40 春二はしっかり教育された
赤ちゃんがいないと、「赤ちゃん本舗」とか「西松屋」とか行く機会無いですよね。最近は百均でも離乳食用の安い食器が買えますし、鈴音ちゃんは荷物運び2人を連れて、思う存分買い物ができたんでしょうね。
朝、7時からマンションのチャイムがけたたましくなった。
「はあい」
蒔絵が、ジャージ姿で玄関を出ると、そこには春二の母、秋子が立っていた。
「あなた誰?」
「いや。そちらこそどなたでしょうか」
「私は東城秋子よ。春二の母ですの」
蒔絵の後ろから、今起きたばかりの銀河が顔を出した。
「ああ、昨日はどうも、義兄を起こしてきますので、少々お待ちください」
「起こさなくていいわ、あの子は寝坊だから。鈴音さんは?」
銀河は、鈴音がいなくて良かったと思った。
「姉はもう病院に行きましたよ。夕べ、藍も入院しましたので。あの暑い中、3ヶ月の子どもを連れ回すのは狂気の沙汰だって、医者に怒られたらしいですよ」
「そうね。母親なら、その対策すべきよね。ちょっと上がらせて貰うわ」
銀河の毒を拭くんだ言葉が分からなかったようで、秋子は涼しい顔をして、春二と鈴音のマンションの部屋に上がり込んできた。
そこへ蒔絵に起こされた春二が起きてきた。
「母さん。何の用事?」
「昨日の写真を持ってきたのよ。あんた達、何の挨拶もなく帰って、私は本当に困ったのよ」
昨日の不満をぐだぐだと言おうとする秋子を尻目に、蒔絵が春二に話しかけた。
「春二さん、朝ご飯用意しますよ。食べたらすぐお掃除を始めましょうね」
「あら、あなた、お手伝いさんだったの?これ、昨日の残り物ね」
そう言って、銀河の分の茶碗を取ろうとするので、蒔絵はサッとそれをかすめ取った。
「銀河も用意できているよ」
顔を洗ってきた銀河もさっと席について、食事を始めた。
「蒔絵は朝ご飯は食べた?」
「うん。お姉ちゃんと一緒に食べた。お姉ちゃんは午後には帰って来るので、午前中が勝負だね」
「義兄さん。じゃあ、食べた後の手順を話しますね。まず、台所。これから離乳食も始まるし、一端綺麗にして消毒して、赤ちゃんのミルクセットを使いやすいように並べます。
次に、双子の寝る場所と遊ぶ場所ですね。居間に遊び場所を作りますが、ベビーベッドは、移動できる新型をレンタルします。それから床には堅目のマットを買って敷きます。フローリングの床の上で転倒すると頭を打ちますので」
秋子が話題に乱入してきた。
「ベビーベッドは2台も用意してあるでしょ?」
「義兄さん、これを買ったのはいつですか?」
「3日前かな?」
「レシートありますか?あったら、返品してきましょう。こんな巨大なベッドがあったら、子どもが遊べる場所がなくなります」
自分が選んだベッドにケチをつけられ、秋子は声を荒げた。
「春二、あなたは義弟にこんなこと言わせておいて、注意しないの?だいたい、部屋が狭いなら、私達と同居すればいいのよ。そうしたらこのベッドでも置けるじゃない」
銀河は、秋子の存在を全く無視して春二に話しかけた。
「義兄さん。このベッドじゃいけない理由は、大きさだけじゃないんです。まず、ベッドマットがふかふかですよね。これでは、赤ちゃんが窒息死します。それから、ベッドの高さが低すぎる上に、高さ調節機能がないですよね。背が高い夫婦でこれを使うと、腰を壊しますよ」
春二は、赤ちゃんが死ぬ危険性を始めて理解した。ベッドの高さの低い危険性が分かるまでは、まだまだ時間はかかるだろう。
春二の食事が終わるか終わらないうちに、銀河と蒔絵はすっくと立ち上がって、台所に向かった。
阿吽の呼吸で、台所のものを食卓に運ぶ2人を見て、秋子は早々に退散していった。
「珍しいな。母さんが帰っていった」
「いつもはもっと居座るんですか?」
「俺が休みの日は、朝からずっといるよ」
「祖母ちゃんとの折り合いが悪いから逃げてくるんだ」
「でも、そんなにしょっちゅうお義母さんがうちを訪ねていたにしては、義兄さん達の部屋は片づいていなかったですね」
「うちの母さんは、乳母日傘で育てられた人だから、家事なんてできないさ。そして、家の祖母もお手伝いさんが何人もいる家の人だったから、家事をしたことがない」
銀河が、昨日の2人の様子を思い出した。
「それで、赤ちゃんの抱っこもできなかったんですね」
「つまり、お義兄さんも、母親の家事をしている姿を見たことがないのですね」
春二が悲しい顔をした。
蒔絵が、にっこり笑った。
「じゃあ、今日はいっぱい家事を覚えましょう」
銀河と蒔絵は、まず台所の掃除から始めた。蒔絵はカビだらけの流しの消毒を、銀河は春二と協力して、冷蔵庫や食器棚を動かして、下に落ちている食べ物の滓や”G”の死骸などを綺麗にした。ほこりだらけの食器棚に並んでいるブランドものの食器は、新聞紙で包んで段ボールにしまい込んだ。
「母さんが置いて行ったティーカップ無くなったら、怒るだろうな」
「双子が泣き叫んでいる家で、優雅にお茶なんて飲めませんから・・・」
銀河が作業の手を休めず、義兄の言葉に答えた。
空になった食器棚に、銀河は、茶碗とお椀など日常使いの食器だけを並べた。
流しを片づけ終わった蒔絵は、今度は冷蔵庫の中身をすべて出して、アルコールで拭いていた。
「お義兄さん。腐った食べ物は袋に入れたので、マンションのゴミ捨て場に運んでください」
「はい?俺?」
「マンションの住民しか、ゴミ捨て場の鍵を持っていませんよね」
春二は、「初めてのゴミ捨て」に出かけた。
「すごいね。鈴音お姉ちゃんが里帰りしている1ヶ月間、ゴミ捨てしていなかったんだね」
「蒔絵、この大量のタッパーは、なんだ?」
「多分、お姉ちゃんが、これに食べ物作って帰ったのに、食べなかったみたいだね。中身はみんな腐っていたよ」
「デパ地下の食材しか食べなかったんじゃないか?お坊ちゃまだよね。今はお手伝いさんもいない家になったのにな」
「お義兄さんのうちって、もう金持ちじゃなくなったの?」
「多分ね。さっき来ていたお義母さんだって、ベッドは選んだけれど、金は義兄さんが払っていただろう?」
「あー。お金はないけれど、浪費癖は抜けないってやつ?」
春二がゴミ捨てから戻ってきたので話はそこまでになったが、銀河も蒔絵もそれぞれに、この件に関しては考えることがあったようだ。
台所の掃除が終わると、今度は居間の掃除だ。居間には、巨人のグッズが所狭しと飾ってあった。
「お義兄さん、このジャビット君や巨人のユニホーム、片付けていいですか?」
「蒔絵ちゃん、野球の試合観戦に必要だから、そこに置いてあるんだけれど」
「うーん。ほこりまみれですよね。試合の時だけ出すか、赤ちゃんがいないところに飾るとかできませんか?」
そう言って、ぬいぐるみのジャビット君の頭を、春二の前で叩いて見せた。
春二は咳き込みながらも、納得して、大きなビニール袋に入れて別室に持っていった。
(絶対、私達が帰ったら、出して飾るな)
蒔絵はそう思ったが、それを気にしている時間は無かった。
「鈴音から、あと30分で退院できるって、メールが来たよ。迎えに行ってくるね」
春二が出た後は、片付けにも拍車がかかった。30分で少なくとも、赤ちゃんを迎える準備だけはできた。
鈴音が双子と一緒に帰った時は、窓も開けられ、綺麗な空気の部屋になっていた。
「ただ今。ありがとう。随分綺麗になったね」
そう言うと、鈴音と春二は、双子を畳の部屋に敷いたバスタオルの上に置いた。
「蒔絵ちゃん、聞いて。春二のサイズじゃ抱っこ紐使えないのよ。笑っちゃうわ」
「抱っこ紐は誰が買ったんですか?・・・あー。わかりました。お義母さんでしたね」
それらも、春二の母がサイズも測らず買ったものだった。
「姉ちゃん、ミシンがあったら紐を足せばいいよ」
銀河は意に介していなかった。そして、春二を誘って台所に戻っていった。ミルクの作り方を教えに行ったのだ。
「鈴音お姉ちゃん。お昼は何を食べたい?乾麺があるから、取りあえず素うどんでも作ろうか?冷蔵庫の中は、みんな駄目になっていたんで、若布ぐらいしか入れられないけれど。それとも何か買ってこようか?」
「あー。じゃあ、素うどん作って。食べたら私寝るわ」
夕べもなかなか眠れなかった鈴音は、銀河達2人がいるので安心して双子を任せられると、寝室に向かおうとした。
「姉ちゃん。起きたら、春二さんと買い物に行ってこいよ。おむつもサイズが小さいし、お尻拭きや使用済みオムツを入れる蓋付きバケツもない。それから、着替えも圧倒的に少ないから、取りあえず、夏の分だけでも買いに行ってこいよ。後・・・」
銀河が、鈴音の眠気を覚ますような提案をした。蒔絵も、更に嬉しい提案を加えた。
「銀河、私1人で双子を見ているから、3人で、ベビーベッドまで買ってきたら?」
「蒔絵ちゃん、神!! お昼も食べに行きたいな」
やっと子どもの買い物ができるというので、鈴音は眠気も飛んでしまったようだ。
「いいよ。3人でお昼食べながら、買い物してきて、私はこっちでカップラーメンでも食べるから。多分、3人がかりじゃないと買い物できないし、銀河のアドバイスは絶対必要だよ」
申し訳なさそうな鈴音の背を押して、蒔絵は3人を玄関まで追い出した。
「蒔絵ちゃん、申し訳ないけれど、双子をお願いするね」
「あー。春二さん、お母様が再度来たら、留守居を決めますね」
銀河は、蒔絵の気遣いを無駄にしないように、余計なことを言わずに、2人を外に連れ出した。
「蒔絵ちゃんって、いい子だね。いいお嫁さんになりそうだね」
春二は、鈴音と銀河から鋭い視線を向けられて、首をすくめた。
「蒔絵は、合理的なだけですよ」
銀河は蒔絵の評価が、「いいお嫁さん」で終わるのが不満だった。