それの雰囲気を壊すように、徳校長がとある情報をもたらした。
「未来TECの社員は、この秋に全職員にマイクロチップを埋め込むことになりました。希望者の家族にも、チップを埋め込めるらしいですよ」
家族に社員がいる田邊先生も、鮫島先生もその話は知らなかった。
「スウェーデンで行われているようなものを、国内でも使えないかと、未来TECの本社で研究が始まっています。まあ、社員は最初の被験者でしょうかね?百葉村でも、それに参加しないかという話も出ています」
近嵐先生は、田邊先生に笑顔を向けた。
「出席管理も、これで簡単にできますね」
鮫島先生が、挙手をした。
「赤ん坊にも埋め込むんですか?」
「希望すればできますが、シリコンでできた足輪で、代用もできますよ」
鮫島先生と田邊先生以外から意見は出なかった。2人は、周囲を見回したが、誰もそれに疑義を持っていないようなのが、不気味だった。
田邊先生は、先日、千葉大学オープンデイに言っている間に、何か話し合いが行われたのかと思って、竹内先生に尋ねた。
「先生はこの話知っていましたか?誰も反対しないんですけれど」
「え?知らないけれど。これで、点呼に走り回らなくていいなら、いいんじゃない?うちの犬にもマイクロチップは、入っているわ。
先生達は若くて、『避難訓練』ってしたことがないでしょうけれど、あの点呼が嫌なのよ。いない生徒のために火の中に飛び込むなんてゴメンよ。
徒歩ラリーの時も、鮫島先生のクラスで、お家に帰ってお昼寝していた子がいたじゃない」
ジェームズ賢人の話は、もう職員の中では知れ渡っているらしかった。
田邊先生は、長い会議は嫌いだが、黙っているうちに重要なことが決まってしまうのが、もっと恐ろしいことを身をもって知った。
会議の翌日には、午前は「自然教室」。午後には、「避難物資の搬出」がおこなわれた。
村役場では、町から医師を呼び、マイクロチップの注射が行われていた。
部活動の時間にも、一部の部活で荷物の移動が始まった。
茶道部は、4階の美術室の一部に、吉田小百合先生の自宅にある高価な道具の移動を行った。
「申し訳ないわ」
遠慮する小百合先生の言葉をほぼ無視をして、ジェームズは率先して茶器などを運んでいた。
「先生、この茶碗も、棗も、掛け軸もみんな運んでしまいましょう。重いけれど、風炉も炉も釜も運んでしまいましょう」
学校においてある道具は、生徒が使うので安物だが、季節ごとの行事や、文化祭などでは、小百合個人の道具も自宅から運んで使っている。
リヤカーに積み込んでは何度も往復するジェームズは、その道具の値段や価値を、ことあるごとに聞いていたので、必死に運んだ。
「最後に、先生の着物を運びましょう」
「流石に、それはいけないわ。もう夕方なので、終わりにしましょう」
翻訳機を通した言葉からは、気持ちが汲み取れないが、小百合は断固として着物の搬出を断った。
「高い着物や思い出の着物は、運ばないのですか?」
「着物はすべて基本的に高額なので、それはどうでもいいけれど、思い出の着物は、ほら、防水の着物バックに入れて置くから、避難する時自分で運んでいくわ。心配ありがとう」
そうやって、バタバタして1週間が過ぎていった。
その夜。史上最大の勢力を持つ台風が、日本列島をゆっくり北上し始めた。
語句説明:棗は抹茶を入れる茶器。風炉は夏に使う炉。炭火で湯を沸かすための道具。