56 息子に囲まれて
救急車とレスキュー車は、鉄次が救出された1時間後にようやく百葉村に到着した。救急車を要請した村長の代わりに、浜では近嵐教頭が1人で消防と応対した。救急車を百葉高校の保健室に送った後、レスキュー隊とは、銀次が話をした。
救助のプロも、最初は銀次の話が信じられなかった。そのくらい灰が厚く積もった浜は、危険で、普通この状態の浜に、重量のある車両は入ることもできない。
「ブルの引き上げはできないのか?」
「人命救助しか、消防はできないんですよ。でも、間に合っても、お孫さん達と同じやり方はできなかったですね」
レスキュー隊の隊長は、帽子のつばに手をやって、頭を下げた。隊長としては、紫苑達のように命懸けの救助を、隊員にはさせられないジレンマがある。
「しかし、お孫さん達を止めようとは思わなかったんですか?」
「ブルに乗っていた俺の息子は、子供達が昔のように浜で遊べるようにと、毎日命懸けで砂浜から灰を除こうとしていた。どうして、そんな人間を見殺しにできるんだ?孫達にとって、自慢の親父だ」
「それでも、お孫さん達も一緒に、あの蟻地獄に飲み込まれたかも知れないんですよ」
「ブルにロープを掛けて牽引していた車も、コンパネを砂浜に敷いてくれた連中も、みんな命懸けだった。俺の孫だけ、安全なところに引き下げるなんてことはできない」
隊長は深いため息をついた。
そのため息を聞いた銀次は、隊長を慰めるように言った。
「いやー。隊長さんの言わんとしていることも、わかるよ。ご苦労さん。無駄足だったね。俺たちの村にある数少ないブルドーザーだったから、引き上げて欲しかったけれど、まあ、また考えるわ」
しかし、百葉村にブルドーザーを引き上げる予算も、新たなブルドーザーを購入する予算もない。ブルドーザーの数が少なければ、道路に積もった灰を除くこともできず、また、交通麻痺が起こることは必至だった。
一方、救急車の方は、保健室に到着して、熱中症で意識がない鉄次を搬送しようとしていた。紫苑と銀河もガラスでの怪我がひどいので、そのまま一緒に乗っていくことになった。
「鮫島先生がついて行きますか?」
栗橋養護教諭が、鮫島穂高に尋ねた。
「お兄ちゃん」
更紗と蒔絵が、うるうるした目で兄を見つめた。
「おい、俺の車は5人乗りだ。お前達を乗せたら、帰り後3人が乗れないだろう」
「鮫島先生は、菱巻さん達のお母様を連れていらっしゃいますか?」
「ああ、茉莉さんを連れて行ったほうがいいね」
「じゃあ、先に私がこの2人も乗せて町に行きます。どこの医者に行ったか、向こうで連絡します。後から、菱巻さんのお母様を乗せてきていただけますか?」
栗原養護教諭はそう言うと、鮫島姉妹の肩を抱いて、車に乗り込んだ。
町の総合病院は外来の診療時間が終わって、閑散としていた。救急車で運び込まれた鉄次はそのまま、救急外来要の病室に運ばれた。そこで、点滴を打たれ、体中に氷を乗せられて、深部体温を下げられた。蒔絵と栗原養護教諭が、医師に対して、当日の状況や、最近の鉄次の勤務状況などを説明した。
更紗は、兄弟の方に付き添った。特に、焼けたブルドーザーの車体のせいで、膝や太腿などにひどい火傷をしていたが、窓枠に残っていたガラスによる切り傷もひどかった。その治療後、2人も、ベッドで横たわり、点滴を受けた。救出中は意識していなかったが、彼らも熱中症になっていた。
兄弟の点滴が終わりそうな頃、穂高が茉莉を連れて病院に到着した。
「おばさん」
「更紗ちゃん。どう?」
「おじさんは、意識は残ったけれど、内臓にも影響があったみたいで、入院するそうです。紫苑は点滴したら後は自宅で様子見だそうです。銀河は、ガラスで結構ざっくり切った傷があって、何カ所か縫ったそうです。明日、2人とも一応、ガラスが残っていないか、レントゲン?で確認するそうです。意識は2人ともありますよ」
茉莉は3人が眠っている部屋に入った。点滴が終わってベッドに座った兄弟を見て、茉莉は手を挙げた。ギリギリのところで更紗に止められたが、そうでなければ、兄弟揃って顔が腫れ上がるところだった。
「あんたたち、死ぬところだったのよ。なんであんなに危ない・・・」
「おばさん。泣かないで」
更紗は、不器用な兄弟の代わりに茉莉を抱きしめた。
「紫苑も銀河も格好よかったんですよ」
「かっこなんか良くなくてもいいのよ、生きていれば。下手したら3人とも死んでいたんだからね」
更紗はそれ以上何も言わずに、茉莉の背をなで続けた。
医師がやってきて、直接病状説明を始めたので、茉莉は少し落ち着いてきた。
「ご主人は、働き過ぎですかね。そのせいで、暑さに対する抵抗力も落ちたんでしょうか。肝臓や腎臓への影響も懸念されるので、1週間ほど入院することをお勧めします。完全看護なので、付き添いは結構ですが、明日、息子さんのレントゲンの時に入院準備を持ってきていただければ・・・」
茉莉は自分が責められているように感じた。本当は茉莉も仕事を制限するように鉄次に言っているのだが、「みんなが困っている」の一言で片付けられてしまうので、それ以上何も言えなかったのだ。
病室の外では、栗橋養護教諭と鮫島先生が小声で話をしていた。
「すいません。夜遅くまで、うちの妹たちの我が儘に付き合って貰って」
「いいえ、お気になさらないで。4人ともうちの生徒ですので、当然の仕事です。では、私はこれで」
穂高は、帰ろうとする栗橋養護教諭の腕を取った。そして、慌てて手を放した。
「すいません。触って。あの迷惑ついでに、帰りもうちの妹たちを連れ帰って貰えませんか?菱巻さんのワゴンに、チャイルドシートが2台乗っていて、運転手以外、あと4人しか乗せられないんです」
「チャイルドシートを外せばいいじゃないですか」
「暗くて、上手く外せないんです」
「しょうがないですね。妹さん2人がこっちでいいんですか?カップルを引き裂くのは気が重いな」
「えー?栗橋先生は、後部座席でイチャイチャされてもいいですか?」
「それは、独身の私に辛いだろうと?」
「いや、俺も独身ですが」
「それはどうでも良い情報ですが。どちらに乗りたいか、生徒に決めさせましょう」
結局帰りに穂高の助手席に座ったのは、更紗だった。
「いいのか?ここで」
「なんで?おばちゃんは生き返った息子に挟まれて座って、嬉しそうじゃない」
(お前はいい嫁になるよ)
後部座席では、久し振りに息子2人に囲まれて、茉莉がなんとなく嬉しそうだった。
「だぁから、母ちゃん。銀河の腕には大量に脂肪があるから、ガラスが刺さっても大丈夫なんだよ」
「紫苑、まだそこまでデブ化してないからな。ほら腹を見ろよ」
「ねえ、銀河。この伸びる皮は何?」
「ここにまた、脂肪を入れるんだよ」
息子達の阿呆話を聞いているうちに、茉莉の顔に笑顔が戻り始めた。両方の腕に、息子達の体温を感じることの幸せを噛みしめた。
紫苑は、鈴音が生まれた後、9年もたって生まれた待望の男の子だ。色も白く、整った顔立ちで可愛くてしょうがなかった。鈴音に相手にされなくて、すぐ泣いて帰ってきたのを、何度も抱きしめて慰めた。柔らかい髪の毛、長いまつげ、どれも懐かしい。
銀河はその2年後に生まれた。泣かない男の子だった。いつも、むすっとしていたが、蒔絵ちゃんと遊ぶ時だけ、はにかんで笑う可愛いところもあった。外で友達と元気に遊ぶ紫苑と比べ、銀河は自宅でいつも一人遊びをしていた。親も忙しく構わないでいると、鈴音や蒔絵がやってきて、世話を焼いていた。
そんな2人が父親を助けるために、ブルドーザーに飛び乗っていったと言う話を聞いた時は、茉莉は心臓を鷲掴みにされたような気がした。鈴音の手前、自宅では動揺を隠していたが、穂高の車に乗った途端、涙が止まらなくなってしまった。
今再び、軽口を叩いている息子に囲まれて、茉莉は涙が止まらなくなってしまった。
「母ちゃん。鼻水が出ているよ。ほら、ティッシュ」
紫苑に差し出された鼻紙で、涙を拭きながら、もう暫く息子達に囲まれていたいと思った。
来年は、紫苑もうちを出ていくと思ったら、また、涙が止まらなくなってしまった。
そんな茉莉を、更紗はバックミラー越しに見つめていた。
銀次と茉莉の考え方の違いを、浮き彫りにするため、茉莉の心理を書き込んでみました。