114 旅は道連れ世は情け
1週間後、紫苑は再び、松本に向かい、更紗の引越しを手伝った。荷物を詰めるのは、桜子と菊子が手伝ってくれた。
「もう、諏訪浩一郎は、食堂に来なくなったのに、引っ越しちゃうんだ」
菊子はがっかりした。学部の違う2人の接点は寮しかなかったからだ。
「大丈夫だよ。下宿先の大家さん優しい人だから、いつでも遊びに来て」
桜子は相変わらず思ったことを、すぐ口に出してしまう。
「でもさ、下宿先って、『泣いた赤鬼の館』なんでしょ?」
いや、名前が違う・・・。
「こら!顔に生まれつきの血管腫があるだけで、本当に上品で素敵な方なの。遊びに来て話をしたら分かるわよ」
諏訪圭子の実家は、代々伝わる名家で、圭子が助産師として働かなくても、充分に暮らしていけるほどの援助を実家から貰っていた。現在住んでいる家も、結婚する時に実家が所有する邸宅の一つを改装したもので、広い庭に面する縁側が魅力的だ。
この家の贅沢なところは、どの部屋も趣が違っているところだ。無くなった圭子の夫は、大学から中々帰らず、帰っても、台所で夕飯を食べるとすぐ、自分の寝室に入ってしまったので、圭子は、自分の好きなように自宅を改築したのだ。
更紗は最初、どの部屋でも使っていいといわれたが、赤ちゃんを育てることを考えると、家具の少ない1階の洋間を使わせて貰うことにした。そこは、たまにしか帰って来ない圭子の夫が使っていた部屋で、トイレも小さなキッチンもついていた。
「変な部屋でしょ?夫は、なるべく私の顔を見たくないので、ここで生活が完結するようにしたのよ」
更紗は、あっさり言い放つ圭子の目の奥に、深い悲しみを見て取った
「でも、それだったら、どうしてお2人は結婚したのですか?」
「夫は貧乏医学生で、私の持参金が目当てで結婚したの。その金で、大学も卒業したのよ。娘が1人生まれたら、自分の責任は果たしたとばかりに、ほとんど自宅に戻らなくなったわ」
更紗は、圭子の手を静かに握った。圭子は久し振りに人のぬくもりを感じた。
「綺麗な手ですね」
「ほとんど、日に当たらないからね。でも、私は助産師として働いていた頃の、ざらざらの手が好きだったわ」
そこへ、軽トラから更紗の荷物を運び込んだ紫苑が入ってきた。
「荷物運んだんだけれど、荷ほどきするから、来てくれる?圭子さんも来て、部屋の様子を見ていただけますか?」
若い2人の邪魔をしたくない圭子は、誘われたことが意外だった。
引越しが終わると、更紗は、大学の年間予定と出産予定日を書いた紙を、圭子に渡した。
圭子は、それを台所の壁に貼り付けた。久し振りに、他人の予定が自宅に飾られた。
「折角引っ越してきてくださったのに、もうそろそろ大学は夏休みなのね」
圭子は丁寧に、玉露を入れて2人に差し出した。
「お茶って、甘いんですね」
「あっそうだわ、玉露には、カフェインが入っていたわね。更紗さんには、麦茶のほうがいいかしら」
「一杯くらい、いいですよ。美味しいですね」
そう言って、更紗は実に美味しそうにお茶を飲み干した。
「そうそう、圭子さん。夏休みの僕たちの予定なんですが、いいですか?」
紫苑に言われて、圭子は小振りの手帳を出した。
「前期試験が終わったら、僕たち、実家に帰る前に、長岡の花火を見に行くんです」
「あら、日本三大花火ね。いいわね」
なかなか花火の日の計画が立たなかった紫苑に、先日、救いの手が差し伸べられたのだ。
それは長岡市内に住む小出闘志という男が、申し出た話だった。
「紫苑、ちょっといいか?お前、長岡の花火の日、暇か?」
ラグビー部の闘志は、紫苑と同じ学科の学生で、ほとんどの授業が一緒だった。そのせいか、学食にもよく連れ立っていく。そんな昼時に、闘志から相談を持ちかけられた。
「暇じゃないな。彼女と一緒に花火を見ようと思っている」
「もうチケット買ったのか?」
「それがさ、チケットもう売れ切れていて、しょうがないから、花火から遠い公園で、見物しようかと考えている」
「彼女は妊娠しているんだろう?公園じゃ暑いぞ。それにまさか、日帰りとかじゃないよな」
「宿も取れなかったからなぁ」
紫苑は、もういい加減手詰まりだったのだ。
「そこでだ。俺の家に、彼女と一緒に泊まらないか?家の庭から花火がものすごく綺麗に見えるんだ。特等席だぜ」
「闘志も、彼女を連れてくるのか?」
「彼女は彼女でも、5歳と3歳な」
「誰の子?」
ラグビー部の闘志は、がっしりした腕で、紫苑の両肩を掴んだ。
「聞いてくれよ。俺の兄ちゃんと義姉さん。2人とも警察官なんだけれど、2日とも、花火の警備に当たっていて、深夜まで帰って来ないんだ。兄ちゃんに至っては、警察署に泊まるって言うんだぜ」
「長岡署の人は8月2日、3日の2日間は、忙しいもんな。じゃあ、その小さい娘達は自宅でお留守番なのか?」
「それで、俺に面倒見ろって言うんだけれど、夕飯食わして、風呂入れて、寝かせろっていうんだぞ。俺1人じゃ、絶対無理だ。だから、紫苑頼む。彼女と一緒に手伝ってくれないか」
「俺達が泊れる部屋ってあるのか?」
「大丈夫。布団は何組もあるし、2日間の飯も出す。と言っても、それも、チビの分も作らなければならないんだが・・・」
紫苑は、その場で更紗に連絡を取った。
「いいんじゃない?蒔絵の出産も、その後すぐだから、そのまま、帰省しちゃえばいいんじゃない?」
そこまでを、紫苑は圭子に話をした。
「花火はいいわねぇ。じゃあ、お盆過ぎまで、こちらには戻らないのね。それなら私も、今年は娘のところに行こうかしら」
「お盆には、この家に親戚の方は集まらないのですか?」
「親戚っていっても来るのは、この家を狙っている諏訪の義弟くらいだけれど、なんか、息子のストーカー事案で、更紗さんとは別の人から訴えられたらしいの。当分、外出できないと思うわよ」
「じゃあ、圭子さんも私達と一緒に花火を見に行きませんか?」
紫苑は、更紗の暴走を聞いて、すぐに、闘志に電話を入れて、許可をもらった。
「小出の家は、圭子さんも泊まっていいって言っていますよ。あー。ちょっと待った更紗、軽トラには2人しか乗れないぞ」
「紫苑君、家の車に乗っていいわよ」
圭子の家にある車は、7人乗りのエルグランドだった。亡くなった夫の趣味は、ドライブだった。
自宅に戻りたくない夫は、エルグランドで車中泊しながら、長期休暇は遠くまでドライブをするのが常だった。いつも女性を伴っていたことは、助手席に長い髪が落ちていたことで、圭子は知っていたが、それを咎めたりはしなかった。
「エルグランドですか・・・。若葉マークの俺には荷が重いな」
「大丈夫よ。いい車は運転も楽よ。車高も高いので視界もいいし・・・」
「じゃあ、お言葉に甘えて車をお借りします。じゃあ、長岡に行った後、圭子さんを、千葉の水野医師のお宅にお送りします」
電車の移動がないことで、圭子はほっと肩の力を抜いた。多くの視線に曝されながら、電車で娘の家に帰ることは、苦痛でしょうがなかったからだ。
「じゃあ、その後、僕たちは百葉LRTで、村に帰ります」
「あら、そのまま百葉村に車に乗っていってもいいわよ。帰りに、迎えに来てくれればいいから」
「そんなに長い間、水野医師のお宅に滞在できるのですか?」
圭子はふと考えた。娘は、産婦人科医なので、長期休暇を取れるはずはない。
娘の家にいても、昼はひとりぼっちだ。
更紗が、そこでまた暴走を始めた。
「私達のマンションに、圭子さんに泊まって貰いましょうよ。水野先生のところで1泊したら、再びお迎えに上がります」
もう、紫苑は諦めの境地になってしまった。折角、2人水入らずで、マンションに泊まれると思ったのに・・・。
「蒔絵の暴走に、銀河もいつもこういう思いをしているんだろうな」
紫苑は初めて、銀河に同情の気持ちを抱いた。
私事ながら、明日から、手術のため一ヶ月ほど入院いたします。病院の電波状況が悪いと、話の更新が滞るかと思い、少し頑張って話を書き進めております。足の手術なので、執筆には不都合がないんですけれど・・。