72 徒歩ラリーの準備が始まった
千葉大オープンデイのあった日、引率職員以外は、村役場の職員と合同で、徒歩ラリーのコースの点検を行っていた。
降灰の影響で、海岸線は歩けなくなったし、山沿いの道も、灰の下に大きな穴があいたりしているので、新しいコースを決めなければならなかった。また、灰の影響で、山の動物が里まで下りてくる危険は無いか、漆の木や毒キノコ、蜂の巣がないか、新コースの点検も詳細に行われた。
「小学生低学年は、今年も草鞋を編んでからのスタートですよね」
「未来TECからの転校生の親が、また、文句を言ってくるでしょうね。草履で歩かせたら、足の皮が剥けるって・・」
「まあ、そう言う子は地下足袋でも穿かせればいいんですよ」
栗橋養護教諭は、結構ワイルドだ。
「小学生は、未来TECの社員食堂から、昼食が出るんですよね」
「中学生は学食が昼食出しますから、小中学生は食後、クラスでレクリエーションをしてください」
小中学生は、昼食が用意されるが、高校生は各学年で昼食を作ることになっている。
「出口先生、高校3年は何を作るんですか?」
「猪が捕れれば、ぼたん鍋ができるんですが、今年は山に踏み入れるのがちょっと怖いんで、普通に芋煮ですかね。実家の五泉から今年も里芋をたくさん送って貰いましたから」
「里芋なら、大丈夫ですかね。昨年は、村のお年寄りが差し入れてくれた馬鈴薯で中毒が起こりかかったんでしたよね。馬鈴薯の芽を、しっかり取らずに鍋に入れて、舌がピリピリして・・・」
「近嵐教頭が味見してくれなかったら、まずかったですよね」
「今年は、鍋に入れる野菜の調理は、教員の目のあるところでやらせましょうね」
「2年の担任の竹内先生は、今日はオープンデイの引率に行っていらっしゃいますが、当日は焼きそばを作るって言っていました。こっちは、肉の炒め具合だけ心配すればいいですね。問題はカレーですね」
「1年担任は鮫島先生と田邊先生ですよね。1年は毎年、カレーですから、多分大丈夫ですかね」
「銀河さんと蒔絵さんがいるから、担任が道草食っていても、多分大丈夫ですよ」
村役場の職員、鮫島絹子は、息子が貶され、娘が褒められたので、微妙な顔をした。
「鮫島絹子さん、失礼しました。給水所は、例年どおり、街道沿いの皆さんにお願いできますかね」
近嵐教頭の言葉に、絹子が村役場の職員の顔に戻った。
「ああ、田中先生のお宅の前は、昔は、お祖父ちゃんお祖母ちゃんが、井戸水を用意してくれていたんですがね。あそこに、給水所がないのは困りますよね。いくつか当たってみます。生徒さんはいつもどおり、コップを持参して走るんですか」
中学校の技術家庭科の教師が答えた。
「そうですね。小学校の卒業記念に、百葉村の子は檜を削ってククサを作りますから、みんな持っていますよ。削るって言っても、紙ヤスリを掛けるって言う方が正しいでしょうかね。大体の形ができているキットを使いますので。
中学の卒業記念では、木工旋盤を使うので、皿やお椀を作ります。勿論スプーンや箸も作ります」
「何の木を削って作るんですか?」
絹子が興味を持った。
「生徒に選ばせますよ。欅や桜、栃やブナ、栗を使う子もいます」
絹子は、自分子供の作品を思い返してみた。しかし、木の材質には疎いので、何を使ったのか思い出せなかった。しかし、木の名前に思い当たることがあった。
「栃にブナに栗ですか。その木は裏山から取るんですよね。熊の好きそうな実がなる木ばかりですね」
村役場の森林課の職員が答えた。
「そうなんですよ。昔は栃で餅を作ったり、栗も食用にしたりしたんです。木の実は大切な食料だったんですね。今は、実は野生動物の食料として残し、木材は我々が加工用に伐採することが多いです。ただ、豊作の年は、多すぎた実を人間が回収します」
「どうしてですか?」
「動物の繁殖を抑えるためです。反対に、凶作の年は、山に実を戻したりします。食糧不足で里に下りてきて、人間の食べ物の味は覚えたりすると困りますからね・・・」
絹子は、蒔絵が熊に襲われた事件を思い出した。
近嵐教頭が、森林課の職員に質問した。
「今年は、凶作になる予定ですよね?」
「はい。もともと凶作な上、富士山の灰が降り注いだんで、結構、木が枯れたり折れたりしたんです」
「じゃあ、徒歩ラリーの時、動物の危険はありませんか?」
「走るのは山の麓の道でもいいですが、昼食は、浜辺の脇の広場をお勧めします」
「では、広場をゴールに決めましょう」
村総出の行事は、下準備が大変である。しかし、その打合せを通して、村の問題を共有できるので、毎年、欠かせない作業なのである。
さて、それから1週間後、教師の予想どおり、クラスの話し合いを銀河と蒔絵が仕切っていた。
「じゃあ、カレーの具材の調達、調理は黒板に書かれたメンバーで行います」
蒔絵が書いた板書を、銀河がiPadに映し、全員のスマホに共有した。
「調理係は、前日の放課後、調理室で材料をすべて切って、袋詰めします。馬鈴薯の芽はしっかり取ってください。毒性が強いですから。袋には、高校1年って書いておいてください」
調理の関係の話が終わったところで、級長の翔太郎が、発言を始めた。
「では、クラス代表の選手を決めます」
鯨人達、転校生が首を傾げた。
「クラス代表って何ですか?」
「高校生は上位5名まで表彰します。だから、毎年各学年から3名ずつ代表を出して、その人達には走る仕事以外させないようにします。中学3年の時は、俺と銀河と蒔絵が3位まで独占しました」
火狩が、里帆に話しかけた。
「男女一緒に走るの?」
「うん。走るって言っても、山岳マラソンみたいなんだ。蒔絵は土地勘もあるし、去年は浜辺も走れたから、男子と同じように走れたんだよね。でも、今年は20kmだし、浜辺もなくて、村の舗装道路を走るから、男子3人でもいいかな?」
鯨人が、それを聞いて手を挙げた。
「立候補してもいいですか?」
「はい、鯨人が立候補しました。俺も走ります」
翔太郎も立候補した。野球部は、クラス代表にならないと、コースの途中にOBが待っていて、悪戯を仕掛けてくるらしい。
「去年の悪戯って、何だったの?」
里帆の質問に、翔太郎は思い出したくもないって顔をして答えた。
「カレーを山盛り一杯食うこと」
「嘘、その後、走れないじゃない」
「走れても、1年はゴールで待っているのも、また、カレーなんだぜ」
銀河が笑いながら話題に参加してきた。
「そうそう。それに去年は、熊肉カレーで生臭かったんだよな。出口先生、ちょうど、その1ヶ月前に熊を仕留めたんだよな」
「止めてくれよ。熊の毛皮を飾ってある前で食うカレーは最悪だったから・・」
ジェームズが、食い付いてきた。
「Where can you shoot a bear? (どこで熊撃ちができるんですか)」
「James. In Japan, people without a license cannot own a gun. (ジェームズ。日本では免許がないと銃は持てないよ)」
蒔絵が慌てて、ジェームズに答える。銀河も念を押した。
「It’s a form of hunting as part of pest control.(害獣駆除の一環としての猟だよ)」
「Ah, what a shame. I wanted to go hunting. (あー。残念。猟がしたかったな)」
そこから、鯨人とジェームズで、アメリカのハンティングの話が続くのだが、翔太郎はそれを無視して会話を続けた。
「もう1人、クラス代表に立候補したい人はいませんか?」
火狩が、周囲を見回しながら手を挙げた。蒔絵が、火狩の肩を叩いた。
「いいね。明日放課後、一緒にコースを走ってみようよ。走れる靴を持ってきてね。え?鯨人も一緒に走る?じゃあ、勿論、銀河も走るよね」
銀河が、嫌そうな顔をしたが、多分、一緒に走るはずだ。翔太郎は、野球部で練習中に同じコースを走るのだ。OBのカレーのお陰で、野球部の多くが、クラス代表として走ることを選んだはずだから。
里帆が、話をまとめようとする翔太郎に助言をした。
「当日は、自分のコップと食器を忘れないように伝えないと・・・」
「そうだね。環境保護の観点から、百葉村では、行事で紙コップや食器は使わないんだ」
そう言って、ロッカーから自分の食器一式を持ってきた。
「ククサは小学校の卒業記念で作るやつ。野球部は部活の水分補給もこれで飲む。こっちの皿なんかは、中学校の卒業記念で作ったんだ。別に、プラスチックの食器を持ってきてもいいけれど、木製の食器が欲しければ、村役場で買えるよ。ふるさと納税の返礼品用に用意してあるのが、結構、余っているから」
火狩が羨ましそうに、食器を手に取った。
「いいなぁ。翔太郎君、この食器は何の木でできているの?」
「色々だよ。俺は檜の皿とお椀。スプーンは桜、箸は、木製バットのリサイクルかな?」
蒔絵がそれに付け加えた。
「みんなが色々な木を使うことで、その木の特徴が勉強できるんだよね。中学の技術家庭科の先生にお願いしたら、2週間もあれば、食器を作れるよ」
「じゃあ、放課後、蒔絵ちゃん、その先生のところへ連れて行ってくれる?」
蒔絵は困った顔をして断った。
「部活があるから、私は駄目。中学校の職員室に行けば、先生に会えるよ」
「えー。蒔絵ちゃんって、結構意地悪だね。部活の前に、ちょっと連れて行ってくれればいいのに」
火狩の言葉に、教室が静まりかえった。銀河が、航平の肩を叩いた。
「航平が、音を上げたのも分かるよ。大変だな」
銀河の言葉を聞いて、火狩が周囲を見回した。
「え?僕、何か悪いこと言った?」
銀河が、低い声で答えた。
「校舎の中には、熊も猪も蜂もいないんだから、1人で、中学校の職員室まで行けよ」
ホームルームが終わったことを知らせるチャイムがなった。生徒達は一斉に立ち上がり、教室を出て行った。
鯨人はジェームズにコメントを残して、慌てて銀河達について行った。
教室に残ったのは、里帆と火狩とジェームズだった。ジェームズは、鞄を持って、隣の保育園に向かい、里帆も道具を出して、その後をついて行こうとした。
「ちょっと、里帆さん。みんなどこに行ったの?」
「え?部活じゃない?徒歩ラリーで20km歩く自信がない人は、放課後、グランドを5kmくらい歩いてから帰っているよ」
「里帆さんは、歩かないの?」
「私は、7月に足に大怪我しているんで、傷病者用のワゴンで、先にゴールに向うんだ」
「じゃあ、里帆さんの部活は?」
「私は美術部で、今年は1年間、双子の赤ちゃんの成長をスケッチしているの。だから、放課後は保育園で2時間くらい過ごすの」
そこまで、話すと里帆はいそいそと保育園に入ってしまい、教室には火狩がぽつんと1人残された。放課後は友達に囲まれて、たわいもない話をして過ごすという夢見た学園生活は、そこにはなかった。
「火狩さん、教室の鍵を締めていいですか?」
振り返ると、田邊先生が、鍵を指でくるくる回しながら立っていた。
「田邊先生、ホームルームにいましたよね。僕は何か悪いこと言いましたか?」
「さあ、私には分かりません。それより、お願いがあるならば、今、中学の職員室に行ったらどうですか?」
「ああ、そうでした。先生、連れて行ってください」
田邊先生は、にっこり笑って答えた。
「私もこの後、用事があるので、自力で行ってください」
火狩は、廊下に1人ぽつんと残され、呆然とした。
その頃、体育館では、銀河が、蒔絵と鯨人の2人を相手に練習試合をしていた。
1時間の練習の後、銀河はその場で着替えて、さっさと体育館を後にした。
「蒔絵ちゃん、銀河はこの後なんかあるの?」
「銀河は、情報オリンピックの勉強があるの。田邊先生は、勤務時間の5時15分までしか学校におられないので、1時間の勉強時間を確保するには、今から行かないといけないの」
「勉強してから、バドミントンすればいいのに」
「田邊先生は、4時から甲次郎君の勉強を見ているの。甲次郎君って、翔太郎の弟で中学2年生なんだ」
「じゃあ、銀河は5時過ぎには練習に戻ってくるんだ」
「保育園が5時までだから、そこから私達は、赤ちゃんを連れて帰るよ。体育館も5時半には閉まるよ」
「えー?まさか、君達は毎日それしか練習していなかったの?」
「そう言われれば、そうね。鈴音お姉ちゃん達が帰って来るまでは、うちに帰ってから、洗濯や夕飯の支度もしていたから、部活は1日2時間が限度かな」
「それで、火狩が『放課後に職員室に連れて行け』って言ったのに怒ったんだ」
「まあ、私も5時半から家で、鮫島先生に勉強見て貰うし、結構忙しいからね」
「俺はそれでは練習時間が少ないかな?朝練とかはしている?」
蒔絵はコートサイドに置いてあるiPadを持ち上げた。
そこには、2人の練習日誌や記録がつけられており、2人が計画的に練習していることが見て取れた。
それを見た鯨人は、2人に専属のコーチがいなくても強い理由を知った。
「明日は、朝練なんだね。ああ、そうか、朝のランニングを、放課後のコースの下見に振り替えたんだ。コーチがいなくても、これで練習を管理していたんだね」
「鯨人君もこのシステムに招待するよ」
「有り難い。後、2年半。宜しく頼むよ」
「ん?銀河は高校2年の終わりまでしか、百葉高校にいないよ。飛び級試験に受かるつもりだからね」
「蒔絵は大丈夫だろう?」
「私も受験のために、銀河が大学に行ったら、バドミントンは引退するつもりだよ」
鯨人は、目の前が真っ暗になった。そんな鯨人に頓着せず、蒔絵はさっさとコートに入っていった。
「ほら、鯨人。次は2人で試合するよ。その後は課題練習やるからね」
鯨人は、蒔絵に引きずられて練習を再開したが、動いているうちに、「どうにかなるさ」という気持ちになってきた。
鯨人に必要なのは、大学入学までに、今の体力と技術をキープすることだから。
いやぁ。外はひどい雨です。渇水に悩む米所にとっては恵みの雨ですが、蒸し暑いのは困ったものです。