54 保育士がやってきた
待望の保育士さんがやってきましたね。
真っ黒に日焼けした小町技術員は、朝から校門前で庭木に撒水をしていた。
「あれー?藍ちゃんと茜ちゃんは、もう帰って来たのかい?」
双子を連れて登校してきた銀河と蒔絵に気がついて、元気に声を掛けてくれた。灰よけの日傘をさした2人は、文化祭の話し合いのため、夏休みにもかかわらず登校してきたのだ。
「はい。銀河のお姉ちゃん一家が、富士山の灰がひどいんで、避難してきたんですよ。またお世話になります」
「お姉ちゃん達は、こっちで仕事するのかい?」
「お姉ちゃんがちょっと体調を崩したんで、夏休みはうちらで預かっています。2学期に体調が良くなるといいですけれど」
蒔絵はそつなく、かつ、嘘も言わずに、事情を説明した。
水撒きが終わった小町技術員は、肩に掛けていた手ぬぐいで汗を拭きながらため息をついた。
「いいよね。うちも、銀河君達みたいに子守りしてくれる人がいたら良かったのに」
「小町さんのところ、お子さんは3人ですよね」
「うん。上の子は小学校1年でで、百葉小学校に学童保育があるからいいけれど、下の2人は今、預ける人がいなくて、毎日が綱渡り状態なんだ」
「今までは、どうしていたんですか?」
「美鳥の勤務は、小中高1日ずつ、週3日の勤務なんだ。だからその3日は、亡くなった桐生のお祖母ちゃんが、家に来て子守りしていてくれたんだ」
「お祖母ちゃんが亡くなった後はどうされていたんですか?」
「今は夏休みだからね。お義母さんも含めて、みんなが夏休みを少しずつずらして取って、子守りしていたんだけれど、2学期が始まったら、そうも行かないよね。
だから、町の保育園に預けるため、一家で町に移住するかって、現在家族会議中。ただ、町の保育園に移るって言っても、空きがないかも知れないから、困っているんだ」
「未来TECの企業内保育には入れない人は、本当に困っていますよね。家の姉ちゃんも、育児休業中だから、保育園に預けられないんですよ。早く、保育園が開園しないかな。そうじゃないと、村から優秀な人材が流出しちゃいますよね」
小町は、銀河に「優秀な」と言われて、照れて頭を掻いた。
「小町さん。藍も茜もそろそろ動き出すんで、ベビーベッドじゃ収まらないから、教室の後ろに柵を作って、そこに入れておこうと思っているんですよ。職員の子供ってことで、小町さんところの子もそこに置けないかな。校長先生に聞いてみましょうよ?
勿論、柵の中では、誰か高校生以外の人に、見ていて貰わないと困りますけれど」
「花子さんとかボランティアで、来てくれそうだね」
蒔絵も賛同した。
「そして、文化祭で、現状を村のみんなに見て貰って、保育士募集に、村の予算を最優先に振り向けて貰う。そのために、文化祭で署名を集めることはできないかな。だって、建物はもう既にできているんだろう?」
渋る小町技術員を連れて、銀河達が校長室に行くと、ちょうど、徳憲子村長も校長室にいた。
銀河が、ふたたび藍や茜を連れて登校することと、教室後部にベビーゲートを設置すること、そして文化祭で署名を集めることの許可を得ようとした。許可は思いの外簡単に下りた。
「後で、担任に話をして置きなさい。でも、署名についてはもう少し考えてみましょう」
続けて、小町技術員は、自分の窮状を徳崇子校長に訴えた。
「どうですか?村長」
徳崇子校長は、娘の徳憲子村長に尋ねた。
「一応、保育士は2人確保してあるんだけれど、4月からの勤務なんですよ。
ただね、この噴火で、現在百葉村に避難してきているの。2学期から、働けないか聞いてみましょうか?」
「お若い人?」
校長は、再度村長に尋ねた。
「35歳の女性と23歳の男性。ご夫婦なんですよ。お子さんも2人いて、噴火の被害のない東北地方へ転居したいって、希望があったんだけれど、無理言って百葉村に来て貰ったの。女性の方は家の村の出身なのよ」
「それ以外の保育士もまだ、募集しているのよね」
「まあ、この2人の扱い次第で、もう少し保育士が来てくれるかも知れないって、期待しているんですけれど。そう言うことだから、菱巻君、署名はいらないかも知れないね」
「はい。分かりました。それから、うちの姉のように、育休なのに『体調不良で子供を扱って欲しい』という場合も、村の保育園で預かって貰えるんですか?」
徳憲子村長は、にっこり微笑んだ。
「色々な場合もあるじゃないですか?飲み会や旅行や遊び。お母さんだからって、一生我慢しなければならないってことはないと思うのよ。ねえ、お母さん」
「そうね。私も憲子を産んだのが20歳だったけれど、夫には許されて、妻には許されないことが多すぎたな」
蒔絵が小声で、呟いた。
「ずっと子供を預けっぱなしと言う親御さんも、出て来ないかな?」
徳崇子校長は小さく微笑んだ。
「蒔絵さんが、もし、学生の時に出産したら、現状では、子供のために学生時代の楽しいことをすべて犠牲にすることになるよね。だけど、あなたの夫の方は、そこまで犠牲にしてくれるかしら?」
蒔絵は、こっそり銀河を盗み見た。銀河は抗議するように口を開けたが、それより早く、徳校長はその後を続けた。
「現在、子供を持たない女性や、結婚をしない女性が多くなっているのは、そんな不利益を受けたくないからよね。『少子化』を問題にしている男性の多くは、『女性の我慢が足りない』と心の中で思っているの。でもね。『我慢』しないで良くなれば、もっと子供を持つんじゃない?」
「家族の中で一番弱い立場の者が家事を押しつけられていますよね」
銀河は自分のことも暗に含めて語った。
徳憲子村長が、蒔絵への答えを続けた。
「まあ、流石に『ずっと預けっぱなし』で、育児放棄する親御さんは困るわね。そう言う親御さんがいたら、私が直接、事情を伺いましょう。保育士が矢面に立たないように考えています。
それ以外の保育園への苦情も、直接、村長である私が聞きます。保護者対応がストレスで、優秀な保育士が体調を崩しても困るから・・・」
村長は銀河の方を向いて、言葉を続けた。
「明日、保育士さん達と打合せをして貰います。ベビーゲートのことや、オムツやミルクの扱いも話をすりあわせたほうがいいわよね。話し合いには、田邊先生にも同席して貰います」
銀河が首を捻ると、村長と校長が顔を見合わせた。
「未来TECの託児所に預けている人の中で、村の保育園ができたらそちらに移りたいって人もいるの。田邊先生のところのお子さんも、その1人なの」
翌日の午後、高校1年普通クラスに、校長、村長、田邊先生、小町技術員、銀河と蒔絵の6人で、新しい保育士を待った。
時間ちょうどに、ぽっちゃりした大柄の女性と、若い美青年が入ってきた。
「すいません。ちょうどお昼寝の時間で、ぐずっちゃって。でも、ようやく眠ったので、静かに話ができますね」
そう言うと、ベビーベッドで寝ている双子を見て、にっこり笑って、椅子に座った。美青年の方も、同様に着席した。2人とも、抱っこ紐でぐっすり眠った子供を抱いていた。
最初に口火を切ったのは、何故か、小町技術員だった。
「おい、鯨谷委員長だろう?俺、小町だよ、覚えている?」
「嫌だぁ。謙三君?久し振り」
徳崇子校長が、笑みを浮かべた。
「2人は同期生ですよね。今回、鯨谷さんに無理を言って、故郷の百葉村で働くことをお願いしました。お願いを聞き入れていただきありがとうございます」
「いえ、破格の給料でびっくりしています。住宅も用意していただいた上、夫婦で同じ職場、子供も同じ園においていただけるなんて、有り難いです」
不思議そうな顔をした蒔絵に、小町技術員が耳打ちした。
「自分の子供を、同じ園に置けないところもあるんだ」
田邊先生も同意した。
「高校だって、職場内結婚すると、どちらかを移動させますよね。ここは、1村1校なので、そう言うことはないですが」
田邊先生は、その後、鯨谷夫妻に話を振った。
「この部屋で、1学期は、高校1年生の半分と赤ちゃんが一緒に過ごしていました。ここにある備品は村の物ですが、オムツやミルク、着替え等は、菱巻さんの私物です」
鯨谷出づ水は立ち上がって、備品の確認をした。そして、教室と隣の部屋を仕切るドアを開けてみた。
「こちらの部屋を保育室にするということでいいですか?」
田邊先生は不思議そうな顔をした。
「いいえ、高校1年生は1クラスにまとまりますので、そこのドアを開けて、広々とお使いください」
鯨谷出づ水は、難色を示した。
「すいません。私、11月に出産予定なんですよ。だから、4月からの勤務をお願いしたんです。もし、保育士が誰も来なかったら、早瀬が1人で7人を見るんですよね。3月までは、『保育ボランティアで』と、お願いしたのはそういうわけなんです。ですから、何かあったときはここにいる親御さんや兄弟さんが、ヘルプに来られるこの形が有り難いですね」
「そうか。委員長いや、出づ水先生、おめでとう。随分恰幅がよくなったと思ったが、3人目を妊娠中なんだな」
「謙三君は相変わらずね。産んだら、もう少し痩せるわよ」
鯨谷早瀬が、疑い深そうな目をちらっと向けた。
と言うわけで、ドア一つ隔てた向こう側に、ベビーゲートで一部区切って、双子と小町の子供達、鯨谷家の子供達6人が当座、保育室で過ごすことになった。田邊愛実ちゃんは、4月、出づ水先生の産休が明けてからこちらの保育園に来るということになった。
最後に蒔絵が遠慮深く聞いた。
「あの、今まで放課後に美術部の友達が、双子のデッサンを描きながら2時間子守をしていてくれたんです。そのデッサンは文化祭で披露するんですが、その子が放課後保育室に入ることを、許可して貰えますか?」
「勿論、誰でも入れるというわけではないですが、前持って断っていただければ、大丈夫です。逆に3月までは、お手伝いは大歓迎です。早瀬も、まだ保育士になって、3年しかたっていないので、1人では手が回らないこともあると思うんです」
田邊先生が、指でOKマークを出した。
「今までも、授業中でも双子が泣き出すと、クラスの高校生が、子守りをしていましたので、みんな慣れたものです。赤ん坊の泣き声が聞こえても、みんな普通に授業しています」
蒔絵がニヤニヤ笑った。
「田邊先生も、うんちのおむつ替えられますよね」
「はい。マスターしました」
早瀬保育士が、爽やかな笑顔で「よろしくお願いします」と呟いた。
田邊先生が、少し眉を曇らせた。
「失礼ですが、うちの女生徒達が、用もないのに保育室に入りそうな気がするんですが・・・」
蒔絵も田邊の意図することが分った。あまりに美青年過ぎて、女性とが放っておかないだろうという懸念だった。
出づ水が手を振りながら、それを否定した。
「女子に関しては、大丈夫」
それを聞いて、早瀬は耳に掛けていた髪を下ろして、顔の前に垂らした。どう見ても、ショートボブの女性にしか見えない。
「うわ。美女ができあがった」
蒔絵が素直に驚いた。
「じゃあ、男子は?」
田邊先生の脳裏には、穂高の顔が浮かんでいた。
「失礼」
早瀬は、田邊先生の腕を取って、抱っこ紐に隠れた自分の腹を触らせた。そこには見事に6つに割れた腹筋があった。
「早瀬は、極真空手の世界大会日本代表なんです。大会の時の声は野太いですよ」
出づ水先生の笑顔は、母親のようだった。
色々と、ギャップのあるお方のようである。
出づ水と早瀬の馴れ初めについては、後日触れますので、乞うご期待。