53 病める時も、家族です
アップするのが遅くなりました。
「ねえ、お祖母ちゃん。この指、キコキコなるんだけれど、年のせいかな?」
英子は、鈴音の左の親指を触った。
「かくん、かくんと引っかかるね。『ばね指』じゃない?日帰り手術で治るから、一度町の外科医に行ってきなさい」
「そうね。最近、流しを洗っている時、よくお皿を落としそうになるの。気になるから、行ってくるわ」
町の外科医でも、英子の見立てと同じ『ばね指』と診断され、鈴音は手術をしてきた。抜糸までは1週間だというので、銀河達は手分けして、水仕事を肩代わりした。
1週間後、抜糸の日、春二と町に行った鈴音が帰ってきたのは、かなり遅くなってからだった。そして、そのまま夕飯時になっても。鈴音は夫婦の部屋から出て来なかった。
「皆さん、少しお話をしていいですか?」
みんなが夕飯を済ました後、銀河と蒔絵が流しを洗い終わって、テーブルに着いたタイミングで、春二が家族に話を始めた。蒔絵は、抜糸が終わるまでと子育ての手伝いに来ていて、ついでに夕飯も一緒に食べたのだ。
「鈴音のことなんですが、あー、蒔絵ちゃんも聞いてくれると嬉しい」
家族会議だと思って、自宅に帰ろうとしていた蒔絵にも、春二は相談を持ちかけた。
「今日、抜糸に行って、医者の手術の結果を聞いたんだ。腱鞘をただ切開しようと思って、親指の付け根を開けたら、滑膜が異常に増殖していたらしいんだ。つまりね。ただの『ばね指』じゃなくて、『リウマチ』だっていうんだ」
銀河は、珍しく狼狽えて、矢継ぎ早に質問をした。
「『滑膜』が多いとリウマチなの?血液検査でも数値の異常があったの?それとも、姉ちゃんに、『ばね指』以外にも症状ってあったの?」
春二は、少し息を吸って、銀河の質問、一つ一つに答えた。
「うん。滑膜の増殖は、リウマチの典型的症状なんだって。炎症を表わす数値もかなり高かったそうだ。ばね指以外の症状について、鈴音に聞いたら、朝、手がこわばっていたとか、熱っぽかったとか、手首が腫れていたとか、いくつかリウマチの症状はあったみたいだ」
「どれも、疲労から来た症状とも言えるよね。見落としちゃうね」
「後は、『ストレス』もあったらしい」
銀河と蒔絵は、春二の実家を思い出して、納得した。
「で?これからの治療はどうするの?」
「まずは、1週間くらい入院して、各種検査して、少し強い薬で様子を見るって。この病気には、『完治』がないから、薬で炎症を抑えるしかないそうだ。それで、鈴音はショックを覚えて、今、布団で泣いている」
英子が立ち上がった。
「じゃあ、先輩からアドバイスをして来ようかね」
「え?お祖母ちゃんも」
「海の暮らしを止めたのは、リウマチがひどくなったからだよ。でも、今は医療も発達して、新薬も発明されたから、昔とは違う。それに、早期発見されれば、関節破壊も少なくて済むんだよ」
茉莉が、家族全員に語りかけた。
「双子のことも大切だけれど、鈴音にストレスを掛けないことも大切だね。鈴音には、子育ての楽しいところだけ取りあえず、味あわせてやろうと思うんだけれど」
「おばちゃん。双子は必ず一緒にいいないといけないかな?」
「蒔絵ちゃん、それはどういうこと?」
「双子をずっと離ればなれにするってことじゃないんだ。今育てやすいのは茜ちゃんだから、取りあえず、茜1人を、昼間はお姉ちゃんが子育てしてみたらどうか・・・って思ったんだ。藍は、もうかなり動き出したし、離乳食も始まるんで、昼間は学校でうちらが、前みたいに面倒を見る。
それで、茜の子育てに慣れたら、1日置きに藍と交代したらどうかと思うんだ。夜は春二さんに頑張って貰って、休日は私も遊びに来るし・・・」
銀河が腕組みをして、椅子の背もたれに頭をも垂れかけた。
「有りかも」
「そうだよね。2人一緒だと、2倍の苦労じゃないんだよね。同時に泣き出しちゃうから、ストレスは3倍に近いんだよね。茜は、少しゆっくり成長しているけれど、藍と一緒にいると『発達不良』かなって、心配になったりもするし」
「そうだな。親だと心配になるよな」
春二が頭を下げた。
「申し訳ない。2人は勉強もあるのに、また、子守りをお願いすることになって・・・」
銀河がにやりと笑った。
「義兄さん、6ヶ月過ぎると、夜泣きが始まるんですよ。何が原因かわからないのに、『あ~ん、あ~ん』って泣き続けるんです」
「ああ、小町さんが言っていたね。車に乗せて夜のドライブをするとか、負ぶって外を歩き回るとか・・・で、泣き止んだと思って家に入ると、また泣き出す。地獄の日々だったって言っていたね」
「蒔絵ちゃんも銀河君も脅かさないでくれよ」
茉莉が思い出し笑いをした。
「鈴音もそうだったね。下の男の子達は、もう、泣いていても、泣き止むまで客間に放り投げ込んでおいたけれど・・・」
「ひでぇ」
紫苑と銀河が声を揃えた。
「鈴音の時も、祖父ちゃんに、『放っておけ』って言われたけれど、最初の子の時は、お嫁さんの立場として、それもできなくてね」
「で、どうしたの?」
「最後は、鉄次さんが鈴音を負ぶって、夜の海岸を歩いてくれた」
「俺たちが夜泣きした時は?」
「鈴音が生まれた時は、1年間遠洋漁業に行かなかったけれど、あんた達が生まれた時は、両方とも漁の最中だったの」
「なんだよ。俺たちの出産の時は、帰っても来なかったんかぃ」
「お祖母ちゃんが、リウマチで船を下りたから、代わりに海に出て行ったのよ」
鉄次は、黙ってTVを見ている振りをしていた。
「おー。鈴音、起きてきたのか?夕飯食うか?」
鉄次の声で振り返ると、ドアの外に泣きはらした目の鈴音が立っていた。春二がすぐさま立ち上がって、鈴音に近づくと、鈴音は春二に抱きついて、子どものように泣きだした。
「私が、双子を産んだからいけないんでしょ?」
「そんなこと、誰も言っていないよ」
「みんなの迷惑になっている私がいない方が・・・」
「鈴音がいなかったら、俺も生きていけないよ」
そう言うと、春二は鈴音を抱きかかえて、夫婦の寝室に戻っていった。
銀河も動揺を隠しきれなかった。
「あんな姉ちゃん、初めて見た」
英子が疲れた顔をして、食卓に着いた。
「お疲れ様でした。お義母さん」
「昨日の今日で、病気を受け入れることはできないよ。リウマチは『不治の病』だからね。でも、『寛解』って状態になれば、気持ちも体も大分落ち着くんだけれどね。子育てのストレスは、体に悪いんで、みんなで協力してやれ。幸い、うちは人手だけはあるから」
「そうですね。できることで、みんなで助け合いましょう。銀河、もう遅いから、蒔絵ちゃんを送っていってね」
蒔絵は、立ち上がったついでに、茉莉に尋ねた。
「おばさん、鈴音さんの入院はいつからなんですか?」
「明後日と聞いているわ」
「入院している間は、毎日双子の面倒を見ます。鈴音お姉ちゃんが退院した後も、子育ての手伝いします」
「そうね。入院で、心のゆとりが出てくるといいわね」
英子は、茉莉の入れたお茶をゆっくり飲んだ。
「大丈夫。入院したら、色々なリウマチ患者と体験を共有できるから、きっと前向きになって退院できるよ」
玄関を出ると、蒔絵はそっと銀河と手をつないだ。銀河は蒔絵と一緒に、マンションの前の公園の奥の東屋に歩いて行った。その東屋なら、富士山の噴火の灰を直接浴びることがない場所だった。夏の夜なのに、灰のせいで星は見えず、視界も悪かった。
東屋のベンチに銀河は静かに座り、蒔絵はその隣に座った。蒔絵は銀河が話し出すのを静かに待った。
「鈴音姉ちゃんのあんな姿を初めて見た」
「そうだね」
「なんて言っていいか分からないけれど、すごくショックだったんだ」
蒔絵は、静かに銀河の頭を触った。銀河はその感触に蒔絵の方を見た。
蒔絵はにっこり笑った。
「銀河がいつもしてくれるでしょ?銀河もされたら嬉しい?」
銀河はそのまま俯いた。
「姉ちゃんが死んだらどうしよう」
「お祖母ちゃんだって、リウマチだったけれど、今は元気じゃない」
「遺伝するのかな?」
蒔絵はスマホで検索した。
「遺伝はしないよ」
いつも自信満々のようだが、銀河はまだ16歳の少年だった。将来に不安を抱いたら、なかなかそれを止めることは出来ない。蒔絵は、そんな不安そうな銀河の頭を引き寄せた。銀河は蒔絵の肩で暫く、小さな声を出して泣いた。
ぶーーん
暫く、銀河が泣いた後、静かな東屋に、蚊の飛ぶ音がした。銀河は顔を上げて耳を澄ました。
「蚊がいるな」
「そうだね。蚊に食われる前に帰ろうか」
ばちん。
「お前な。もう少し優しく叩けないか?」
蒔絵は掌を広げ、真っ赤な血と潰した蚊を見せた。
「でも捕まえた。大分血を吸っちゃったね」
銀河は自分のTシャツの裾を引っ張って、蒔絵の掌を拭った。
「ありがとよ」
そう言うと立ち上がって、蒔絵の背を押してマンションの入り口まで送った。
銀河はそう言って、踵を返して自宅に向かった。
(銀河は大丈夫だよね)
蒔絵は、腕をボリボリ掻きながら歩く銀河の後ろ姿を、いつまでも見送った。