18 紫苑は体験学習をした
紫苑と更紗が、多分不通の高校生なんだと思いますが・・・・。
1週間の蒔絵の不在は、紫苑の生活を大きく狂わせた。藍を抱いて登下校するだけでなく、土日は、銀河と2人で、子守を含めて家の仕事をしなければならなかったからだ。
土曜日の今日は、祖父の銀次が、朝早くから、祖母の見舞いと畑仕事だと行って、家を出て行った。昭和の男である。
頼みの綱の銀河も、買い物の手伝いついでに、「今日は蒔絵の分のガットも張りに、スポーツ屋に行く」と言って、母親について行った。
一応、家事の流れについては、銀河が書いてくれたが、朝8時のゴミ捨てから始まって、家族全員の洗濯、家の掃除、夕飯の食事のしたく、それに加えて、双子のミルクとおむつ替え・・・。気が遠くなりそうだった。
紫苑は、最後の手段で、更紗に電話をした。
「更紗、今日、家で中間テストの勉強しない?」
「私、兄妹の分も、お昼ご飯作らないといけないんだ。家族の洗濯もしないといけないし・・・。勉強なら、紫苑君が家に来ない?」
「実は、銀河も含めて、家に誰もいないから家を空けられないんだ」
「わかった。私に家事をさせたいんでしょ?無理、無理」
「せめて、夕飯の支度でも手伝って貰えないかと・・・」
「おばさんに、何か出来合いのものを、買ってきて貰えばいいじゃない」
「母さん達は町で食べてくるんだけれど、祖父ちゃんの分は、俺が作らないといけないんだ」
「はー。お祖父ちゃんは、酒のつまみでしょ?冷蔵庫の中のものを出せばいいじゃない」
「例えば?」
「私は、蒔絵じゃないんだから、菱巻家の冷蔵庫の中身は知らないよ。アドバイスなら、銀河に聞けばいいじゃない」
そう言うと、更紗は電話を切ってしまった。蒔絵という戦力がない鮫島家も、実は猫の手も借りたい状態だった。町に両親が買い出しに行ってしまい、何もしないでゴロゴロしている穂高に苛ついていた更紗は、他人の家事をする余裕などなかった。
部屋からトイレに出てきた蒔絵が、更紗に声をかけた。
「誰から電話?随分と怒っていたみたいだけれど」
「紫苑から!銀河がいないから、家事を手伝って欲しいって」
「行ってあげれば?私、もう、うちの洗濯くらいできるよ。お昼も適当に食べるし・・・」
更紗が、携帯の着信を見ると、「洗剤ってどのくらい入れるの?」とメッセージが入っている。更紗は黙って、蒔絵に画面を見せた。
「お姉ちゃん。これは行ったほうがいいよ。このレベルじゃ、赤ちゃんが死んじゃうかも」
「そんな人いる?因みに、お祖父ちゃんの夕飯作るとしたら、蒔絵なら何を作る?」
蒔絵は、菱巻家の冷蔵庫を思い出してみた。
「うーん。そうだな。豆腐や納豆、あと、お祖父ちゃんがお気に入りの竹輪は、あそこの家には常備されているね」
「それだけ?」
「豆腐は梅干しと鰹節を混ぜて叩いたものを乗せればいいでしょ?庭の畑から紫蘇を取ってきて、下に敷いてもいいし。納豆は油揚の上に乗せて焼けばいいし、竹輪にチーズや胡瓜を入れて、オーブントースターで、少し温めてもいいね」
「竹輪だったら、人参を入れるのもいいね」
「お祖父ちゃんは歯が悪いから、人参入れるなら茹でてから入れないとね・・・」
「蒔絵、いつ菱巻家にお嫁に行ったの?」
「私は赤ちゃんを見ているだけだよ。夕飯を作るのは、銀河だから。たまに少し摘まんでくることもあるけれど」
「銀河って、本当に何でもできるね」
「末っ子だから、お祖母ちゃんやお母さんにくっついて、よく台所で料理の手伝いしていたらしいよ」
「穂高お兄ちゃんもそうだけれど、『総領の甚六』とはよく言ったもんだね。長男は全く家事をしないよね」
「でも、更紗は『顔がいいから、紫苑君が好き』って言ったじゃない」
「観賞用にはいいんだけれど、生活能力が低すぎて、将来が不安になる」
「1つずつ教えていけばいいじゃない」
そう言われたが、更紗も人に教えるほど上手くはない。
「蒔絵も、一緒に行こう。蒔絵は指示するだけでいいから」
「この顔で?まだ、顔が腫れているんだけれど。それに、家の洗濯やお兄ちゃんのご飯は?」
「お兄ちゃんにやらせる。紫苑は蒔絵の顔に文句なんか言わないから」
結構失礼なことを言われたようだが、蒔絵も双子が心配なので,重い腰を上げた。
兄の穂高は、意外と簡単に2人の外出を許可してくれた。
「洗濯だろう?ジェルボール入れればいいから、大丈夫。昼飯はカップラーメン食うからいいよ」
そう言って、姉妹の背中を押してくれた。
菱巻家の玄関を入ると、紫苑が哺乳瓶を持って半泣きの顔で座り込んでいた。そのそばでは、双子が火がついたように泣いていた。
「紫苑お兄ちゃん、どうしたの?」
「双子が飲んでくれないんだ」
蒔絵は、紫苑の手から哺乳瓶を取るなり、大きなため息をついた。
「哺乳瓶冷ましましたか?」
「え?」
台所に行くと、沸騰したお湯が入った薬缶があった。
「もう口を火傷して、飲んでくれないかも知れないけれど、一応作り方教えるね」
紫苑も更紗も、興味津々で台所に入ってきた。
「まず、薬缶じゃなくてお湯は、この細い注ぎ口の電気ケトルを使うの」
「これは珈琲を入れる用じゃないの?」
出産祝いに、鈴音が友人に貰ったケトルだが、紫苑はいつも自分がコ-ヒーを入れる時に使っていた。
「これは、80度に温度設定ができて、細口なので、哺乳瓶に注ぎやすい」
そういって、水びだしの台所を見つめた。薬缶から沸騰したお湯を注いだ時こぼしたようだ。
「キューブは生後2ヶ月で4個、缶の後ろに表が書いてあるんだよ。それから、紫苑お兄ちゃんは、多胎児用子育てアプリを、スマホに入れたよね」
紫苑は慌てて、ポケットからスマホを取りだした。田邊先生が作ってくれたアプリがそこに入っていた。
「藍 6時160cc。茜 6時150cc」と、最後に銀河が入力したデータが入っていた。
「茜ちゃんは少し飲み残すけれど、残したらそれは捨ててね。そして、80度のお湯を入れたら、流水で冷ます」
「えー。そんなことは、教えて貰わないと分からない」
抗議する紫苑に、蒔絵は冷たかった。
「紫苑お兄ちゃんは、100度の水をストローで飲める?」
しばしの沈黙の後、流水の下で振っていた哺乳瓶を、蒔絵は自分の手首より少し上の部分にかざし、1滴ミルクをこぼした。
首を捻って、再度ミルクをこぼした蒔絵は、そのミルクを紫苑と更紗の上腕の内側に垂らした。
「このくらいの温度。覚えて。はい。2人とも、ミルクあげる体勢になって、その後のことも考えて、ガーゼやタオルは自分の側に置いて」
蒔絵は、抱く姿勢、哺乳瓶の角度、くわえる乳首の量など細かく指摘した。
「藍は、熱さにびっくりして泣いていたんだね。火傷はしなかったみたい。美味しそうに飲んでいる」
「更紗、こんなに泡が出ると、空気も一緒に飲んじゃうよ」
「もう飲まないみたい」
「余ったら、藍に飲ませるか」
「止めよう。いくら双子でもシェアさせない。病気もシェアしちゃうから。最後に、ゲップをさせて。特に藍は急いで飲むので、吐き戻しが多いから、肩にタオルを掛けたほうがいいよ。更紗は、茜ちゃんの口もふいてあげて、ミルクでかぶれるから」
藍は盛大に、茜は遠慮がちにゲップをした。
「じゃあ、哺乳瓶を洗うから双子をベッドにおいて。まだ吐くかも知れないから、顔は少し横に向けておこう」
台所に戻ると、蒔絵は電子レンジの上から、哺乳瓶消毒用のケースを取りだした。
「あー、これは、哺乳瓶を消毒するために使うのか」
(紫苑お兄ちゃんは、何にも見ていないんだ。子育ては人ごとだったんだね)
「そうです。使い終わった哺乳瓶は、この洗剤と哺乳瓶用ブラシで軽く洗ったら、このケースに入れて600w3分。チンって鳴ったらそのままレンジの中で冷ます」
「このブラシ、出しにくいところにおいてあるね」
「お祖父ちゃんが、ビールのコップ洗うのに使っちゃうから、隠してあるんだって」
もう一度、双子を確認すると、案の定、藍が盛大にミルクを戻していた。
「あー。もう一回着替えかな?」
蒔絵は慣れた手つきで、ベビーベッドの脇の赤ちゃん用のカラーボックスから、青い着替えを取りだした。
「小さい頃から、男の子色を着せるんだね」
「そういうわけじゃなくて、同じ子に2回おむつ替えたりしないように、こうしているんだ。まあ、区別だね。
また、『藍』には青系、『茜』は赤系を着せて、名前も覚えて貰うんだって、鈴音さんが言っていた」
「鈴音さんは、こんなに多くの人に世話をして貰うことを、予感していたみたいだね」
双子が、大人しくなったので、蒔絵は紫苑と更紗を連れて、洗濯機置き場に連れて行った。
「更紗、吐き戻した服は洗面台で軽く水洗いして。紫苑お兄ちゃんは、赤ちゃんの洗濯物やタオルをこっちの籠に分けて出して」
「一緒に洗っちゃ・・・駄目だよね」
紫苑はスマートな顔に似合わず、横着な男だった。
「赤ちゃん用の洗剤がおいてあるのが、見えないかな?赤ちゃんは柔軟剤も使わないから」
紫苑と更紗は顔を見合わせた。
洗濯機が回っている間、3人は中間考査の勉強を始めた。
「ミルクの間隔って?4時間だよね。次は、2時?」
紫苑の質問に、問題集を見ながら、蒔絵は答えた。
「ミルクは、2時、6時、10時の組み合わせを午前午後、計6回。紫苑のお兄ちゃん。子育てアプリに10時の分は入力した?」
「これから入れる。藍は160cc飲んだけれど。でも吐いたよね、それから、茜は少し残したよね」
「吐いた分は考慮しなくいいの。茜は1目盛り残したから150ccかな?厳密でなくていいよ」
そういうと、蒔絵はすっと立ち上がった。
「洗濯機のブザー鳴ったよね。紫苑お兄ちゃん来て」
紫苑は、大人の洗濯物の洗い方を習った。洗剤や柔軟剤の量など知らないことばかりだ。
「まあ、家はもう面倒だから、ジェルボールなんだけれどね」
「いいね」
「でも、蛍光漂白剤が入っているから、黒い服は洗っているうちに白くなるから、大切な黒い服は・・・」
紫苑の頭脳はもう、記憶容量オーバーで動作不良を起こしていた。
「さて、赤ちゃん用の洗濯物を干しに行こう」
「干すのは大人と一緒にまとめてやったら?」
「子供の服はすぐ乾くから、早く干そう。着替えだってそんなにないでしょ」
洗濯物の干し方一つでも知らないことばかりだった。
風が抜けるように並行に洗濯物を干していく。肩が出ないように、ハンガーは服に応じて使い分ける。バスタオルは半分に折って干さず、1枚広げる形で風に平行に干すなど。
「ねえ、更紗、うちの洗濯物はどうなっているだろうね」
「穂高お兄ちゃんもポンコツだからね。ぐちゃぐちゃのまま干して、ハンガーの後や、洗濯挟みの跡が肩に付いている洗濯物になっているかな?」
「ふふん。更紗は甘いな。私は、終わった洗濯物が、干されていないことに賭けるよ」
「『鮫島先生』はそこまでボケていないと思うよ」
姉妹の予想を上回るほど、兄はポンコツなのだが・・・。
12時には、3人で仲良く昼食を作った。菱巻家の食品庫から、冷や麦を見つけた時は、3人ともテンションが上がった。
「じゃんけんして、色つきの冷や麦を奪い合ったよね」
「そう、蒔絵が負けて1本も冷や麦を食べられなくて、泣いたことあったよね」
「あったっけ?」
「銀河がすぐ、色つきの麺を分けていたね」
3人は銀河の話で盛り上がった。
「ところでさ、最近銀河がもてているって知っている?」
「紫苑もその話聞いたの?3年の女子の間で、わざわざ、学食行くついでに、高1普通クラスを覗いて来る子いるんだよ」
蒔絵は、顔の包帯で表情がよく分からなかったが、少し不機嫌な声を上げた。
「本当は赤ちゃんが見たいだけじゃないの?」
「違うんだな。『お姫様抱っこ願望』っていうか。蒔絵ちゃんを軽々と抱いて、救急車に乗ったのを見たので、『私も怪我をしてお姫様抱っこして欲しいわ』って思ったらしいの」
「ふん。じゃあ鼻を折ってみればいいのに」
「まあまあ、銀河はこれっぽっちも浮気しないから、蒔絵ちゃんは安心しなよ」
紫苑の言葉は、蒔絵の不機嫌に一層、拍車をかけた。
「『浮気』も何も、銀河は私のこと、どうも思っていないから」
更紗はここぞとばかりに妹の恋バナに食い付いた。
「じゃあ、蒔絵は銀河のことどう思っているの?」
蒔絵はなるべく冷静を装って答えた。
「家族みたいなものよ」
「恋人は通り越しちゃったの?」
「もう帰る」
紫苑と更紗は、妹を追い詰めすぎたことを後悔した。
それでも2人で協力して夕食までどうにか作って、少し、家事に自信を持てるようになった。
蒔絵は帰宅した後、スイッチすら入っていない洗濯機を発見して、全員の予想が裏切られたことを知り、自宅でも洗濯する羽目になった。