68 話すことには勇気がいる
今日はもう1話アップする予定です。
体育館の片隅で、翔太郎は体育座りをして壁にもたれかかっていた。時計が12時を回る頃、銀河に肩を叩かれた。
「翔太郎、起きている?うちの家族はどこにいるか、知っている?」
蒔絵と銀河が寄り添って、自分を見下ろしているのに気がついて、翔太郎はほっとした。
「銀河の姉さん達は双子を連れて、保育園の方で休んでいる。お祖父ちゃん達高齢者は、多分武道場の畳のある部屋かな?男子生徒は教室、女子は家庭科室なんかにいるかも。夫婦とか、カップルは体育館にいるよ」
「翔太郎は教室に行かなかったのか?」
「普通クラスの教室は、保育園に入りきらなかった人が寝ているんで、こっちに来たんだ」
銀河は、翔太郎の隣に腰を下ろした。蒔絵も銀河の隣に腰を下ろした。
「お前ら、風呂に入ってきたのか?」
「足袋が泥だらけで着替えるために家に入ったら、風呂がまだ温かかったんだよ」
蒔絵が銀河越しに腕を伸ばして、翔太郎の鼻先に突き出した。
「ほらほら、いい匂いでしょう?嗅がせてあげる」
翔太郎は、蒔絵の手首を掴んで、顔を寄せた。薄ら赤く握られた痕があった。
「痛いか?」
蒔絵はすっと手を引っ込めた。
銀河が、翔太郎の耳元に囁いた。
「さっきは、ありがとう。それから、言っておくけれど、風呂は別々に入ったからな」
「嫌だぁ。翔太郎はそんなこと思っていないよ」
蒔絵は、明るく言ってみせた。
暫くして、蒔絵と銀河の安らかな寝息が聞こえてきた。翔太郎はまだ暗闇をじっと見つめて、頭を巡らしていた。
朝7:00。防災無線から放送が入った。
「皆さん。お早うございます。百葉村役場から本日の予定についてご連絡します。
本日、午前中に東京電力が来て、停電解消のために作業を始めます。作業が終了して、電気の使用が可能になったら、再度防災無線で皆さんにお知らせします。通電前に、自宅のブレーカーを落とすよう、お願いします。
朝食については、8:00からパンと水の配給を始めます。村民の皆さんの朝食は、村役場で配ります。野球部とバスケット部の生徒は、配給の手伝いをお願いしますので、村役場に集合してください。
小中学校並びに高校の生徒の朝食は、教室で配りますので、一度、自教室に戻ってください。その後、文化祭の片付けを行います。体育館に避難なさっている方は、片付けが入りますので、自宅、乃至は、図書館か村役場に移動お願いします」
「蒔絵の母さん、一晩中、起きていたんだろうか?」
「そうかもね。閉会式が終わったら、家に戻って、何か作って持っていってあげようかな」
「夕べ、蒔絵の家の冷蔵庫も、確認した方が良かったかな」
「そこまで、しなくていいよ」
翔太郎が、村役場に行くために立ち上がった。
「野球部、お疲れ様」
「お前達、本当に夫婦みたいだな」
蒔絵がにっこり笑った。
「私達、生まれた時から一緒だからね」
「?」
「蒔絵と俺は、同じ病院で1日違いで、生まれたんだ」
翔太郎は、そんな2人の笑顔がずっと続くといいと思った。
翔太郎が村役場に着いた時には、もう既にほとんどの部員が集まっていた。
「翔太郎、1年のくせに遅いぞ」
「夕べ、彼女と上手くいったか?」
先輩からのからかいに、翔太郎は深く傷ついた。
「翔太郎は、どこかにキスマーク着いているか?バスケ部の田中海里なんか、口の周りにべったり口紅付けて、ここに来たんだぞ。田中先生にチクってやれよ」
バスケ部では、海里が羽交い締めにされて、先輩に写真を取られている最中だった。
(あいつ、口を拭うの忘れたんだな)
その写真は、翔太郎のスマホにも回って来ていた。
村民への朝食配布作業が終わった後、翔太郎は野球部監督のところへ行った。
「おい、お前のクラスは、片付け作業はないのか?」
高校3年生の担任でもある出口先生は、そう言いながらも、体育教官室の奥の、教員休憩室に翔太郎を連れて入り鍵を閉めて、じっくり話を聞いてくれた。
「先生。16歳の男が、16歳の女に無理矢理キスをしたら、どんな罪になりますか?」
出口先生は、じっと翔太郎を見つめた。翔太郎は両手を握りしめて、休憩室の床を見つめていた。
出口先生は、翔太郎の話かどうか様子を探ったが、どうも分からないので、遠回しに探り出すことにした。
「女は、男のことを好きじゃないんだな?」
「女には付き合っている別の男がいます」
「男はそのことを知っているんだな?」
「はい」
出口先生は、確証が持てないので、質問を重ねた。
「翔太郎は、そのことを誰から相談されたんだ?」
「俺は、目撃者なんです」
「夕べのことか?あー。花火の時間か?」
「はい。加害者も被害者も、俺が見たってことは知っています。女の彼氏だけが、その現場を見ていません」
出口先生は、翔太郎が悩む姿を見て、何かを思い出した。
「被害者は蒔絵か?」
「はい。加害者は海里です」
(あちゃー)
出口先生は、頭を抱えたくなった。海里は教師の息子だ。しかし、折角、自分を頼ってくれた翔太郎を裏切るわけにはいかなかった。
「銀河と蒔絵は、盆踊りの時、一緒にいなかったのか?」
「海里が嘘ついて、蒔絵を暗がりに誘い出したんです。多分」
「蒔絵かその家族が訴えたら、犯罪として扱われるな。蒔絵は親に訴えそうか?」
「いやー。夕べも2人で仲良くしていたんで、銀河には知らせていないと思うんです。そもそも銀河がそれを知ったら、海里の顔には口紅じゃなくて、青痣ができたはずですから」
「なんだ、その口紅って」
翔太郎は、一瞬戸惑ったが、スマホに送られてきた海里の顔写真を、出口先生に見せた。
「うわ。べったりだな」
出口先生は、明日、千葉大学のオープンキャンパスの医学部見学に、蒔絵と海里の名前が並んでいたことを思い出した。この話を聞いて、明日、2人の間にトラブルが起こる可能性があることに気がついた。
「翔太郎。よく話してくれた。お前の名前は出さないが、先生方で相談させて貰っていいか?この後、何が起こっても気にするな。蒔絵のために、先生方が考えたことだから」
出口先生は、まず校長と教頭に相談した。その後、田中先生が校長室に呼ばれた。
田中先生は、息子の口紅付きの写真を見せられ絶句した。
口を開こうとした田中先生に、徳校長先生は静かに語りかけた。
「もし、田中先生に娘さんがいて、ストーカーにつきまとわれ、力尽くでキスされたら、どう思いますか?」
田中先生は、顔を覆ったまま、答えた。
「そいつを許せないと思います」
「そうですね。鮫島さんのご両親には、このお話はさせていただきます。ただ、裁判に訴えるかどうかは、ご両親の判断です。いいですね」
田中先生は、顔から手を放して深々と頭を下げた。
「長い間、お世話になりました」
その後、田邊先生と鮫島先生が呼ばれて、事件のあらましを説明された。
田邊先生は、話を聞いても大して驚かなかった。
夕べ、朋実と星を見ている時に、海里と蒔絵が歩いている姿を、進学指導室の窓から目撃していたのだ。それから暫くして、竹灯りに照らされた道を、翔太郎と銀河が全速力で入っていく姿も見た。
その後、翔太郎に引きずられて、海里が戻ってくる姿も目撃した。
(あーあ、海里って、直情径行型だったんだね。もう少し、緻密な作戦は立てられなかったのかな?)
流石に田邊先生でも、深夜、銀河と蒔絵が、手をつないで戻ってくる姿を見ることはなかった。田邊一家は、自宅に戻って安らかな眠りについていたからだ。
田邊先生は、自宅に災害対策用品を完備していて、夕べも、強大な充電池でスポットクーラーと小型冷蔵庫を作動させ、娘と妻の寝顔を見つめながら、いつもと変わらぬ夜を送っていた。
一方、鮫島先生は混乱していた。多分、両親は裁判に訴えることはしないだろうが、蒔絵からどうしたいのか、聞くのが怖かった。兄として、教師として、どうすべきか答えが見つからなかった。
担任として何もする気がない田邊先生と、その指導教官として、何をすべきか分からない鮫島先生を前にして、近嵐教頭はため息をついた。
「では、まず、野球部とバスケ部で回っている海里君の写真を、これ以上広がらないように止めてください。次に、鮫島先生は、今日の午後から特進クラスの担任に入ってください。英語教師は、至急募集を掛けますが、当分、中学校の先生に英語の授業をお願いします」
「ちょっと待ってください。高1クラスをまとめることはしないのですか?」
鮫島先生の意見を聞いて、近嵐教頭はため息をついた。
「まとめるタイミングは、2年生になった時ですかね?もう、2学期は始まってしまったので、このまま行きましょう」
田邊先生も、この機に要望を出してきた。
「すいません。僕は、バドミントン部の正顧問になったんですよね?それから、情報オリンピックの指導も始まります。申し訳ないんですが、バスケ部の副顧問を外して貰えないでしょうか」
そう言うと、田邊先生は鮫島先生の顔をちらっと見た。鮫島先生は、がっくり肩を落とした。
文化祭の片付けが終わった後、11時過ぎに防災無線が村中に響き渡った。
「停電が解消されました。ブレーカーを上げて、電気の使用を開始してください」
そして、続けて校内放送も入った。
「文化祭の閉会式は、午後2時から始まります。本日は学食の運営もパンの販売もありません」
その放送後、児童生徒は昼食を食べるために、一旦帰宅した。
特進クラスに生徒が1人だけ残っていた。
その生徒は、ロッカーから学用品をすべて引き出し、大きなスポーツバックに入れた。バスケット部の部室からも部活の道具を出し、ロッカーの名札を外した。
生徒玄関から靴を出したその足で、海里は生徒指導室に向った。
「父さん。荷物をみんな出したから、車の鍵を貸して」
「そっか、私も、段ボールにすべて詰めたから、一緒に行こう」
そう言うと、大きな台車に乗せた段ボールと共に、田中父子は裏口から、教師用駐車場に向った。
荷物を詰め終わった海里は、助手席に乗った。
「父さん。ゴメン。こんなことになるとは、思わなかったんだよ」
田中先生は、泣きじゃくる海里の頭に手を置いた。海里は、声を上げて泣き始めた。
そろそろ、生徒達が戻ってくる時間なので、田中先生は駐車場から抜け出し、自宅に向った。このまま、この家にいても、海里は辛いだろう。海里は、母親の元に送るほうがいいのか。田中先生は悩んだ。
「海里は、母さんのところに行きたいか?」
「嫌だ。母さんにこんなこと知られたくない」
いつもは冷静な海里だが、今は16歳の子供になってしまった。
田中家は、友達を呼んで打ち上げができるほど、広い一軒家だ。ただ、海里の祖父母はかなり前に他界している。妻と海里の弟は、妻の実家に移り住んだ。
自宅に戻った海里は、自室で泣きながら寝ているようだ。田中先生は、今後について考えた。小さな村の中で起こったことは、75日はおろか、何年でも人の口の端に上るだろう。そうすると、家を売って転居しなければならない。
そこへ電話が鳴った。
「はい、田中ですが。鯨谷さん?何かご用でしょうか」
電話は鯨谷出づ水からだった。彼方は、保育士の2人とほとんど接点はなかったので、突然の電話に驚いた。
「田中先生。今日、徳校長先生から、英語の先生を探しているという連絡が入って、私の双子の妹を紹介したんですよ。妹は今、アメリカの日本人学校で教師をしているんですが、そろそろ帰国したいみたいで、向こうの学校の許可が下りたら、帰国する予定なんです」
「はあ。それで?」
「妹は、1度も日本の学校で教えたことがないから、田中先生に色々質問したいみたいです」
田中先生は、自分の変りの教師が、すぐ見つかってほっとした。特進クラスの生徒を、このまま放っとくことが心残りだったから。
「はい。代わりの先生がすぐ決まって、良かったです」
「え?代わり?田中先生はお辞めになるんですか?」
「ちょっと、いろいろありまして」
出づ水は、田中先生の退職の理由については、徳校長から何も聞かされていなかった。
「じゃあ、次の仕事はもうお決まりですよね」
「いや、まだ」
「妹と入れ替わりに、日本人学校に行きませんか?そうすれば、妹も辞めやすいと思うんですけれど」
話は、トントン拍子に進み、田中の家も、鯨谷一家が買い上げてくれることになった。
1週間後、田中父子は、アメリカに旅立っていった。