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37 新宿までやってきた

都庁の隣の公園って、実は行ったことがありません。こんな近くに公園があるんだって、地図で見つけました。次回は、また新宿の鈴音のマンションに戻ります。

 体育祭が終わった翌週は、1学期期末考査の1週間前で、部活動は禁止期間だった。しかし、蒔絵と銀河は、朝、昼、放課後といつものように練習に明け暮れていた。蒔絵は、2週間は足が使えないので、朝練習はウエイトトレーニング、昼と放課後は、銀河の練習につき合っていた。高校3年の紫苑と更紗はもう完全に受験モードに入っていた。


 また、野球部も夏の大会のために、練習時間は縮小されてはいるが、放課後の練習が続いていた。

 もう、それぞれが自分の目標のために、突き進んでいるので、特進クラスの巻き髪4人組を相手にするものはいなくなった。如月実加子(きさらぎみかこ)は、幸いなことに爪が()がれたのが左手だったので、授業に支障はなかったが、ちょっとしたことで、痛みに苦しんだ。しかし、他の3人は一緒に行動もしてくれないので、教室移動もひとりぼっちだった。

 反対に、里帆は車椅子に乗せられ、毎日、翔太郎に教室移動を手伝って貰っていた。


「毎日ゴメンね」

教室移動で、4階まで上がらなければならない時は、翔太郎は里帆を()ぶって、行きも帰りも運んでくれた。週に2回ある芸術の時間は、4階の美術室と、自分が取っている書道教室がかなり離れているのに、翔太郎は一言も文句を言わなかった。


「気にしないで。体育祭の時、頼みやすいからって、里帆に負担を掛けた俺がみんな悪いんだから」

そう言って、野球部の先輩に冷やかされても、意に介せず、里帆の世話をする翔太郎を、実加子は羨ましく見ていた。



 銀河は、蒔絵と移動する時は、荷物を持って、ゆっくり一緒に歩いた。芸術授業も、4階の音楽室まで、手すりを頼りに階段を上る蒔絵に、黙ってついて行った。

「銀河も負ぶってやればいいのに」

たまに翔太郎に声を掛けられるが、小さい声で答える。

「これもトレーニングだから」



 そんな2人だが、1学期の期末考査の順位が落ちることはなかった。

海里が悔しがって、「どうやったら、あいつらを抜けるんだよ。蒔絵まで、2位を取っている。俺は部活も1週間していないし、睡眠時間を削っているのに追いつけないなんて・・・」


 それも当然である。鈴音が帰ってきてからは、双子の世話を一切していないので、その時間を勉強に全振(ぜんふ)りできるのだ。銀河は、期末テストの勉強だけでなく、期末考査後にある模擬試験の対策に加えて、夏休みの宿題もあらかた片付けてしまった。

 


 1学期の期末考査が終わると、1,2年生は、終業式までの授業は「消化試合」のようなものだ。教師は成績処理に、3年生は模擬試験対策に忙しいが、1,2年生は夏休み前ののんびりした時間がやってくる。唯一気になると言えば、野球の結果くらいのものだ。今年の百葉高校は、リトルリーグで練習をしてきた翔太郎達「未来TEC」社員の子供達や、東京から来た野球経験者が1年に加入してきて、順調に3回戦まで突破してきている。


 昼食の時間も、野球の話で盛り上がっている。

「だから、明日の試合は、絶対来てくれよ。俺が明日は先発なんだぜ」

翔太郎の言葉に、仲間はどうも乗り気でないようだ。

「ごめんね。翔太郎君、私、まだ上手に歩けないから、学校で応援しているね」

里帆は申し訳なさそうに言うが、海里は一刀両断だった。

「駄目に決まっているだろう?明日も授業があるんだぜ。授業をサボる話を、教員の息子の前でするなよ」

教員の妹である蒔絵は、もう少し同情的だった。

「海里はどうか分からないけれど、私はお兄ちゃんにチクったりしないよ。でも明日勝ったらベスト8でしょ?全校応援のバスが出せるよ。そうしたら、里帆も応援に行けるよ」


「いやー。明日の相手は、去年の優勝校だよ」

弱気な翔太郎に、里帆が温かい言葉を掛ける。

「でも、翔太郎君が先発なんでしょ。勝てるわよね?」

去年の優勝校は、甲子園でも1勝しているくらいの実力校だ。海里は明日の試合結果が想像できていた。

「里帆、残酷なこというなよ。明日は、翔太郎がボカスカ打たれて、コールド試合になるかも知れないぜ」

 それでも、マウンドに立つ姿を見て貰いたい翔太郎は、しょぼくれてしまった。


 銀河は会話の席にいたが、ひたすら、夏休みの宿題ワークを片付けていた。たまに、海里と蒔絵の様子を伺うだけで、翔太郎の話に全くの興味を示していなかった。そんな銀河に、海里は何食わぬ顔をして、声を掛けた。


「銀河、それで夏休みの宿題、最後か?」

「ああ、明日から東京に行くから、今日中に片付ける」

「夏休みに入ってから、東京遠征だったんじゃないか?」

海里は、蒔絵の顔を見た。


「東京遠征は、終業式の日に出ればいいんだけれど、双子ちゃんを連れて鈴音さんが東京に帰るから、手伝いがてら少し早く出ようかと思って。夏休みに入ると、電車が混雑するでしょ?」

「えー。じゃあ、どっちにしろ、蒔絵達は野球の応援に来られないのか」

翔太郎の嘆きがむなしく普通教室に響いた。


銀河は、最後のページを解き終わって、夏休みの宿題ワークをパタッと閉じた。

「翔太郎、まあ、お互い頑張ろう」


「銀河は最近冷たいよ」

翔太郎は、最近の銀河の口数の少なさを気にしていた。

「俺たちの目的は、東京遠征じゃなくて、そこで選ばれて、世界Jr(ジュニア)で優勝することだから」


銀河の言い方がきついので、蒔絵がフォローに入った。

「翔太郎、気を悪くしないで。うちら中学2年生の時、世界Jrに行ったけれど、準優勝なんだ。そして、去年行った浦瀬姉弟(うらせきょうだい)は、優勝してきたんだ。だから、そのダブルスを破って、優勝も決めてこないといけないんだよね」


銀河はぶっきらぼうに、つけ加えた。

「『うちら』って言っても、蒔絵だけ選ばれて、俺が落ちることもある。ダブルスのペアも、流動的だからな」


 銀河は自分が置かれているランクがわかっていた。だからこそ、蒔絵と一緒に海外に行くには、一層の努力をしなければならない。姉と一緒に上京しても、近くの強豪高校で練習に参加させて貰おうかと考えているくらいだった。一方、蒔絵は新しい服を着て、銀河とどこへ遊びに行こうかとウキウキしていた。



 東京出発は、蒔絵にとって、嬉しさ半分、悲しさ半分の旅だった。5ヶ月になる双子は、首も据わり、しっかりお座りができる月齢になってきた。成長の早い藍は、あと少しで寝返りができそうである。そんな可愛い盛りの双子と別れることは、胸が引き裂かれるような悲しみだった。

 一方、強化練習会では仲良しのバドミントン仲間とも会えるし、少し早く上京するので、銀河とも東京で遊べるという高校生らしい楽しみもある。

 

 

 この年、3月の首都直下地震は、東京とその周辺に大きな被害をもたらした。

まず、東京湾周辺の埋め立て地から東京駅までの地域が壊滅的な被害を受けた。その影響で山手線と、大手町を通る地下鉄は未だに運行が止まっている。東京を発着する新幹線も、北は大宮・西は横浜までは動いていない。

 千葉県も浦安や内房に、液状化現象や津波による大きな被害が出た。そこで今までだったら、総武線に乗れば都内に簡単に入れたのに、そうも行かない。ネットでは復興状況も運休情報も確認できるが、東京から帰ってきた鉄次の情報を参考に、武蔵野線で、一端埼玉県に入ってから、目的地に向かうことにした。

鈴音達夫婦は新宿の「未来TEC」の会社のマンションに住んでいるし、蒔絵達の合宿は赤羽の「ハイパフォーマンストレーニングセンター(HTC)」で行う。今日の目的地は新宿だ。


「すいません。俺まで乗せて貰って」

銀河は殊勝な顔をして、茉莉に頭を下げた。

「何言っているの。蒔絵と鈴音ふたりじゃ、双子を連れて行けないでしょ?私は船橋までしか送れないけれど、都内の移動は銀河君がいないと、不安でね」


 鉄次だったら都内まで車で送るのは簡単だったろうが、糸の切れた風船のように帰って来ないことが予想されるので、茉莉が断固としてそれは許さなかった。そこで、今回は、船橋までしか車で送って貰えない。


「姉ちゃん。チャイルドシートが2つに増えている」

「夕べ、田邊先生の奥さんが持ってきてくれたの」

「借りたの?でも、愛実(あいみ)ちゃんはまだチャイルドシート使うんだよね」

「大丈夫、あの2人は、私の頼みを断れないってことになっているから」

銀河は、田邊先生と朋実さんは、「かなりの弱みを鈴音に握られているんだろう」と同情を禁じ得なかった。


「鈴音お姉ちゃん、2列目シートに2つチャイルドシートを乗せると、1人乗れなくなるんだね」

「そう、悪いけれど蒔絵ちゃんは、3列目にスーツケースと一緒に収まってくれる?隙間(すきま)から双子の様子も見られるでしょ?銀河は助手席ね」

 そうは言っても、船橋までなので、それほど長い時間乗っている訳ではない。双子は車を発進させるとその振動で、気持ちよく眠り始めた。


「今日は、西船橋まで送るから、武蔵野線に乗ってね。そこから武蔵浦和駅まで行って、埼京線を使って、新宿まで行けるから」


母の言葉に、銀河がスマホで乗り換え案内を確認した。久し振りの上京だが、「武蔵野線」や「埼京線」に乗った経験がないので、ルートを確認した。


「埼京線が復旧して良かったね。でも山手線が動いてないから、混むだろうね」

「そのための銀河なんじゃない。頑張ってね」

何をどう頑張れと言われたのか、銀河はよく分からなかったが、臨機応変に動くしかないと腹を(くく)った。



 それでも、7月の夏休みに入る前の平日。昼の時間での移動だったので、銀河の想像しているほどの混雑ではなかった。スーツケースも、エレベーターの場所を、鈴音が瞬時に判断してくれたので、スーツケースを抱えて、階段を上ることがなくて助かった。


 千葉駅から総武線一本で来られる新宿は、蒔絵や銀河にとって何度も来たことのある場所だ。鈴音が所帯を持って、会社のマンションに移ってから、何度か来たこともある。

「うわー。新宿久し振り。鈴音お姉ちゃんのマンションまで、少し歩くんだよね」

「歩くけれど、今日はタクシーに乗るよ。向こうでお義母さん達がお待ちかねだからね」


蒔絵と銀河は「お義母さん」という言葉のトーンから、鈴音が「お義母さん」に対して抱いている苦手意識を感じた。

「今日は姉ちゃんのところに泊めて貰っていいの?」

「うん。夜には帰ってくるから」

「ん?今日、これから姉ちゃん達はどこかに行くの?」

「そう。今更だけれど、双子のお宮参りとお()()めを、一気にやるんだって」

「えー。明日じゃ駄目なの?双子ちゃん疲れているし、今日は暑いよ」

「もう、親戚に案内状を出して、会場も予約したらしいのよ。生後100日も大分(だいぶ)過ぎているから、大至急やらなければいけないんですって」


「姉ちゃん、俺たちはどうすればいい?」

「2人にお小遣い上げるから、夕飯まで外で食べてきて、そうね。帰宅時間は追って連絡するわ。何時まで会が続くかわからないから」


銀河は眉をひそめたが、蒔絵は、銀河と2人きりで遊べることで、ウキウキしていた。


遊ぶ気満々の蒔絵に、銀河は遠慮がちに話しかけた。

「今日は、練習したりはしないかな?」

「練習したい?どこでする?」

「いや。走るだけでも・・・」

蒔絵は、前回の失敗から少し大人になったようだ。一方的に自分の希望を押しつけたりはしなかった。

「じゃあ。最初に、運動しちゃおうか?新宿中央公園で体を動かす。その後、すぐ隣の都庁に行こう。私、都庁の展望室から、今の東京の様子を見てみたいんだ」

「ありがとう。じゃあ、ランニングシューズとタオルを持っていこう」


(そうだね。今回も可愛い靴や服とは、縁がないな)


蒔絵の心の声は、銀河には届かなかったようだ。しかし、最終的にはランニングシューズで都内を歩いたのは正解だった。慣れないアスファルト舗装の道で、足に豆を作っては元も子もないからだ。



 2人はマンションに荷物を置くとすぐさま新宿中央公園に向かった。中に入ると、軽くストレッチをして、新宿中央公園のランニングコースを3周ほど走った。蒔絵の肉離れは、ほぼ完治していたが、今日はダッシュをせず、軽いランニングにしておいた。7月半ばの日差しは暑く、汗が噴き出してきた。走った後は木陰の芝生で、大の字になって寝転んだ。


「新宿の公園の草に寝転びて」

銀河が啄木の歌をもじって、口ずさむと、蒔絵がすかさず

「空に吸われし十五の心・・・byサメヒシ」


「サメヒシ」とは、鮫島と菱巻を省略したコンビ名だ。バドミントン界では、ダブルスの名前を省略して呼ぶことが習慣化している。


「『サメヒシ』コンビって、言いにくいよな。『サメウラ』の方が言いやすいのに」


「サメウラ」の「ウラ」は「浦瀬」のことをさす。昨年、世界Jrに行ったミックスダブルスが、浦瀬姉弟だった。浦瀬鮎子(あゆこ)は高校2年生。弟の鯨人(げいと)は高校1年生。鮎子も鯨人も、以前から蒔絵にダブルスを打診してきている。特に更紗が怪我した後は、鮎子とのダブルスをバドミントン協会からも打診されている。銀河が、不安になる理由はそこにある。


 蒔絵も銀河の心配を感じてはいるが、自分が浦瀬とのダブルスを希望しなければいいだけの話だろうと(たか)をくくっている。しかし、今回の合宿で、銀河が世界戦の選手として選ばれなければ、他のダブルスを協会から押しつけられると言うことは、充分あり得る話なのだ。


「言いやすいとか関係ないよ。私は、銀河が一番やりやすいんだから。さっ。汗も引いたし、都庁まで行こうか。涼しいよきっと」



 都庁1階の展望室行きのエレベーター前の、列に並ぶと、後ろから声を掛けられた。

「蒔絵?久し振り、合宿より前に来たの?」


振り返ると、浦瀬鮎子が涼しげなワンピース姿で立っていた。

(あゆ)ちゃん?久し振り。銀河のお姉ちゃんの都合で、終業式前に、学校サボって来ちゃった」

「銀河もいるの?」

鮎子は色白でぽちゃっとしたイメージで、銀河を探していたが、蒔絵の前にいた色の黒い引き締まった銀河には気がつかなかったようだ。


「お久しぶりです。浦瀬先輩」

銀河は少し嫌そうな顔をして振り返った。当然その側には、最も苦手な鯨人もいるはずだ。

銀河が探しているより、少し高い位置に鯨人の顔があった。

「うわ。鯨人君、背が伸びたね。それにそれ、お洒落(しゃれ)パーマ?高校デビューしたんだ」

蒔絵が、少し後ろに()()ったので、銀河の胸にぶつかったが、銀河は蒔絵の肩を押さえたまま、手を離すことはなかった。


銀河の手を、目をすがめて眺めながら、鯨人も蒔絵に答えた。

「蒔ちゃん。久し振り。Tシャツにジャージって、百葉村から走ってきたの?」

「まっさかぁ。新宿中央公園で今走ってきたんだ。暑いから涼みに来たの」

「蒔絵。汗取りシートを貸そうか?」

「えー?そんなに臭くないよ」

蒔絵はTシャツの喉元を引っ張って、胸元のにおいを嗅いだ。


「鮎子、汗取りシートは銀河に貸してやったら?」

にっこり笑いながら、鯨人は銀河が臭いと(あん)に皮肉った。

「やだな。銀河の匂いはいい匂いだよ」

蒔絵は、肩に置かれた銀河の手の匂いをスンっと嗅いだ。


蒔絵以外の3人は、その言葉に赤面した。


銀河は、蒔絵の肩を抱いて正面を向かせた。

「エレベーターが動き出したから前に進もう」



 エレベーターは展望室まで、一気に進むが、降りた先で蒔絵達は、北展望室にそのまま進もうとした。

「蒔絵達は、北に行くの?」

「うん。こっちの方が()いているし、カフェで休もうと思って」

「ねえ、ちょっと、一緒に南展望室に行かない?」

「鮎ちゃん、そっちに何かあるの?

「『都庁おもいでピアノ』があるんだ」

「ふーん」

あまり興味を持たなかった蒔絵だったが、鮎子に腕を取られて半ば強引に、南展望室に連れて行かれた。


 ピアノ系ユーチューバーの演奏の後だったようで、草間彌生のデザインしたピアノの周りは、かなりの人だかりだった。その人並みの移動で、銀河と蒔絵の間が随分と離れてしまったが、銀河は自分と同じメーカーのTシャツ姿の蒔絵の姿を必死で追った。


 人並みが一段落すると、ピアノには次の演奏者が座っていた。お洒落パーマの鯨人だった。

蒔絵は、やっと(そば)に立った銀河に振り返った。

「鯨人君、前からここで弾きたかったんだって。あっ、この曲知っている。銀河?タイトルなんだっけ」

「back numberの『水平線』」


 その曲は、2020年、新型コロナウイルス感染症で、史上初めて中止になったインターハイの応援ソングだった。2011年の東日本大震災でも中止にならなかったのに。

 鈴音達が調度その世代だったので、銀河には印象的な出来事だった。

昨年、紫苑達が南関東インターハイに出たので、今年は自分たちもインハイに出たいと思っていたが、今年は震災にあった県はすべて、予選を取りやめてしまった。

 つまり、銀河達はインターハイに出られなかった県の人間だったのだ。


「いいよな。東北地区は」

浦瀬兄弟は、東北の高校に通っているので、既にインターハイの切符を手にしている。

鮎子は、銀河の言っている意味がわかっていなかった。

「え?何?『水平線』って、遠距離恋愛の曲じゃない?いやね。鯨人は曲で恋の告白をするなんて」


 1曲弾き終わった鯨人は、満面の笑みを浮かべて、蒔絵の場所まで戻ってきた。

「どうだった?蒔絵を思って弾いたんだ」

鯨人は、キザなセリフを付け加えた。


 鯨人の笑顔に、蒔絵は微妙な顔をした。蒔絵の兄も、2年生の時インターハイがなくなって悲しい思いをした人間だった。

「ありがとう。この曲、コロナでインターハイがなくなった時の応援ソングだよね。私達にエールをくれたんだ。浦瀬姉弟は、インハイに出場が決まったんだよね。頑張って」


 そう言うと、蒔絵は銀河に手を引かれて北展望室に向かって行った。

「え?え?」

鯨人と鮎子は、「水平線」という曲を必死に検索して、自分たちの失敗を自覚した。


「去年、蒔絵がよく口ずさんでいた曲だから、好きな曲のかと思っていた」

「東京だけじゃなくて、千葉もインターハイ欠場県だったんだね。蒔絵を見かけて、急に思いついた作戦としては、最高だと思っていたんだけれど・・・。私達やらかしちゃったね」


 しかし、鯨人は大きく息を吸い込んで、短く息を吐いた。鯨人が、ピンチを迎えた時の集中法だった。

「いや、まだ、逆転のチャンスはある」

「まあね。人の彼女を横取りするには、このくらいのタフさがないとね」

「何言っているんだ。鮎子だって、蒔絵が欲しいんだろう?」

「勿論、更紗にはもったいなかったパートナーだもん。このチャンスは逃がさないわ」



 その頃、蒔絵と銀河は、北展望室で、東京駅以南の惨状に目を奪われていた。

「確かに、津波や火災の被害は大きいけれど、無事だった北部地域や都下の高校生もインターハイ行けなかったんだろう?一律に出場辞退とか辞めて欲しいよな」

「そうだね。来年頑張ろう。うちら1年だし」

さばさばした蒔絵を見ていると、うじうじした自分が嫌になる。ただ、銀河が、そうしているのは別の理由もあった。


「しかし、蒔絵さんはモテますね。今日も告白されましたね」

「何?その丁寧語。焼いてくれるなら有り難いんですが、あれは、ダブルス組んで欲しいというアピールじゃないの?」

「まあ、それもあるんだろうけれど」

その話題から逃げたくなって、銀河は、スカイツリーの奥の富士山を探した。


「ん?何を探しているの?」

「夏も富士山が見えるといいなと思って」

「あー。冬は雪も積もっているし、空気も乾燥しているから富士山がよく見えるんだっけ?」

「あっ。あれかな?」

銀河は蒔絵の肩に手を置いて、もう片方の腕で富士山の方角を指さした。


「んー。ちょっぴり見えるかな?冬に、お姉ちゃんのところに遊びに来た時に、また、都庁に来て、富士山を見よう」


この約束が果たされることは2度となかった。


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