6 「渡りに船」が来た
企業内保育所っていいですね。そこで上場企業の社員と同じ給料だったら、私だったら、そちらを選択します。双子のお母さん鈴音さんは、果たして3ヶ月で帰って来られるのでしょうか?
校長室に入った鮫島先生は、かなり憔悴していた。
この4月からは担任もなく、のんびりした生活が送れると思っていたのに青天の霹靂だ。
「コーヒー、紅茶、それとも冷たい麦茶?何を飲みますか?」
徳校長に尋ねなられても、すぐには返事が出来なかった。
徳崇子校長は、百葉村の村長、徳憲子の母である。
徳村長が当選直後に「高台移転」を打ち出した時、徳校長は、最初に賛同して、海岸近くにある村立中学と高校を、さっさと移転させてしまった。
当時、移転に関しては賛否両論あったが、震災後の今、あの時の選択を非難するものは誰もいない。
移転する時に、「開かれた校長室」という計画で作られた校長室では、生徒や地域の人が来ると必ず、飲み物や菓子が振る舞われる。
「鮫島先生はこの部屋にあまり遊びに来ませんね」
確かに、ベテランの教員はこの部屋に来て、お茶を飲んでいるようだ。
しかし、採用されたばかりの若手が、何の用事もなく校長室を訪れるには、敷居が高すぎる。
「田中先生はよく来るのですか?」
「あまり来ませんが、今日は、昼前にこの資料を持ってやってきましたね」
(校長も、田中先生に言いくるめられたのか)
徳校長は、鮫島の前に冷たい麦茶を置くと、鮫島の前の椅子にポテっと座った。
「鮫島先生、まずは、田中先生が持ってきた資料を見て下さい」
田中先生は、自分の利益のためには、手間を惜しまない人物だった。
田中先生の作った資料はよく出来ていた。
クラス名簿、クラスを分けるのに使った数学の点数、普通クラスの授業担当と時間割。その上、赤ちゃんを連れてきた時のために、旧百葉小学校の教室に揃える備品とその価格まで一覧表にまとめられていた。
鮫島先生はその資料をざっと見て、問題点を考えた。
「まず、田中先生の英語の時間は、2クラスとも同じ時間ですが、リモート授業するんですか?旧百葉小学校の校舎には、Wi-Fi施設はありませんし、大型ディスプレイもありません」
徳校長は、自分のために入れたコーヒーを一口飲んで、答えた。
「そうね。多分、いつものように田中先生は、普通クラスには、英語のビデオでも見せておくつもりかな?」
田中先生の英語の授業は、デジタル教科書を使って、生徒に穴埋め問題をさせるか、英語のビデオを見せて、感想を書かせるかの二択だった。
授業には必ず遅れて行くし、教室に行かずに英語係の生徒にビデオと感想用紙を渡して、「ビデオの感想を英語で書け」などと命令して、ずっと進学指導室に籠もっていることも多かった。
生徒からの不満も多かったが、田中先生に苦情を言う親はいなかった。生徒の成績を露骨に下げることも厭わないという噂が広がっていたからだ。
「校長先生は、田中先生の授業はあれでいいと思いますか?」
麦茶に手をつけずに、鮫島先生は訴えた。徳校長はそれに答えずに、窓の外を見た。
「今日、午前中に銀河君のお母さんから電話をいただいたの。
双子のお母さんは、東京の『未来TEC』で重要業務を任されて、3ヶ月ほど百葉村には帰れないというお話なの。
それから、本来はお孫さんの面倒を見るはずだったお祖母様は手術をされるそうなの。だから、まあ当分の間、銀河君が双子を連れて登校するのを認めて欲しいって」
「銀河君のお母さんは、赤ちゃんの面倒を見られないのですか?」
「鮫島先生。銀河君のお家は、お母さんの収入しかないのですよ。紫苑君もこれから大学進学ですしね」
「じゃあ、田中先生が校長室に来る前に、銀河君が学校に赤ちゃん連れで登校することが分かっていた訳ですね」
「そう。田中先生の案は『渡りに船』だった訳ですよ。ところで、鮫島先生、「普通クラス」の教室に使う旧小学校に行ったことありますか?」
旧小学校の校舎は、百葉高校と中学校が合同で使っている体育館の奥にある。バスケット部の顧問の鮫島先生は、何か工事をしていることは知っていたが、隣の敷地の建物なので、わざわざ見に行ったことはない。
「あそこは、村立保育園にするための改築をしていたの。そのことは田中先生もご存知よ。
今まで、百葉村には保育園がなかったので、隣町の保育園までマイクロバスで通っていたから、4月の開園を村を挙げて待ち望んでいたの」
「では、普通クラスの生徒は、保育園に間借りするのですか?」
徳校長は深いため息をついた。
「残念ながら震災のせいで、保育士が集まらないの。だから、開園は1年間、見送ることになったの」
「そうすると、2クラスに増えるのも1年間だけですね」
「そうなるといいですね」
徳校長は言葉を濁した。
実は現在、「未来TEC」社と保育士の奪い合いをしている状況で、給料や待遇面で、百葉村はかなり分が悪い。元々「未来TEC」社には企業内保育所が完備していて、保育士も会社の社員扱いなので、地元の若い保育士は皆、そちらを希望してしまうのだ。
3世代同居が多い百葉村の村民は、震災後は祖父母の力を借りて、小さい子供の面倒を見ている状況だが、菱巻家のような状況の家は、どこにも子供を預かって貰えない。
隣同士の家のため、菱巻家の状況を良く知っている鮫島先生は、まだ疑問が払拭できなかった。
「菱巻家のお母さんは『未来TEC』の食堂で働いていますし、娘さんも東京本社勤務ですよ。企業内保育所に預かって貰えないんですか?」
「私もその点は伺ったの。今、社員は1年以上育休を取るので、企業内保育所では、0歳児を預かっていないんだそうです。それに、子供は預かるけれど、『孫』を預かる例はないのよ」
鮫島先生は、双子が色々な制度の狭間で、保育者がいない状態だと言うことを理解した。
「まあ、そういうことで、銀河君のような事情がある人を、村立の学校が受け入れるのは、必然なのでしょうね」
鮫島先生は、徳校長と初めて腹を割って話したような気がした。少し安心して、ぬるくなった麦茶に口をつけた。
「そうそう、普通クラスの数学は、担任の田邊先生に授業を受け持って貰えるよう、さっき時間割担当の先生に頼んでおいたわ。当然、特進クラスの数学は、中学の先生にお願いすることになるわね。
田中先生は、時間割を見て、4月にびっくりなさるでしょう」
校長室を退出する時、徳校長はそう言って、鮫島先生に微笑んだ。