118 若きお父さんの悩み
鮫島家の一堂が、真珠に会うことができたのは、輸血が終わった蒔絵が、病室に戻ってからだった。
「穂高お兄ちゃん、輸血してくれたんだって?ありがとう」
「血液型がAB型で良かったよ。顔色も戻ったな」
出産後で、顔に疲労の色が浮かんでいる蒔絵に、兄は優しかった。
しかし、姉はいつも通りだった。
「赤ちゃんのお名前は、真珠ちゃんって言うんだって?でも、すごい毛深いね」
「こら、更紗」
絹子が無神経な更紗を咎めた。
「蒔絵も更紗も生まれた時は、背中いっぱい毛が生えていたわよ。おでこや顔も毛むくじゃらだったし、顔は猿みたいだったのよ。でも、2人とも毛深いから、まつ毛は長いし,髪もふさふさなんじゃない」
「毛深いのって困るのよね。いつも脱毛しないといけないから」
部屋の隅の椅子に座っていた銀河は、絹子の言葉を聞いてホッとした。自分の毛深さが、娘に遺伝したのかと思って責任を感じていたのだ。
更紗は絹子に尋ねた。
「お母さん。私たち、生まれた時、肌の色は黒かった?」
父の政成がそれに答えた。
「色はそんなに黒くはなかったよ。でも、お父さんの九州の親族には,このくらい色が黒い子もいるし、隔世遺伝じゃないか?」
一族が集まって、経験談を話してくれるのはありがたい。
更紗は、真珠をゆっくり抱き上げた。
「ちっちゃいね。まつ毛も長いし、目がぱっちりしているとこは蒔絵に似ているかな?鼻は、すっと高くて銀河に似ている?」
蒔絵がブーっと膨れた。
「どうせ私は団子っ鼻です。ねえ、銀河、真珠はお腹の中ででんぐり返ししたり、うんち飲んだり、大変な子だったんだって?」
「回転し過ぎて、臍の緒を体に巻きつけたから、なかなか産道を降りて来れなかったんだ。破水したことに、圭子さんが気づいてくれなければ,大変だったんだよ」
「破水したのを、おしっこを漏らしたと勘違いしたのよね。更紗はそういう失敗しないで」
「勉強になりましたぁ」
冗談を言い合う姉妹を、銀河は目を細めて眺めた。
銀河はどちらの命を選ぶか、後閑医師に尋ねられたことは、話さないでおこうと思った。
「でもさ、無事に2週間も早く産まれたから,銀河は鯨人と一緒に、安心してインターハイに行けるね。親孝行だ」
蒔絵の想定外の言葉に、銀河は慌てた。
「え?これから俺は育休なんだけれど」
「何言っているの?帝王切開だと10日は入院するんだから、私と真珠が帰って、楽に暮らせるように準備したら、後は銀河にすることは無いんだよ」
(え?毎日、お見舞いとか‥いらないの?)
銀河が、トボトボ病室を出ると、白衣を脱いだ圭子に会った。
「銀河君ですね。おめでとうございます。元気な赤ちゃんでしたね」
「あっ。圭子さん。本当にありがとうございました。俺、狼狽えることしか出来なくて、パパ失格でした」
圭子は優しく微笑んだ。
「最初から、立派なお父さんはいませんよ。銀河さんも今日がお父さんの1日目ですよ」
まだ、銀河を放って置けない状態だと感じた圭子は、顔を上げて、紫苑達を見た。
紫苑は「もっと話を聞いてやってください。待っていますから」と口の形だけで答えた。
圭子は病院の廊下のベンチに、銀河と一緒に座った。
絹子達は空気を察して、静かに自宅に帰って行った。
「急に手術が入ってびっくりしたわね。でも、破水って本人でもよくわからないのよ。別にぽんって音がするわけじゃないから」
「でも。蒔絵は俺のこと、『頼りない』と思ったはずです。入院している間はすること無いって」
大きな体を丸めた銀河は、しょぼくれたくまのプーさんのようだと、少し離れたところで、銀河達の話を聞いていた更紗は思った。
銀河は珍しく饒舌だった。誰かに気持ちを聞いてもらわないと、居ても立っても居られないようだ。紫苑は銀河にはそんな面もあるのだと、弟に対する認識を改めた。
「圭子さん。蒔絵が入院している10日間、俺は何をしたらいいんですか?」
「まず、部屋の掃除と寝具の洗濯をしたら、赤ちゃんグッズを使いやすいところにまとめて置いたら?ベビーベッドは用意してあるの?」
「はい。姉ちゃんのところのベットを借りました」
銀河はベビーベットの写真を、圭子に見せた。キャスターがついた小型のベッドだった。
「これなら、家事をしている側に運んで、泣いたらすぐあやせるんで」
「お姉さんのところからお下がりが、借りられるなら、準備はほぼ完璧ね。銀河君は、勉強や部活動は夏休みだから、無いのかな?」
「あさってから、インターハイに行くんです。本当は予定日に被りそうで、辞退しようか悩んでいたんです。今年は会場が茨城県なんで、なんかあったら帰れるかとギリギリまで、辞退を待っていたんです」
「あら、ちょうどいいわね。予定日前に赤ちゃんが出て来てくれて、いい子ね。親に気を使ってくれたのね。いい成績を上げたら、真珠ちゃんの誕生祝いになるかしら?」
銀河は、蒔絵の意図がやっとわかった。試合に専念して欲しかったのだ。
「はい。金のメダルをプレゼントします」
そう言うと、銀河はすくっと立ち上がって、病院を出て行った。病院を出るとすぐに、顧問の田邊先生と鯨人に、蒔絵の出産報告をして、インターハイに出場することを告げた。
離れて座っていた紫苑は、圭子に近づいてお礼を述べた。
「ありがとうございました。弟はいつもクールで、あんなに取り乱すこと無いんですよ。人に悩みも言わないし‥」
「紫苑君も、お父さんとしての悩みがあるでしょう?兄弟で共有なさったら?」
更紗が、紫苑の顔を伺った。更紗は、紫苑が父親として悩んでいるなどと、考えたこともなかったからだ。
「あの、銀河は生まれた子供に毎日会って、子供と一緒に成長していくことが出来ますよね。でも、自分は週に1回しか会えないんです。ちゃんと成長できますか?」
圭子はにっこり笑った。
「それは里帰り出産するお宅のご主人が、皆さん、悩むところよね」
更紗が紫苑の顔を見た。
「大丈夫よ。鈴音お姉ちゃんなんて、半年も双子と会っていなかったけれど、ちゃんとお母さんしているじゃない?」
更紗は、鈴音が双子の世話を苦労して始めたことを、蒔絵や銀河ほど理解していなかった。
圭子は2人の表情を交互に見た。
「『ちゃんと』なんて、考えるから辛くなるのよ。今回だって、兄弟家族、力を合わせて乗り越えられたじゃない?」
紫苑が辛そうな顔をした。
「更紗は松本で一人ですよ」
「あら?私も更紗さんのお友達もいるじゃない。普通の初産なら陣痛がきて2日くらいかかるから、紫苑君が車で来ても間に合うわよ。なんと言っても大学には医学部があるんだから、スタッフもいっぱいいるし、こんなに安全な場所で産めるなんて、今時珍しいわ」
「そうよね。医学部があるんだもん、心配すること無いじゃない」
更紗は、紫苑の肩を叩いて、再び蒔絵の病室に向かった。
「マンションに帰る前にもう一度、真珠ちゃんを見てくるね」
更紗が病室に入ると、紫苑は声をひそめて、圭子に尋ねた。
「あのもし、子供に障害があったら、いえ圭子さんのことを言っているんじゃないんです。身体や精神に障害があったら、更紗を支える自信がないんです」
圭子は自分が生まれた時の、親の気持ちを考えてみた。
圭子の父親は、圭子に十分な教育を与え、立派な家を残してくれた。金が目当てでも夫も探してくれた。
母は辛かったろう。圭子の顔のアザは全て産んだ母のせいだと、気にしていたようだ。次に子供を産むことが嫌になったのか、子供は圭子一人だった。一緒に歩くことは嫌がったが、料理や家事は全て、お手伝いさんに頼まず、自分で圭子に教えてくれた。
両親とも多少不器用ではあるが、圭子の将来のことを考えて、手を尽くしてくれたことが、今になるとわかる。
「うちの親は、昔のことだから、私のために色々苦しんだと思うわ。でも、助産師になることも反対しなかったし、たくさんの習い事も習わせてくれた。今考えれば、両親なりに私のことを考えてくれたわ。もし、お子さんに障害があっても、紫苑君達なりに頑張ればいいじゃない?子育てに正解ってないのだから」
「2人でできることをやって、できないことは、人に助けて貰えばいいんじゃない?更紗さんなら、子育て仲間を、どんどん作れそうじゃない?」
紫苑はふと、最近の更紗は社交的であることに気がついた。蒔絵は以前からそうだったが、更紗はそこまで積極的に人と関わる方ではなかった。もしかして、子供を守るための人脈を意識して作っているのではないか?
更紗が子供のために人脈を作ろうとするなら、自分も作るべきじゃないか?銀河は社交性に欠けるところがあるが、そこだけは自分の方が得意なのかもしれない。
更紗達が帰った後、穂高は、病院の3階にある夫婦の部屋に帰った。
部屋は真っ暗だったが、布団が膨らんでいた。
「佳美?具合はどう?蒔絵も赤ちゃんも、無事だったよ。圭子さんも含めて、家族全員帰って行ったよ」
佳美は、布団から小さな手を出してきた。穂高が手を握ると、佳美はそれを布団の中に引き込んで、自分の頬にあてた。蒔絵の頬は涙で濡れていた。
「具合が悪い?吐き気がする?」
佳美からの返事がないので、穂高は服のまま布団に潜り込んだ。佳美は白衣のままだった。
「女が泣いている時は、何も言わずに頭を撫でてやれ。下手なことを言うとぶち切れるから」
大学時代の先輩の教え通り、佳美を胸に抱え込んで、ゆっくり頭を撫でた。
「駄目なの。助産師失格なの。私」
「どうして?」
「蒔絵ちゃんの赤ちゃん、死んでいると思ったの。赤ちゃんの死体って思ったら、吐き気が止まらなくなって」
「妊娠中で、体調が悪いんだから、しょうがないよ」
それでも佳美は泣き続けた。
穂高は途方に暮れたが、しょうがないので、泣き止むまで頭を撫で続けようと決めた。
妹達よりはるかに小さい佳美を抱いていると、昔の記憶が蘇ってきた。
穂高は、自分の両足の間に、佳美の両足を挟み込んだ。
佳美が怪訝な顔をして、下から穂高を見上げた。
「何?どうして、足を挟んだの?」
穂高は、見上げた佳美の額に、優しく唇をつけて笑った。
「足ぱっくん」
「何それ?」
「俺さ、妹と10歳くらい歳が離れているだろう?親が、仕事で帰りが遅い時なんか、よく蒔絵が布団に潜ってくることがあったんだ」
「可愛い」
「そう、あの頃はね。『怖い夢見た』って布団に入って来て、『足ぱっくんして』って言うんだ」
「更紗ちゃんは、来なかったの?」
「あいつは、寝つきがいいんだ」
「じゃあ、蒔絵ちゃんが銀河君と結婚して、寂しい?」
「小学校に上がった時にはもう、銀河が抱き枕になったから、俺の役目は終わったよ」
「じゃあ、この抱き枕は私専用になったのね」
穂高も、白衣の抱き枕は、悪くないと思った。
3人のお父さん、それぞれの悩みでした。穂高は悩んでなかったって?まあ、お気になさらず。