67 話さなければ分からない
銀河は自責の念に耐えきれず、蒔絵に背を向け、菱巻家の玄関を開けて、蒔絵を招き入れた。玄関にいつも置いてあるLEDランタンを付けると、お互いの姿が一層良く分かった。
銀河は敢えて、蒔絵の姿を見ず、小さな声で聞いた。
「怪我はないか?」
「うん」
銀河は汚れた足袋を玄関で投げ捨てると、家の中を確認した。鈴音一家も、祖父母も両親も、先ほどの放送で急いで学校に向ったらしく、電気のブレーカーも落としていなかった。冷蔵庫の中には、朝食用の卵や竹輪と共に、豚バラ肉が残っていた。
「これは、今晩料理しておかないといけないな」
その後、銀河は風呂の湯加減を確認して、蒔絵に声を掛けた。
「風呂はまだ温かいから、蒔絵が先に風呂に入れよ」
玄関に投げ捨てられた足袋をつまみ上げると、蒔絵はなるべく明るい声で答えた。
「脱ぐのに、時間がかかるから、銀河が先に入って」
「いや、俺は冷蔵庫の中の食品に、火を通してから入るから、先に入ってくれ」
蒔絵が風呂場に向うと、銀河は思い出したように懐からスマホを取りだし、自分に来たLINEを再確認した。蒔絵からの連絡は、2時に入っていた。
(甲次郎君のところにいた時だ。ここで気づいていれば・・・)
銀河は、冷蔵庫の中から、うどんを取りだし、豚バラなどの傷みそうな食材を使って、焼きうどんを作った。少し量が多いが、昼を抜いたので、すべて食べ切れそうな気がした。
風呂場の脱衣場に顔を突っ込み、蒔絵の袖畳みした浴衣をそっと取りだした。そして朝、着付けした部屋の、着物ハンガーに掛けに行った。そこで銀河も浴衣を脱いで並べて、着物ハンガーに掛けた。足元の2つの風呂敷包みをスマホで照らして、蒔絵の着替えが入った方の包みを選んで、脱衣場まで持っていった。
脱衣場から出てきた蒔絵にそれを渡した。
「いくら真っ暗闇だからって、バスタオル1枚で出てくるなよ」
脱衣場には、玄関から持ってきたLEDランタンが置いてあったので、蒔絵のバスタオル姿はよく見えた。
蒔絵はそんな言葉に頓着せず、鼻をひくつかせた。
「あー。何か食べたでしょ?」
「冷蔵庫が止まっているから、悪くなりそうなものを、全部突っ込んで焼きうどん作ったんだよ。俺、昼飯食っていないんだ」
「私も食べたい」
「俺の分も残しておけよ」
「はぁい」
蒔絵と入れ替わりに風呂に入り、湯船に体を沈めると、睡魔が襲ってきた。いつもの会話が繰り返されると、午後いっぱい感じていた不安や怒りが、少しずつ湯に解けていくような気がした。
ふと気がつくと、蒔絵の顔が目の前にあった。
「え?俺、寝ていた?」
「いつまで待っても出て来ないから、待ちきれなくなって起こしに来た。どう?王子様のキスで目が覚めた気分は?」
銀河は唇を手で覆って、顔を赤らめた。
「うそだよ~ん」
蒔絵は笑って、浴室を出て行った。銀河は、抑えるべきもう一箇所を押さえて、更に赤面した。
銀河が風呂を上がると、蒔絵がラップでくるんだ皿に、焼きうどんを2等分に盛り付けて待っていた。
「早くぅ」
「待たせて悪かったよ」
まだ温かい焼きうどんを食べながら、2人はポツポツと今日の話を始めた。海里のことは、意識したのか、全く話題には上らなかった。
食べ終わった皿からラップを外して、割り箸と共に捨てた蒔絵は、冷蔵庫から、ペットボトルのお茶を1本持ってきた。
「先に飲んでいいよ。1本しかなかったんだ」
「ども」
「今日、進学室に何で呼ばれたの」
やっと、本題に入った。銀河は、蒔絵に今日の話をかいつまんで話をした。
「じゃあ、銀河は学費の心配もせず、千葉大学に行くチャンスを与えられたわけだ」
「ただ、高校生活が2年間で終わるかも知れない」
「修学旅行には行けるよ。3年の体育祭とか、文化祭に紛れ込んでいても、誰も気にしないと思うけれど・・・」
「観客として見に来るよ」
「またまた、飛び入学試験に、合格する気満々だね」
「医学部より簡単だと思うけれど」
蒔絵は、すっと真顔になって、銀河の手に自分の手を重ねた。
「まだ、親にも話していないのに、どこから情報が流れるんだろう?」
「進学指導室に行ったら、千葉大学OCの見学者名簿があった」
「銀河はそれを見てどう思った?」
「別に?『ああ、そうか』って、思っただけ」
「進路について、相談しなかったことを怒っている?」
ペットボトルのお茶を一口飲んで、銀河は寂しそうに口元に笑顔を浮かべた。
「何で、怒るの?もし昨日までに、蒔絵にその話を聞かされていたら、進路が決まっていなかった俺は、返って焦ったと思うよ。それを心配したんでしょ?蒔絵は」
蒔絵は、銀河の手を両手で包んで、自分のほうに持ってきた。そしてそれに頬を付けて、銀河の顔を覗き込んだ。
「銀河は、本当に私のこと分かってくれているよね」
「まあ、16年の付き合いだから」
「私は、将来、銀河とずっと一緒に生活するって思っているけれど、それは独りよがりじゃないよね。銀河には他の選択肢もあるの?」
銀河はあまりのことに、息を飲んだ。
「ない」
やっと一言、絞り出した。
蒔絵は、椅子を銀河の椅子に近づけた。
「では、誓いのキスを・・」
そう蒔絵に言われると、銀河は蒔絵の腰を引き寄せて、頭に手を回して、優しく唇を寄せた。
(全く同じ場所を触られているけれど、銀河の手は温かい)
銀河は、一端、顔を放すと、腰に回した手を放して、人差し指で蒔絵の唇をさすった。
「不思議だ。キスすると、唇に電気が走る」
(誰とでも、ビリッとくるわけじゃないのね)
蒔絵は、ただ唇を押し当てられた、東屋での感触を思い出した。
銀河は確かめるように、再度、蒔絵に唇を重ねた。
実験に熱中している銀河を前にして、蒔絵は悪戯心がふつふつと沸いてきた。
銀河の口の中に舌を押し込んだ。
銀河は、目を見開いて、慌てて舌を押し戻そうとした。2人が離れた時、銀河は呟いた。
「焼きうどんの味がする」
蒔絵達は、その後、あまりにも暑いので自宅から脱出して、親たちの待つ体育館に向った。
中学校の頃、「ファーストキスはレモンの味」という言葉を信じていました。そんな時代もあったよねと・・・。