75 撫子の花を覗いた
ジェームズ賢人は、登校初日に運命の出会いをした。
それは、放課後、義母直ほ水と一緒に、下校する時だった。
「重そうですね、持ちましょうか?」
「あら、いいですか?欲張って持ってきたんですが、ちょっと重かったようで」
生徒玄関で、直ほ水が声を掛けたのは、青の涼やかな着物を着た年配の女性だった。
両手に大きな着物バッグを2つも提げていたので、中にはぎっしり着物が入っているように見えた。
「それはお着物ですよね」
「はい。文化祭で生徒さんにお貸しした着物を、持ち帰ろうと思って。きゃぁ」
突然、婦人が叫び声を上げた。ジェームズが、彼女の裾をめくり上げたからだ。
「James, Quit it ! Why are you doing that? (ジェームズ、やめて!なんでそんなことをしているの?)」
「I wanted to see what was under this kimono.(この着物の下がどうなっているか見たかったんだ)」
ジェームズは、地紋入りの絽の着物の下に、撫子の花の長襦袢が見えているので、その柄が見たかったようだ。
「What you did was like lifting a skirt to see her underwear.(あなたがしたことはスカートをめくって下着を覗くようなことよ)」
この言葉は16歳の少年には、かなり効いたようだ。真っ赤な顔をして謝った。
吉田小百合は、鷹揚に笑った。
「残念ながら、下着はもう何枚かめくらないと見えないわね。長襦袢の柄は流石に往来では見せられないので、家にいらっしゃい。見せてあげるから・・」
直ほ水は大爆笑して、ジェームズに着物バックを2つとも持たせて、小百合の家に行くように指示した。
小百合の家はなんと、鯨谷家の隣にあった。
2人は床の間のある客間に通された。長い庇に遮られて、暑い日差しが差し込まない客間は、涼しい風が抜けていた。9月でも暑い毎日なので、まだ夏用の建具のままなので、風が通るのだ。薄暗い奥の部屋の開け立てた窓から、入ってきた風は、客間を通って、前庭の竹藪を涼しげに揺らして、海に抜けていった。
クーラーのない夏を経験したことがないジェームズは初めて、自然の風を感じた。部屋には、裏山の木々の匂いと土の香りが運ばれてきた。
床の間の掛け軸には「昨夜一聲雁」と書いてあった。2人は、掛け軸の文字を読もうと頭を捻った。
そこへワンピースに着替えた小百合が、冷たい煎茶と落雁を持ってきた。
「掛け軸に合わせたわけではないんですが、日持ちがいいので」
「すいません。お気遣いなく。あら、もう着替えてしまったんですね」
「流石に、着たまま長襦袢を見せるわけにも行かないでしょ?」
小百合の頭には、ヘッドセットが着いていた。
「それは?」
「海外の方にお茶をお教えする時に使う翻訳機です。スイッチ入れるので、ゆっくりしゃべっていただければ、英語でやり取りできますよ」
今日一日、教室ではほとんど話題には入れず、蚊帳の外だったジェームズは目を輝かせた。
そんなジェームズのために、小百合はゆっくりと話し、会話はすべて英語に翻訳された。
最初に、小百合は着物の説明から始めた。開け放した夏障子の奥の、着物ハンガーに下がっている青色の着物と長襦袢を指さし、
「こちらは『長襦袢』と言って、この柄は『撫子』。『秋の七草』、秋を代表する草ね。綺麗でしょ?上に着ていた着物は、『絽』と言って、夏に着るシースルー?の着物なの」
「なるほど。夏の下に秋を隠しているんですね」
「ジェームズ君と言ったかしら。いいセンスをしているわね。着物や掛け軸には、季節や心を表わす暗号が隠されているのよ。謎解きね」
ジェームズの顔が輝いた。
「じゃあ、このお菓子や、壁の字にも謎があるんですか?」
小百合は、打てば響くこの少年に興味を持った。
「壁の字って、あそこは『床の間』って言って、そこにかかっているタペストリーのようなものは、『掛け軸』というのね。そしてそこには、『夕べ、雁の声が一声聞こえた』と言う意味が書いてあるの。雁は秋を告げる渡り鳥なので、『ああ、秋が来た』という意味を表わしているの」
「じゃあ、お菓子にも意味があるんですか?」
「このお菓子は、和三盆という砂糖を使った干菓子だけれど、『落雁』という名前。『落雁』という名前の由来はいろいろあるけれど、『空から雁が下りてくる』って考えるとしっくりくるかしら」
ジェームズは、今日聞いた言葉をブツブツ反芻しながら、落雁を食べた。
「お代わりありますか?」
「こら、ジェームズ。お菓子の後、お茶を飲んでお終い。ガツガツ食べるものじゃないの!」
小百合は2人の掛け合いを楽しそうに眺めていた。
「残念ながら、明日の茶道部のお菓子なので、そんなに余分はないの」
直ほ水は、それを聞いてあることを思いついた。
「吉田先生は、百葉高校で、茶道部を教えていらっしゃるのですか?ジェームズも、習ってみたら?」
「いいわね。お菓子目当ての男の子も何人かいるし、楽しいわよ」
ジェームズは、バスケット部にも誘われていたが、お菓子に引かれて、茶道部に先に顔を出すことにした。
ジェームズは、その翌日、茶道部に向った。菓子目当ての男子とは違う、貪欲に何でも身につけようという態度に、小百合は心を動かされた。
「ジェイ君、明日は私の家で、夕方、大人の教室があるけれど、良かったら来ない?」
こうして、学校の茶道部の活動に加えて、平日の夕方の教室に3回、ジェームズは参加することになった。小百合は、ジェームズからは1銭も月謝を取らなかった。
「小百合先生、お稽古がない日も、お宅に伺っていいですか?」
小百合はにっこり笑って、それを断った。
「他の日は、学校でスポーツでもしなさい。同じ年の人と付き合うのも大切なことよ」
ジェームズは、仕方がなく以前から誘われていたバスケット部に顔を出すことにした。
誰よりも喜んだのは、海里がいなくなり、田邊先生にも逃げられた鮫島先生だった。
「I’ve been waiting for you for a long time. Wasn’t the tea ceremony club’s activities boring? (待っていたよ。茶道部は面白くなかったろう?)」
「No, I’ll continue “Sadou-bu”」
鮫島先生は、想定外の言葉に驚いたが、週に2回は部活動に出て貰えることに安堵した。部員も、留学生が遊びに来たという感じで、気安く受け入れてくれた。ただし、ジェームズのバスケットの能力は、大学4年間、体育会でバスケットをやってきた穂高を遥かに凌駕するものだったので、ジェームズがクラブに参加する日は、体育館に人だかりができた。
部活の後、ジェームズは、何人もの女子高生に声を掛けられたが、どの子と話してもつまらなかった。若いと言うことは、経験も知識も足りないということで、小百合の深い話や細やかな心遣いにかなうものはなかった。
語句の注釈:着物の下に着る一番下が一番下が腰巻き(こしまき)、その上に肌襦袢、そしてその上に長襦袢と着ます。最近は、腰巻きを着ないで、和装スリップと長襦袢という組み合わせもあります。長襦袢は、袖口や裾からチラリと見えてもいいように、柄のついたものや華やかな色を好んで着る人もいます。