39 お食い初めは散々だった
藍や茜は、2月3日生まれなので、100日は、もうとっくに過ぎています。お宮参りした赤ちゃんの中では、群を抜いて、大きな赤ちゃんだったでしょうね。
熱中症になった茜は点滴を終えて、そのまま新宿病院で1泊することになった。蒔絵と入れ替えに、鈴音が自宅に戻ったのは夕方7時であった。鈴音は着物を着替えて、再度病院に戻るのだ。
その頃、京王プラザホテルで、藍1人を前にお食い初めが始まっていた。
「お食い初め」とは、生後100日頃の赤ちゃんが、一生食べ物に困らないようにと願う儀式だ。最近の食事処では、「お食い初め」の儀式を一手に引き受けてくれるパックもあり、料理の準備から儀式の手順の案内までしてもらえる。
赤ちゃんの前には、特別な祝い膳が用意され、鯛やお赤飯などが盛られる。勿論、まだ食べられないのだが、一定の手順で食べさせる真似をする。大抵お祝いは、両家の祖父母を呼んで行うのだが、今回は、春二の家の家族や親戚だけを呼んで、祝う会になっていた。
茜と一緒に鈴音が病院に行ってしまったので、東城春二は、泣きわめく藍を抱えて途方に暮れていた。
「春二、鈴音さんはまだ来ないのかしら」
母の秋子は、茜が救急車で搬送されたことは知らない。それを話すと、この酷暑の中、お宮参りを強行したことを非難することになるので、春二は言い出せないでいるのだ。
お食い初めに参加しているのは、春二の父郷太、未婚の長兄郷太郎、春二の祖父信二に祖母百合子、それから、郷太の兄で、本家の東城朔太郎。
そこへ、今日のお食い初めを仕切る仲居がやってきた。
「あのー。もう初めて宜しいでしょうか?」
東城朔太郎が、即答した。
「長男藍がいるので、始めよう」
お食い初めで、祝い膳から赤ちゃんの口元まで、食べ物を運ぶ真似をする「箸役」は、参加者の最年長がする。そこで最年長の東城朔太郎は張り切って来たが、藍は泣きわめいているし、もう1人の茜もいないし、我慢の限界に来ていたのだ。
「嫁の鈴音はどこにいるんだ?春二」
「あのー。茜の調子が悪いので、どこかで涼んでいるのでは?」
「全く、皆さんが揃っているのに連絡もないとはどういうことだ」
襖の隙間から、呼ぶ声がするので、春二が振り向くとそこには銀河が立っていた。
春二は、襖から廊下に滑り出て、銀河と話し始めた。
「どうしてここに?」
「姉ちゃんからSOSが来たからですよ。茜は新宿病院で今、点滴を受けています。そっちには蒔絵をやりました。姉ちゃんは一旦マンションで着物を脱いで、また、病院に戻るそうです」
「えー?こっちに来ないのかよ」
「何言っているんですか?もう少し、遅れていたら茜は死んでいましたよ。今晩も予断を許さないということで、入院するんですからね」
そこまで話して、銀河は藍が泣きわめいている原因の匂いに気がついた。
「ちょっと、義兄さん。おむつ替えましたか?背中もびっしょりですよ。姉ちゃんのバック持ってきてください。トイレでおむつ替えましょう」
「銀河君、できるだけ早く、おむつ替えてきてくれるか?」
「え?銀河も赤い顔しているじゃないですか。このまま、医者に連れて行かないんですか?」
「んー。親戚が揃っているんだよな。着替えて調子が戻ったら、藍だけでもお食い初めできないかな」
「調子が戻らなかったら、連れ帰りますよ」
銀河は義兄を睨み付けて、トイレに向かった。
びっしょり濡れた白いベビードレスを着替えさせ、ぐちゃぐちゃになったおむつを替えると、藍はいつもの調子を戻した。マザーズバックの中から、缶入りのミルクを出すと、藍はあっという間に1本を飲みきってしまった。
藍の背中を2、3回叩いて、銀河はため息をついた。
「赤ん坊を人形だと思っているのか?」
藍を抱いてトイレを出ると、東城家担当の仲居に声を掛けられた。
「もう始めていいですか?もう1人の赤ちゃんは?」
「もう1人は熱中症で病院に行きましたよ。この会は何時に終わるのですか?」
「2時間コースで、もう30分はたっていますので・・・」
「じゃあ、写真を先に撮って、お食い初めは簡略化して、『巻き』でお願いします」
仲居は、赤ちゃんの具合が悪くて、思うとおり進まない会を何度も経験している。
「承知しました」
仲居の、プロの笑顔が頼もしかった。
銀河は、藍の頭を優しく撫でた。
「藍、具合が悪くなったら、すぐ中止にしてやるからな。頑張れよ」
藍と一緒に入室してきたTシャツにジャージを履いた少年を、東城寺の一同が不審に思っていたが、春二は鈴音の代わりに、銀河を使うことに決めたようだ。
「すいません。皆さんお待たせして、こちら鈴音の弟の銀河です」
「ご無沙汰しています。茜はただ今、熱中症で入院しています。姉はそちらの付き添いをしています。藍も大分、暑さにやられているようなので、今日の会は、手短に行っていただき、そのまま、藍を連れて病院に向かいたいと思います」
本家の朔太郎は、真っ赤な顔をして、不満を告げようとした瞬間、仲居がサッと入ってきて、「では、まずお写真を撮ります」と、一同を並べた。
外面が良い一同は、適当に遠慮しながら、席に並び始めた。鈴音がいないので、春二の母、秋子が満面の笑みを浮かべて、藍を抱いて中央に座った。
「はい。皆さんこっちを見てくださいね。1、2、3」
その時、藍が図ったように、胸の前に掛けられた産着にミルクを吹き出してしまった。
写真から外れていた銀河は、おかしくて、目を隠してしまった。
(急いでいて、ちゃんとゲップさせなかったなぁ。まあ、産着の下の服は濡れなかったからいいや)
「まあ、東城家、代々伝わる産着に」
春二の祖母、百合子はご立腹だった。春二はそれを横目で見た。
「茜には産着を着せてくれなかったくせに」
茜には、産着自体を着せなかったのだ。古い考えの家なので「長男」だけを大切に扱った。
この祖母は、本当は次男の春二の子に、この産着を着せることすら嫌がっていたのだ。
しかし、春二の兄郷太郎は40歳になっても結婚する気がなかったので、初孫に着せることを渋々承知したのだ。
仲居は、慣れた手つきで、産着を濡れたタオルでたたき、袋に入れてくれた。
「はい。次に箸役はどなたでしょうか?」
朔太郎は、やっと自分の順番がやってきたので、前にしゃしゃり出てきた。再び、秋子が藍を抱くのだが、抱き方が下手すぎて、藍が大暴れをする。
見かねた春二が、銀河に声を掛けた。
「銀河君、藍を抱いてくれないか」
銀河は涼しい顔で、不満たらたらの親戚一同の前を通り、手を伸ばす藍を頬ずりしながら抱き寄せた。
「藍。あむする真似だから、食べちゃ駄目だぞ」
藍は分かったような笑顔で、「あー」と答えた。
お食い初めは、「赤飯・吸い物・赤飯・焼き魚・赤飯」のサイクルを、本来は3回行うのだが、仲居は機転をきかせて「最近は簡略化されて1回なんです」と誤魔化してくれた。
その後は、親戚一同の飲み会が始まるのだが、銀河と春二は、酒の入った親戚を置いて、さっさと席を抜け出した。銀河が、藍の体温が何時までも高いことに気がついたからだ。
新宿病院までのタクシーの中で、春二はやっと、本音を漏らした。
「助かったよ。銀河君」
「知りませんよ。姉ちゃんはかなり怒っていますからね」
「しょうがないんだよ。兄貴は我関せずだし、母さんと祖母ちゃんは、何時までも喧嘩しているし」
銀河は不思議だった、T大出身のラガーマンで、堂々とした風貌の春二が、どうして家族にものが言えず縮こまっているのか。
「義兄さんは、子どもや嫁よりも、親戚の方が大切ですか?」
「そんなことはないよ」
否定する春二に、銀河は冷たい視線を送った。
「そうだ。明日、蒔絵と俺で、マンション掃除しようと思うんですが、いいですか?」
「あ?ああ、いいよ。鈴音に頼もうと思ったんだけれど、何時退院できるか分からないしね」
「鈴音に?」
この状態で、まだ姉に仕事を任せようとしている春二に、流石の銀河もブチ切れてしまった。
「義兄さん。育休取ったんですよね。義兄さんが一緒に掃除するんですよ。姉ちゃんは双子の世話に加えて、義兄さんの世話なんか出来る訳ないじゃないですか。家のことは義兄さんがやらなくちゃ、また、姉ちゃん里帰りしちゃいますよ。て、言うか。離婚しちゃうかも」
「銀河君、脅かさないでくれよ。鈴音が怒り狂った時の怖さは、俺が良く知っているから」
新宿病院に行くと、藍も念のため、1晩入院することになった。完全看護のために、鈴音も一緒に、一旦自宅に帰ることになった。
「お帰りなさい」
マンションに帰ると、蒔絵が家の中を軽く片付けていてくれた。
「蒔絵ちゃん、まじ、天使。着物も着物ハンガーに掛けておいてくれたのね」
「はい。ぐっしょりでしたね。夏のお宮参りだから、ワンピースって選択肢はなかったんですか?」
鈴音は春二に視線を送った。
「うちの母親が、『嫁は着物を着るのが普通だろう』って譲らなかったんだ」
「本当に、私も熱中症になるところだったわ」
春二は鈴音から目を反らして、紙袋を差し出した。
「いやぁ。鈴音と双子の分の食事で持ち帰れるものを、仲居さんが包んでくれたんだ。
食べるか?」
本当に気が利く仲居さんである。
「お食い初めって、見てみたかったな。写真あったら、見せてください」
「ああ、多分、最後に印刷して渡したんじゃないかな?俺たちは途中で抜け出したから、まだ持っていないよ」
銀河が、堪えきれず笑い出した。
「藍が、ゲボした後、撮り直してないですよね。写真は、産着にミルクをぶちまけた写真だわ」
「またぁ?藍は急いで飲むからすぐ、ゲボするのよね」
鈴音は、お食い初めの会場まで、ミルクを与えられなかったから、急いで飲んだことをすぐ想像した。
でも、もう争う気もなくなっていた。
「鈴音お姉ちゃん。お風呂入れてあるから、先に入ってね。この鯛は、明日鯛飯とお吸い物にして置くから」
「ありがとう。俺も汗まみれだから先に入るね」
春二は、空気を読まず、鈴音より先に、風呂に入ろうとした。
そんな春二を引き止めて銀河が尋ねた。
「義兄さん。僕たちの布団ってありますか?出すのを手伝いますよ」
「ああ、そうだね。出してくるよ」
そう言って、押し入れを探している春二を見て、銀河は蒔絵に囁いた。
「明日は、義兄さんの教育に、1日かかるかもね」