73 転校生とコースの下見をした
翌日、放課後に20km走るのは、理由があった。その日は午後から先生方が、一斉に代休を取ったのだ。日曜日に下見に出たので、その分の代休だ。
走れる格好に着替えた蒔絵は、元気に特進クラスに飛び込び、鯨人と火狩を連れ出した。
「昼は食べ過ぎちゃ、駄目だよ。水も各自持ったかな?途中で一旦休憩入れるからね」
そう言って、鯨人と火狩の体に、虫除けスプレーを吹きかけた。
「コースの地図も必要だよね」
火狩が、背中のポケットから、配布された地図を取りだした。
蒔絵は、それに一瞥もせず、スプレーをリュックにしまい込んで出かけようとした。
「普通クラスは、地図を配られてないから」
「え?田邊先生は、まだ配っていないの?」
火狩の口調は非難するようだったが、蒔絵は意に介していなかった。
「うちのクラスは、すべてデジタル配布。必要な人だけプリントアウトするんだ」
鯨人と火狩を連れて生徒玄関を出ると、銀河が腕組みをして待っていた。
蒔絵はグランドを指さした。
「あそこからスタートをして、中学生はそのまま外のコースに出て行くけれど、高校生はグランドを2周走ってから外に出て行くんだ。2周で5km、これが中学生との距離の差になる」
軽くアキレス腱を伸ばして、蒔絵は話しながら、外のコースに飛び出していった。校門を出ると先ずは、村の中を走る。村の人からの声援や水の補給もある一番賑やかなコースだ。5kmほど走ると、林道に入る。
「ここは綺麗になっているな。道も広いし、木もまばらで見通しもいいな」
先生方が下見の時に、草刈りをしてコース整備をしたようだ。
銀河に、鯨人が話しかけた。
「小学生もここを走るのか?」
「いや、小学生はさっきの道をまっすぐ走る。迷うと行けないからな。山道に入る前に広い空き地があったろう?あそこにテントを張って、草履を編むんだ。出来上がった子から、草履を履いて歩き出す」
「どうして、小学生は草履を履いて歩くんだ」
蒔絵が代わりに答えた。
「昔の生活を理解する『総合学習』の一環だって」
「蒔絵や銀河も、小学生の時に草履を履いたのか?」
「俺たちは手ぬぐいで踵が外れないようにして、走ったよ。足袋も一ヶ月くらい履いて慣らしておいたし」
「本気じゃないか」
「行事で足を怪我したら、バドミントンできなくなるじゃん」
蒔絵が当たり前のように答えた。
「手ぬぐいって使ったことないな。確かに銀河は、いつも手ぬぐい持っているよな」
鯨人は、合同練習会でも大会でも、銀河が首から手ぬぐいを下げているのを知っている。
その手ぬぐいは、端がほつれて使い込まれた年期ものだ。
鯨人は自分の首に下がっている、マフラータオルの方が格好いいといつも思っている。
「これは、全中の大会会場で買ったマフラータオルだけれど、銀河のは酒屋で貰ったやつ?」
「やぁだ。菱巻の家は、昔から、松皮菱の手ぬぐいを使っているのよ。格好いいでしょ?」
銀河は、首から下がっている手ぬぐいの柄を、走りながら鯨人に見せた。
「俺の家、菱巻だから、昔からこれを使っている」
蒔絵は自分も鮫小紋の手ぬぐいを自慢しようと、鯨人の後に、火狩に見せようと振り返った。
しかし、すぐ後ろを走っていたはずの火狩は、何故か10mも後方を、真っ赤な顔で走っていた。
「銀河、休憩しよう」
蒔絵は前を走る銀河に声を掛けた。今日は、グランドの周回分5kmは走っていなかったが、もう10km近く走っている。
銀河は、ゆっくり歩みを止めた。
「お腹が痛いんだけれど、トイレ無いかな?」
やっと追いついた火狩は、蒔絵の腕にすがりつくようにして訴えた。
「徒歩ラリー当日はトイレを何カ所か、設置するけれど、今日は・・・」
銀河は、目を細めて林の奥の方に、コンクリート製のトイレを見つけた。
「あれの奥の方にあるのが、トイレかな?みんなで一緒に行こう」
「飯食いすぎたんじゃないか?1人で行かせろよ」
鯨人が軽く言い放った。
銀河が、鯨人を振り返って言った。
「いや、ここは校舎内じゃない。どんな危険があるか分からないじゃないか。1人じゃ危ない。一緒に行くぞ」
銀河達は熊に追い詰められて、トイレの上に逃げた記憶があるので、こういう場所に危機感があるのだ。
ほとんど人が使っていないトイレは、好んで入りたいものではなかった。しかし、背に腹は代えられない。急に生理が始まってしまった火狩は、匂いや汚さを我慢してトイレに入った。
水道はないので、リュックの中の水で手を洗い、リュックの中にあった制汗スプレーをにおい消しのため、体に吹きかけた。
フローラルの制汗スプレーは、思いも寄らないものを呼び込んでしまった。
「痛い!」
「どうした?」
トイレに駆け込んできた銀河達の目の前を、スズメバチが1匹、通り抜けた。
「うわ。蜂だ」
手を目の前で振る鯨人を押しとどめ、蒔絵が「しー」と声を掛けた。
銀河と蒔絵は火狩の脇を抱え、トイレから引っ張り出した。
「そのまま、静かに林から出るぞ」
村に通じる明るい道に出て、始めて火狩の腕が、かなり腫れていることが分かった。。
「銀河、スズメバチだね」
「蒔絵、裁縫道具にピンセットあったか?」
銀河がピンセットで蜂の針を抜くと、蒔絵は傷の上から水を流した。
鯨人が、腕に口を持っていこうとするのを、銀河が止めた。
「口で、毒を吸い出すのは駄目だ。すぐ、どこかの家に連れて行こう。村の出口のところに、鯨谷さんの家があるよね」
銀河は軽々と、火狩を負ぶって走った。蒔絵は先に鯨谷家に走って行った。鯨人は、3人分のリュックを持って、銀河と一緒に走った。
「火狩は、前に蜂に刺されたことがあるか?記憶になかったら、家に帰ったらすぐ親に電話して確認しろ」
火狩は、銀河の背で揺られて、昼に食べたものが戻ってきそうになった。吐き気を我慢している火狩の横で、鯨人が銀河に話しかけていた。
「アナフィラキシーショックを心配しているんだね。スズメバチがいるんなら、徒歩ラリーは中止だね」
鯨人の心配をよそに、銀河は軽く答えた。
「えー?この後、出口先生に言って、巣を撤去して貰えば、2週間後には被害はないよ。大体、あんな奥まで入る生徒はいないし」
銀河の背中でぐったりしていた火狩は、小声で文句を言い始めた。
「奥まで入った僕が悪いの?」
火狩を負ぶってきた銀河は、かなり強い制汗スプレーの匂いを感じていた。
「なあ、火狩は、トイレで何かスプレー使った?」
「・・・」
「花の香りのスプレーで、蜂を呼び込んだんじゃないかな?」
「スプレーがいけないなんて、聞いたことがないよ」
銀河は小さくため息をついた。
「じゃあ、今日覚えろ!」
蒔絵は、銀河の叱責に落ち込んだ火狩を慰めた。
「失敗しながら、いろんな智恵を身につけていくんだよ。いい勉強したね」
「僕が死にかけたのに、心配もしないのか?」
火狩の不満に、銀河はもう何も言う気がしなくなった。
幸い、火狩にアナフィラキシーショックは現れず、栗林養護教諭に適切に処置して貰ったので、腕の腫れも1週間程度で収まった。
出口先生と猟友会の仲間は、林の中を再度確認をして、スズメバチの巣を駆除した。残念ながら、巣にあった蜂の子は仲間内で食べたようで、生徒の口には入らなかった。
1週間後、今度は火狩の代わりに、クラス代表になったジェームズが加わり、再度コースの試走が行われた。ジェームズは、蜂は嫌だが、熊や猪が出ないか、ワクワクして走った。しかし、出会ったのは、練習をする子供達ばかりだった。
小中学生は、東洋人の顔をした英語を話す転校生に、興味津々だった。
「Hallo」
子供達は、知っている英語でどんどん話しかけてくる。
「Hey, what are you guys doing? (はい。君達は何をしているの?)」
「We are practicing walking rallies. I wanna be number one. (僕たち、徒歩ラリーの練習しているんだ。1番になりたいんだよ)」
中学生らしい子は、もっと難しい会話を使ってくる。ジェームズは、日本語と英語を交ぜてでも、一生懸命話しかけてくるのが嬉しかった。高校生は、英語のミスを気にして、なかなか話しかけてくれなかったからだ。
そして、いつの間にか、小学校の英語の時間に出張授業をする約束までしていた。
鯨人が無責任な約束をしているジェームズを見て、蒔絵に忠告をした。
「あんな約束して大丈夫か?小学校の先生に、止めて貰ったほうがいいんじゃないか?あいつの英語は特殊だし・・・」
「いいんじゃない?アメリカやイギリスの英語しか聞いたことないと、現実には使えない場面が多いよね。いろんな英語があるって分かればいいんじゃない?」
(この学校のゆるさって、どうなっているの?)
鯨人は肩をすくめた。
「おい。ジェームズ。そろそろ行こうぜ。俺達、茜のお迎えの時間なんだ」
銀河はそう言うと、コースの最後、高台から砂浜まで一気に走り下りていった。蒔絵もほとんど遅れずについて行く。
砂浜は、富士山噴火で降り注いだ灰はあらかた取り除かれていた。ブルドーザー埋没事件の後、全国からの寄付で、新しい大型機械が購入され、千葉県からも作業員を雇う予算が付いたからだ。
しかし、海から流れ着く灰は一向に減らず、海で泳ぐことも猟もできなかった。今回の徒歩ラリーでも、浜辺に足を入れることは禁止されている。
「浜辺は綺麗に見えるけれど、立ち入り禁止だからね。Hey, James, don’t step into the beach.
(おい、ジェームズ、浜辺に入るなよ)」
鯨人に腕を取られて、ジェームズは渋々、浜から出てきた。百葉村には今まで外国人がいなかったので、「立入禁止」の表記に英語が書かれていなかったのだ。
ゴールをした後、鯨人はジェームズを捕まえて、自宅まで引き連れていった。
銀河と蒔絵は、再び坂をダッシュで駆け上がり、保育園に預けてある茜を迎えに行った。
海はもう夕方の日に照らされていた。2人は茜を抱いて、話しながら下校していた。制服を着ていなければ、子供を連れた新婚夫婦のようだった。
「鈴音お姉ちゃん。大分、リウマチの具合が良くなったみたいだね」
「ああ、藍を抱いても、そんなに腕が痛くないから、今週は、茜が登園することになった」
「里帆は、もともと茜の方がお気に入りだから、喜んでいるよ」
「女の子は抱くと、猫みたいでふにゃっとしているな」
大きくしっかりしていた藍は、動きも大きかったので、銀河はいつも藍を両手で抱えていた。
しかし、茜は、体をぴったり銀河のふくよかな体にもたせかけるので、銀河は片手だけで、茜を抱くことができた。
茜の穏やかな寝息を感じながら、銀河は突然、今まで考えていた気持ちを、蒔絵に吐露した。
「俺、前から『蒔絵を抱えると猫みたい』だって、思っていたんだ。それは翔太郎を抱えた時とは全く違うんだよ」
「それは、筋肉質な私でも、体は女らしいと言いたいのかな?」
「いや、胸とか尻とかの大きさじゃなくて・・・」
途端に、蒔絵に強く背中を叩かれた。
「痛い。真面目な話なんだから落ち着いて聞けよ」
「エロい話じゃないのね?」
「ああ、パーツじゃなくて、体の構造って言うか。藍と茜はこんなに小さい時から、体の構造が違うじゃないか」
「まあ、同じ双子だけれど抱いた感じは違うね。で?銀河は何が言いたいの?」
「言いにくいんだけれど、1週間前に火狩をおんぶした時、翔太郎より蒔絵をおんぶしている感じに近かったんだ」
「え?火狩が女だって言うの?」
「制服はズボンだし、自分のことを『僕』って言っているから、男だと思って扱っているけれど、何かそんな気がしたんだよな」
「でも、手なんかがっしりしているし、胸もないよ。声もハスキーだし」
「そっか、気のせいか。都会では、男でも花の香りを身につけるのかぁ?」
「都会ならそういう人もいるかもね?」
「気のせいかぁ」
蒔絵は、銀河と離れて自宅に戻ってからも、「気のせいかぁ」という銀河のつぶやきが気になって、特進クラスの担任の穂高に聞いてみた。
「何言っているんだ。うちのクラスは全部男。『男クラ』だよ。みんな一緒に着替えもしているし、エロ話も普通に気兼ねなくしている・・・なんてことはないけれど、兎に角、変な想像を巡らすなよ。それに、転校してきた時、一緒に暮らす従兄弟の方が来たけれど、『弟みたいなもんです』っておっしゃっていたよ」
穂高も、従兄弟の相場結城も、結婚できないわけである。
近所に藤の花の名所があります。藤棚の下には、蜂がわんさかいるんですが、地元民は何も騒がず、蜂と一緒の藤の花の写真に撮っています。花の美しいところには、蜂がいるもんです。因みに、我が家も、ボーッとしていると、軒下に蜂の巣が作られてしまいます。家族で一番勇敢な男(一度蜂に刺された経験あり)が、毎回巣に大量の殺虫剤を噴霧して、やっつけてくれます。感謝。