4 航平は後悔した
「上村」君は「かみむら」と読みます。
上村航平は、家族と一緒に東京にある「未来TEC」本社のマンションから百葉村に避難してきた。
首都直下地震は、東京の荒川沿いを壊滅的に破壊し、津波でその後を流し去ってしまった。交通機関は麻痺し、避難所に多くの人が身を寄せる姿が毎日、TVに映し出された。
「未来TEC」本社とそのマンションは、震災の被災地から離れていたが、航平が合格した高校は大きな被害を受け、当分の間、授業は行われない。
それを知った時、航平もその母もすぐ転校を考えた。幸い、同じマンションに住む母親仲間が、「未来TEC」の支社がある百葉村の高校が、今なら書類審査で入学できるという情報を掴んできた。支社の方も、高校入学を条件に百葉村の会社のマンションに住むことを許可してくれた。
田舎くさい学校だろうが、勉強で足りないところは、塾でリモートをして補ってくれるというので、航平は百葉村立百葉高校への進学を決めた。
しかし、新入生登校日に見た銀河の姿に、航平は転校したことを後悔した。
「こんなところで、勉強が出来るのか?」
これから、大切な数学のテストが始まるというのに、例の子連れ少年は、廊下で教員とのんびり話している。
「銀河、鮫島先生が双子ちゃんを、預かってくれるって?大丈夫かな?」
蒔絵は、鮫島穂高の妹だが、学校では「鮫島先生」と呼ぶ分別があった。
「うん。4月から来る数学の先生も一緒に見てくれるって。その先生は、1歳のお子さんがいるから、子育てのエキスパートらしい」
いつの間に、田邊先生が「エキスパート」になったのだろうか?
田邊先生の大ボラか、銀河の希望的観測かはわからない。
「はい。席について下さい。これから数学の試験を始めます。解答が終わっても、席を立たないで下さい。テスト終了後、大切な説明があります」
監督は、高校2年の担任をする予定の国語教師、竹内香織だった。竹内先生は今年50歳になるベテランの教師だ。
竹内先生が配布した数学の問題は、A3判・両面刷りの問題だった。
「答えまでたどり着かなくても、途中経過にも配点がありますので、しっかり計算式も記入してください。それでは、始め」
航平は、問題用紙の両面を見渡した。表面は、事前に貰った春休みの宿題とほぼ同じ問題だった。裏面は、その応用問題。最後の問題は、思考力を問う問題だった。
航平は最後の問題に類似した問題を塾で解いていたことがあるので、自分を落ち着かせ、表面の簡単な問題から順に解答していった。
程度が低いと思っていた百葉村の生徒の中にも、結構な勢いで解答をする生徒が3人いた。1人は田中海里だった。そして、もう2人はあの、子連れでやってきた男女だった。
少し焦ったが、航平は「書いているからって、正解かどうかは分からない」と自分に言い聞かせて、着実に問題を解き続けた。案の定、裏面になると、一緒に東京からやってきた仲間も、百葉村の「未来TEC」の子供達も、シャープペンシルの動きが鈍り始めた。
航平が最後の問題に取りかかった時、隣室から、赤ん坊の泣き声が聞こえ始めた。みんなが苛つき始めたのが分かる。
「すいません。テスト終わった頃、帰ってきます」
そう言って、銀河が席を立った。
「私も終わったので、赤ちゃん見に行きます」
蒔絵も静かに監督の竹内先生に、解答用紙を出して教室を出て行った。
2人が教室を出て行くと、泣き声が静かになった。そして、テスト終了の合図と同時に、1人ずつ赤ちゃんを抱いて、銀河と蒔絵が帰ってきた。
ミルクを飲んだばかりなので、縦抱きにしていた。
「げっぷ」
銀河が抱いている藍が、ミルクと一緒に飲み込んだ空気を吐き出した。
「うわ。きたねー」
銀河の隣の席にいた航平が顔をしかめた。
「わりー。慌てて飲ませたんで、戻しちまった。うげー。肩がミルクまみれだ」
銀河の後ろの席の里帆がすぐ手を出して、銀河から藍を受け取った。
「すまんのー。先生、こっちは気にせずに、最後の説明を続けてください」
周囲を気にすることなく、銀河はミルクまみれの中学時代の学ランを脱ぎ、白いワイシャツ姿になった。そして、スーツケースから、藍の着替えを出して、膝の上でミルクまみれの服を着替えさせた。
「藍ぃ。もうお着替えはないから、ゲボするなよ-」
周囲から失笑が聞こえた。竹内先生も微笑みながら、「入学式の案内」の紙と「入学までの課題」の冊子を配布した。
「はい。じゃあ、海里君、最後の挨拶をお願いします」
竹内先生は、田中先生の息子の海里を指名した。中学でも学級委員だった海里は、当然のように、いつもの号令をかけた。
「起立。礼。『ありがとうございました』」
礼が終わると、数学の答え合わせが、そこここで始まった。
「蒔絵、すごいね。全部終わったの?」
里帆が少しミルクで汚れた制服を、何もなかったように拭きながら、蒔絵に話しかけた。
「いや。最後の問題だけは分からないから、パスしたんだ。銀河は解けた?」
「あー。補助線がすぐ思いついたから、答えが出た」
海里も話題に入ってきた。
「俺はここに補助線を引いたけれど、銀河は?」
「2本も補助線を引かなくていいんだよ。これだけ」
「あー。そこかぁ。思いつかなかったなぁ」
「別に答えは同じだから、いいんじゃない?俺は、そろそろミルクの時間だと思ったから、早く答えが出る方法を考えただけ。それより、昼飯はどうする?」
「えー?午後から家に帰らないの?」
「午後は部活に出るから・・・」
そう言って、銀河と蒔絵は双子を連れて、にこやかに体育館に向かった。
「あのー。最後の問題の答えって、なんだった?」
教室に残った海里に、百葉村「未来TEC」社員の子供、中村翔太郎が話しかけた。
東京から来た生徒達も耳をそばだてた。
航平も答えは同じだったが、もっと複雑な手順で解答していた。
「銀河って子、頭いいね」
翔太郎は、素直に感嘆の声を上げた。
「頭がいいというのか、一つの答えを導くのに、必ず他の方法がないか考えるタイプだな。効率は悪いと思うけれど。英語も、すぐ類義語や別の言い回しを考える」
親友海里も銀河の思考法には一目置いているようだ。
「銀河って、英語も出来るの?」
「中学2年の時、バドミントンのジュニア大会がシンガポールで行われた時、英語に不自由しなかったらしいよ」
「へー。バドミントンも上手なんだね」
「うん。動けるデブなんだ」
海里君、それは褒めていないから。