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28 蒔絵は涕泣した

「夕飯はまだか」。世の男性諸君、この言葉の使い方に気をつけましょう。

 日曜日の朝、蒔絵(まきえ)はいつものように、銀河の家に行くために自宅玄関を開けた。

玄関には「竹の棒」と、スーパーの袋が置いてあり、その中には「茶色のフェイスペイント」と「中学の制服」が入っていた。袋の口には「2,000円は返さなくていい」という紙が、セロハンテープで貼ってあった。


「蒔絵、どうしたの?」

蒔絵は、母親にその袋を見せた。

「これ、玄関に置いてあった。今から行くのに何で置いてあるんだろう」


蒔絵の母、絹子はその袋とメモを見て、少し考えて口を開いた。

「蒔絵、(しばら)く銀河君の家に行くのを止めなさい」

「なんで?」

絹子は、朝、ごみステーションに行く時に、銀河の家から大声で言い争う声を耳にしていた。

(菱巻さんのお宅で、銀河君のことで喧嘩なさっているのね。申し訳なかったわ)


そう考えた絹子は、蒔絵がそこに入っていくのは火に油を注ぐことになるから、蒔絵を止めたのだ。


「だって、今日も紫苑(しおん)お兄ちゃんは、双子の世話を放って、学校に体育祭の練習に行くのよ。銀河1人じゃ困るじゃない」


更紗(さらさ)も朝食に出てきて、2人の言い争いに口を挟んだ。

「蒔絵、あんた、何時から菱巻家の嫁になったの?」

「嫁じゃないけれど、家族同然に育ったんだもん。銀河が困っている時は助けるのが当然じゃない」

「ふーん。家族同然なら、相手を困らせてもいいのかな?私達、夕べ遅かったから何も聞いていないけれど、蒔絵が銀河にどんな()(まま)を言って、あんな状況になったのか聞いていないんだけれど」


「そうね。蒔絵、私達も菱巻さんにどうお詫びをしたらいいか、分からないから、隠さずすべて話なさい」


父親の政成(まさなり)も黙って食卓に来て座った。蒔絵は、政成を見て(へそ)を曲げた。

「お父さんのいる前じゃ話せない」

「蒔絵、私はこの家の家長だ。よそ様のお子さんを危険に(さら)したのが娘なら、謝るのは私の仕事だ。熊に襲われたら、一歩間違えたら死んでいたんだよ」


 初めて見る大人の顔をした父の前で、蒔絵は昨日起こったことを渋々話した。

何度も、絹子が怒鳴ろうとするのを、政成が視線で止めた。


すべての話を終えた後、3人は深いため息をついた。

「100%、蒔絵が悪いじゃない」

更紗が吐き捨てるように言った。


 電話が鳴って、政成が出た。

「はい。昨日はどうもありがとうございました。今日ですか?6:00。我が家は大丈夫ですが、菱巻(ひしまき)さんのお宅は?ああ、そうですか。では、夕方。よろしくお願いします」

 

受話器を置くと、政成は絹子に話しかけた。


「今日6:00現場検証だそうだ。その前に、菱巻さんと学校の方にもお詫びをしに行かないといけないな」


隣の部屋で静かに話を聞いていた穂高(ほだか)が、居間に入ってきた。

「今、田邊先生に電話した。銀河君は、しっかり『自動二輪使用届』を提出しているそうだ」


絹子が穂高に、話が分からないというような顔を見せた

「高校では、自動二輪を在学中に乗るには、届が必要なんだ。仕事や遠距離通学などで使う分には、担任の許可を得るだけで済むんだ。出さずに乗り回せば、生徒指導だな」


「高校生って、バイクに乗っていいの?」

「昔、集団でバイクを乗り回していた時代には、禁止する高校も多かったけれど、津波で電車が使えない今、禁止もできないだろう?」

「蒔絵良かったね。銀河君がしっかりした子で」


更紗が慰めるように言ったが、絹子はそれでも蒔絵がしでかしたことを許せなかった。


「そうね。100均で買い物して、缶詰買って帰るだけだったら、3時には帰って来られたし、危ないこともなかったでしょ?私が、菱巻君のお母さんだったら、蒔絵と付き合うのは()めて欲しいわ」


政成が絹子に諭すように話しかけた。

「お母さん。自分の感情をストレートにぶつけても、蒔絵が傷つくだけだよ。まあ、服を着替えて、お詫びに行こう。蒔絵も制服に着替えなさい。行った先では一言も話すんじゃないよ」



 菱巻家では、茉莉が一人が対応してくれた。

「本当にすいませんね。蒔絵ちゃん、怖かったでしょ?お休みの日は、蒔絵ちゃんも高校生らしい生活がしたいでしょ?双子の世話は『家族』でするから、気を使わなくていいわよ」


 蒔絵は、もう銀河の家で、休日を過ごせないという事実に愕然(がくぜん)とした。そして、それよりも茉莉の目が全く笑っていないことで、「あなたは『家族』でない」と言い渡された気がした。

蒔絵の目からは涙が止めどなくこぼれて、「取り返しのつかないことをした」という後悔の念で押しつぶされそうな気がした。


 3人はその後、校長先生宅に事情を説明しに向かった。蒔絵は両親が、自分のために頭を下げている姿を見て、また涙が溢れてきた。


 高校で体育祭の準備をしていた田邊先生にも、事情説明をした。

「いやぁ。本当に無事で良かったですね。トイレの屋根に登って逃げるなんて、頑張りましたね」

そう言って、田邊先生は蒔絵の頭を撫でようとして、政成の視線を感じて、(おっと、セクハラでしたね)と手を引っ込めた。しかし、蒔絵は誰にでもいいから慰めて欲しかった。



 蒔絵は夕方まで布団を(かぶ)って、起きて来なかった。現場検証のために布団から出てきたが、目は真っ赤に泣きはらしていた。


現場検証は、蒔絵とその両親、銀河と祖父の銀次、茉莉の6人で向かった。

明るい場所で見ると、砕かれた缶詰に、母熊の力の強さがよく分かった。


「菱巻君、この上にどうやって登ったのか、教えてくれる?」

警察官の問いかけに、銀河は、トイレの壁に手をつけて振り返った。

「僕がこうやって立って、鮫島さんが僕の肩を足がかりに、上に登りました」


「じゃあ、その後、君が登ったんだね」

「はい。助走をつけて、ここに手を引っかけて、よじ登りました」

(すご)いね。(ぽっちゃりした見かけによらず)運動神経がいいんだね」

「火事場の馬鹿力です」


 警察官は、鑑識官を呼んだ。

「ここ、血痕があるから」

鑑識は脚立(きゃたつ)を使って、トイレの上の痕跡をすべて記録した。血痕には、熊のものと人間のものがあった。


「菱巻君、手は大丈夫?」

開いた(てのひら)は、コンクリートで(こす)った跡が無数についていた。


「菱巻君、熊はここまで登ってきたの?」

「あー。でも、鼻先を蹴ったら落ちていきました。少し、靴が壊れましたが」

銀河の靴に、ざっくりと熊の爪痕がついていた。


「これ、毎日履いているの?」

「証拠品で持っていかないでください。靴はこれしかないので」


「足首に包帯が巻かれていますね」

「今日、感染症の心配もあるので、救急外来で消毒して貰いました。ちょっと爪で引っかけられました」


「お母様、何針か縫われたのですか?」

「ざっくり肉を持って行かれたので、縫えなかったです。でも傷は表面だけで、筋肉には届いていませんでした」

そういって茉莉は、スマホに保存してある写真を警察官に見せた。


蒔絵は夕べは、暗闇の中、ただ、熊と戦う銀河の背中だけを見ていたので、銀河が怪我したことに気がつかなかった。


女性の鑑識官が、蒔絵に尋ねた。

「この服は、鮫島さんの物ですか?」

子熊2匹のおもちゃとして引き裂かれた服は、何の形をしていたかもう分からないようになっていた。

「はい。昨日買ったカットソーです。体育祭の衣装でした」

「残念でしたね」

監察官の同情に流す涙は、蒔絵にはもう残っていなかった。



 警察官と家族のやりとりを、少し離れたところで見ていた銀次が、大きな声を上げた。

「車に戻ったほうがいい。熊が戻ってきた」


蒔絵と銀河はパトカーに呼び込まれた。

「申し訳ありませんが、この書類にサインをいただけますか。・・・高校1年生なんですね。もっと高学年かと思いました。しっかりしていますね」


「いえ、全然です」

蒔絵と銀河は期せずして、声を合せて答えた。



 政成は、警察車両に会釈をして、ワゴン車をスタートさせた。後方で、乾いたライフルの音が3発聞こえた。


「熊も双子だったね」

そう小さな声で言う蒔絵の頭の上で、銀河の手が開き、そして、静かに握りしめられた。


「未来TEC」のマンション前で、2つの家族は、型どおりの挨拶をして分かれた。

しかし、茉莉と絹子は目配せして、マンションの前の公園で立ち話を始めた。



 絹子と茉莉、そして鉄次は、高校の同級生だった。茉莉はこの鬱憤(うっぷん)を話す相手が欲しかったのだ。特に、鉄次が見知らぬ若い母親に、自腹で物資を与えていたことに、我慢ならなかったのだ。

絹子は、茉莉から鉄次のTVインタビューの話を聞いて、必死で笑いを堪えた。


「本当に笑い事じゃないわよ、息子が死にそうな事件に遭ったっていうのに、父親の鉄次は赤の他人の若奥さんの世話をしているのよ」



「まあ、でも、高校時代から鉄次君は、もてていたからね。紫苑君を色黒にして、マッチョにした感じで、文化祭なんか隣村からも、鉄次目当てに女の子が来ていたよね」

「そうね。それは否定できないけれど、逆境にあんなに弱いとは思わなかったわ。遠洋漁業に出ていた時は金回りも良かったから、少しの贅沢には目をつぶったけれど、『人に使われるのが嫌だ』とか言って船を下りた時から、少しずつ歯車が狂いだしたのよ」


銀河の父鉄次は、数年前に遠洋漁業の船を下り、浜茶屋と釣り船を営業始めたのだ。


「でも、浜茶屋も釣り船も、鉄次君の明るさで、それなりに繁盛していたじゃない」

茉莉は大きく首を振った。

「客が入っても、利益率が悪かったのよ。浜茶屋で出すラーメンも、あんなに贅沢(ぜいたく)な材料使ったら、(うま)いに決まっているじゃない?」


 絹子は、今日は茉莉の苦情をとことん聞いてやろうと心に決めた。

「で?鉄次君はいつ帰ってくるの?」

「夕べ、キャッシュカードを止めたから、そろそろ帰って来るんじゃない?紫苑の進学用に金が貯まって、いつでも引き出せるように定期から普通預金にしたら、50万も引き落として使ったのよ」

「50万?紫苑君、第一志望が東京海洋大学だよね。国立だけれど、50万は初年度納入金丸々亡くなったってことだよね」

「そう、絹子も分かっているだろうけれど、震災の後は、東京の大学に行ってもリモートばかりだから、行ってもしょうがないじゃない。でも、東京海洋大学は寮もあるし、資格も取れるし、実習もできる。我が家にとって、最高の条件なのよ。受かってもお金がなくて入学できないなんて、話にならないじゃない」


「そうか、寮生活なのね。それで、うちの更紗とも、どこか冷めた付き合いなのね」

「そうね。海洋大に入学できれば、遠距離恋愛は必至だからね」



「ところで、銀河君、蒔絵のこと怒っている?」

「違う、違う。ガス欠したり、親に助けを求めたりして、かっこ悪すぎて、しょげているのよ。子どもね」


「なんだ。我が儘すぎて、蒔絵に愛想尽かしたのかと思ったわ」

「そんなことないわ。3月から蒔絵ちゃんのお陰でうちがどれだけ助けられたか。感謝しかしていないわ。ただ、あと少しで鉄次が帰って来るじゃない?離婚騒ぎの中に来て貰っても気を使わせちゃうから、少しの間、家に来ないほうがいいって伝えたけれど、何かまずかった?」

「ありがとうそう言って貰えると、嬉しいわ。じゃあ、銀河君ももう少し、立ち直るのに時間がいるかな?」


 菱巻家の縁側から、義祖父母がなかなか帰って来ない茉莉を心配そうに見ているのが分かる。


「茉莉、お義父さん達が、心配してみているけれど、帰らなくていいの?」

「お義父さん達にも、ちょっと頭にきているのよ。あの2人は、銀河が蒔絵ちゃんとバイクで出かけていったのを知っていたのよ。知らなかったのは私だけ。嫁を馬鹿にするのも大概にして欲しいわ」


「『馬鹿』にはしていないと思うけれど」

絹子のこの一言は、茉莉の怒りに油を注いだ格好になってしまった。


「『馬鹿』にしているわよ。鉄次に『戻って来い』って強く言わないだけでなく、『ボランティアをするなんて偉い』って思っているのよ。

じゃあ、双子の面倒見るかっていうと、お義父さんなんか、夜の授乳はサボるし、お義母さんの見舞いにだって丸1日行っているのよ。それで、帰ってきて、『夕飯はまだか』でしょ?

銀河がいなかったら、私今頃、過労死しているわよ」


「そうだね。今、茉莉が、食堂の買い出しにも行っているんでしょ?」

「だって、業者が配達してくれなくなっちゃったんだもん。月曜朝の分は、日曜夕方買いに行くんだけれど、時間外勤務よね」


茉莉の積もりに積もった怒りは、今や噴火寸前だった。



 軽トラ独特の音が聞こえた。鉄次が乗っている軽トラが、菱巻家の門をくぐっていった。鈴音も一緒に乗っているらしい。

「じゃあ、戦ってくるわ」

「うん。戦死者があまり出ないことを祈るわ」

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