27 母の堪忍袋の緒が切れた
台風二号がやってきましたね。先週の暑さで、梅雨はもう終わったかと思いましたが、まだまだ、じめっとした日が続きます。皆さんも健康には気をつけてください。
「銀河は遅いね」
「2人でデートだから、少し町で遊んでくるのかね」
銀河の祖父母はそんな、脳天気な会話をかわしていた。ちょうど夕方のTVニュースの時間だった。
「ただ今。あれ?銀河はまだ帰って来ないの?家庭科室にも体育館にもいなかったけれどな」
紫苑は、できあがったパフォーマンス衣装を抱えて、高校から帰ってきた。
「ごめ~ん。紫苑帰ってきた?藍を受け取ってくれる?」
母親の茉莉は、双子の入浴の最中だった。
「茉莉さん、次、茜を運ぶわよ」
祖母の英子は、茜の服を脱がして、風呂に運ぼうとしていた。
茜の入浴が終わると、自分の入浴をそそくさと終わらせて、茉莉は台所に入っていった。
「銀河は遅いわね。紫苑、ちょっと夕飯の手伝い手伝って頂戴」
逃げ遅れた紫苑は、渋々、茶の間のテーブルを拭き始めた。
TVでは、関東甲信越ニュースが始まっていた。
「あら、山の方で、熊が出没ですって、お義父さんが今日のうちに、缶詰買ってきてくれていて助かったわ。お義父さん、買ってきた鯖缶はどこに置いたの?」
暫く沈黙があった後、銀次が、茉莉の方を向いて、急に謝りだした。
「茉莉さん。実は、今日の買い出しは、銀河に頼んだんだ。体育祭の買い出しがあるから、町に行くって言うから・・・」
「え?じゃあ、銀河はまだ帰ってきてないの?」
祖母の英子も、肩を落として、茉莉に謝り始めた。
「実は、朝、銀河が出かける時に、ちょうど蒔絵ちゃんがやってきて・・・」
「2人で行ったんですか?それは、鮫島さんにお伝えしてあるんですか?」
紫苑が楽しそうに嘴を挟んだ。
「蒔絵ちゃんが、親に言ったら反対されることを、報告するとは思わないな」
茉莉は、静かに味噌汁のガスを止めて、スマホを取った。
「警察に電話するのかい?まだ、7時前だよ」
銀次に茉莉は、般若のような顔を向けた。
「よそのお嬢さんを連れて行って、何かあったらどうするんですか?」
母親の怒りを前に、首をすくめていた紫苑が、突然声を上げた。
「あれ?あれって、お父さんじゃない?」
TVでは、「震災の後、3ヶ月間ボランティアを続ける菱巻鉄次さん」というテロップがついて、3ヶ月間、行方不明だった鉄次がインタビューを受けていた。
「ご自宅の浜茶屋も船も流されたのに、東京でボランティアをなさっているのはなぜですか」
「いやぁ。うちの村は、住居や人の被害がなかったんだが、東京では、亡くなった方も多いし、家が壊れている人も多い。災害関連ゴミを捨てるのにも、軽トラが少ないって言うので、少しでも役に立てればと思って、ボランティアを続けているんだ」
「では、銀次さんに助けられたという方のインタビューを」
赤ちゃん連れの若い女性がマイクを向けられた。
「銀次さんには本当に感謝しています。ミルクもおむつも自腹で差し入れてくださって、本当に助かっています」
インタビュアーはマイクを銀次に向けた。
「赤ちゃん連れの女性に、手助けするのは、どうしてでしょうか?」
「うちの娘も、3月に双子を産みまして、赤ちゃんは実家に避難させていますが、それができない女性を見ると、孫のことを思って、つい援助してしまうのです」
「はあー?」
銀次も英子も紫苑も、その声の持ち主を怖くて見ることができなかった。
「紫苑の進学用に解約した定期預金が、最近、どんどん減っていたのは、こういうことだったのね。お義父さん、鉄次さんをすぐ連れ戻してください。離婚届にサインをさせます。だいたい、あの人が軽トラを持っていかなかったら、銀河もバイクを使って町になんか行かなかったのに・・・」
そこに銀河から電話がかかってこなかったら、何が起こったか、菱巻家の家族は考えたくなかった。
その頃、銀河と蒔絵は、廃業したガソリンスタンドの、コンクリ仕様のトイレの屋根に避難していた。熊の親子が、バイクの側で、買ってきたハムを食い散らかしていた。
ハムを食べ終わると、熊は、缶詰を力任せにたたき壊し、中の鯖やシーチキンを食べ始めた。
「銀河、熊って木登りできるんだよね」
「しっ。車の音が聞こえる」
パトカーと見慣れたワゴン車が、百葉村の方向からライトを煌々とつけて、ガソリンスタンドに向かってきた。
ワゴン車とパトカーが近寄ると、母熊と子熊は蜘蛛の子を散らすように、山に逃げていった。バイクの周りには、熊が食い散らかした食べ物と、蒔絵の新しい服がひきちぎられて散乱していた。
現場検証は明日以降に回すと言うことで、銀河と蒔絵は、ワゴン車で百葉村に帰ることができた。
車内で茉莉は、蒔絵の父親に何度も謝罪をしていた・
「鮫島さん。ご心配おかけしました。蒔絵ちゃんは、無事発見されました。今ご自宅にお送りします。本当に、この度はうちの銀河が、大変なことをしでかしまして、なんとお詫びを申しあげたらいいか・・・」
蒔絵が運転席の方に身を乗り出しながら、茉莉に話しかけた。
「おばさん、すいません。銀河は全然悪くないんです。私が無理矢理ついっていったの。早く帰ろうって言う銀河を引き止めたのも私。銀河に迷惑をかけてばっかりで、お金まで借りて自分の服を買って、・・・。本当にごめんなさい。銀河を怒らないでください」
「蒔絵ちゃん。言い出したのはあなたでも、それを断れなかった銀河が悪いんです。夜、山道を帰ることの危険性を知っていながら、暗くなって帰ったのも、ガソリンを適切に補充できなかったのも、銀河が悪いんです」
銀河は、2人の会話を人ごとのようにボーッと聞いていた。銀河は後部座席に詰め込んだバイクを両手で押さえながら、ぼんやり正面の一点を見つめていた。
銀河の眼鏡には、時折、すれ違う車のライトが映った。
はぁー
蒔絵は、銀河の深いため息を聞き取ってしまった。
そのため息の音は、蒔絵の心に澱のように沈んでいった。