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113 赤鬼の館

 軽トラを使って、最初に紫苑が松本市を訪れたのは、それから2週間後だった。

一応、軽トラと言ってもクーラーもついているし、雪国でも大丈夫なパートタイム4輪駆動なので、長岡市を走るのには都合が良い。ただ、乗車定員2名なのが、軽トラの欠点だ。

 それに、乗用車とは比較にならないくらいシートが固い。軽トラはやっぱり、荷物運搬用だ。3時間かけて、松本に着いた時は、初めての長距離運転で肩が凝ってしまっただけでなく、当然固いシートで、尻も痛くなってしまった。


 しかし、それをおくびにも出さず、紫苑は学校の駐車場に軽トラを停めて、更紗を待った。


「紫苑く~ん。更紗を待っているの?」

更紗の友人の医学生鵜飼菊子(うかいきくこ)が、紫苑を見つけて走り寄ってきた。待ち合わせの時間になっても更紗がやってこられないのは、また例の医学生につきまとわれているからだ。

「更紗は、また変なやつにつきまとわれているのよ。ああ、着たわ。あいつ、これ見よがしに白衣着たやつ」


 うわさの医学生は、更紗が嫌がるのに、しつこくつきまといながら声を掛けていた。

「ねえ。結婚したなんて嘘だろう?大体そんな安物の指輪じゃ、僕は騙されないよ」


「指輪の価値は値段じゃないの。ああ、紫苑、お待たせ」

更紗は、校外実習の帰りか、運動靴に作業着姿だった。ただ、その長い指には、紫苑とお揃いの指輪が輝いていた。2人の誕生月4月に合わせて、小さなダイヤが入っているところが2人のお気に入りの指輪だった。


「おいおい、車も軽トラじゃないか。更紗を乗せる車じゃないよ。この男、馬鹿じゃないか、更紗、行こう」

 そうやって医学生は、更紗の手首を強引に握って、連れて行こうとした。紫苑はすぐ、男の腕を握ってそれを引き止めようとした。


「悪いが妻に触らないでくれるか?更紗のお腹には赤ちゃんもいるし、何かあったら傷害罪で訴えるぞ」

 男は紫苑が握る力の強さに、更紗の腕を離した。そして紫苑の手から、自分の腕を振り放そうとするが、一見、優男(やさおとこ)に見える紫苑の力は意外に強かった。

「うるさいな。俺の名前は諏訪(すわ)浩一郎(こういちろう)だぞ。諏訪教授の息子なんだ。更紗を退学させるなんて簡単にできるんだぞ」


「ふうん。いいことを聞いた」

紫苑は、左手で、ポケットの中に入れて置いたスマホを取りだした。そこには、今の言葉が録音されていた。それを再生して、周囲で、ことの成り行きを見ていた学生達に聞かせた。

「これって、脅迫ですかね」

「うるさい。そんなもん。何の役にも立たない」

「いや、これから警察に行って、ストーカー被害を出してくるので、立派な証拠だ。そうそう、被害写真も取らないと・・・」


 うっすら赤くなった更紗の腕を、紫苑は写真に収めた。

「暴行だな」

「さあ、更紗、警察に行こう。松本警察署が近くにあったよね。では、お姫様、馬車にお乗りください」

紫苑は、王子様の振りで、軽トラの助手席のドアを開けた。更紗もふざけて答えた。

「まあ、素敵なカボチャの馬車ね。ありがとう」

カボチャの馬車には、買ったばかりの若葉マークがついていた。



 軽トラに乗った更紗は、紫苑をじっと見つめた。

「びっくりした。紫苑もそんな態度を取ることがあるのね。警察に行くのは嘘でしょ?」

「いや、まず、被害届を出しておかないと、ストーカーを繰り返された時、以前から被害があったと強い態度に出られない。それから今日、警察を通じて大学に連絡を入れて貰おう」


「実を言うと、あの人、寮にも入り込んできて、朝食の邪魔をするの」

「寮も安全じゃないんだね。それも警察に説明しよう。警察から、寮の管理者に注意を入れて貰おうか?ごめんね。俺が近くにいられないために不安な思いさせて」


 確かに、紫苑が同じ大学にいたら、ここまでひどい被害は受けなかったかも知れない。しかし、更紗に、それを非難する気は全くなかった。それどころか、慣れない運転で、自分を訪ねてくれる紫苑に、感謝しかなかった。



「そうだ。警察の後は、学生課に行って、氏名と住所変更もしないと」

「紫苑。今日は、土曜日だよ。学生課は休み。明日、私が変更しておくわ。住所もマンションの住所に変えるね。あっ、でも、マンションに手紙が届いても困るかな?」


「俺達のマンションの管理は、蒔絵に頼んであるよ。まだ、マンション見学のニーズもあるから、あの部屋を使って、見学会をすることもあるんだって」

「使用料を取ってくれたら、それも私達の収入になるかな?」

「そうだね。見学会くらいだったら、僕らが夏休みに、使うことも出来るからいいね」

「夏休みかぁ、そうだ。長岡花火の時は、松本まで車で迎えに来てくれる?」


 紫苑は、長岡に行って初めて、長岡花火の規模を知った。周囲のホテルはその期間、軒並(のきな)み満室で、周囲は渋滞で、会場に近づくのは至難の業。そのうえ、花火を見るためには前売りチケットを購入するしかないのだ。

 男子寮に更紗を泊めるわけにいかないので、紫苑は手詰(てづ)まり状態だった。

それでも、当日までにはどうにかしようと、紫苑は考えていた。



 警察に行った後、紫苑達は有料駐車場に車を置いて、更紗が以前から行ってみたいというレストランでランチを食べた。レストランから駐車場まで戻る道は、古い家が連なった住宅街だった。


 今日は6月の最後の日で、昨日までの雨が上がって、道路には初夏の日差しが照りつけて蒸し暑かった。妊婦の更紗は、少し歩くのが辛くなって足を止めた。

「大丈夫?」

「日傘忘れちゃった。このお家の木の陰で少し休ませてもらおう」


 大きなシンボルツリーの日陰で、2人は涼みながら生け垣越しに庭や古い住宅を眺めた。

「紫苑、懐かしいね。縁側(えんがわ)があるわ」

土砂災害で流されてしまった菱巻家にも、広い縁側があって、そこで紫苑達は、近所の子供達と一緒によく遊んでいたものだった。ただ、今の紫苑にとっては辛い思い出になってしまった。

 2人が立った日陰は、アスファルトから暑い熱気が上がってきて、更紗は余計に具合が悪くなってしまった。


「ここは、あまり涼しくないね。しょうがないから、少しずつ駐車場まで歩いて行こう」

振り返ると、そこに初老の女性が立っていた。

「我が()に何かご用ですか?」

その女性は顔半分が赤黒く、少し口元もゆがんでいたが、落ち着いたワンピースを身につけ、白髪(しらが)交じりの髪も上品に一つにまとめていた。


 更紗が(おく)せず応えた。

「ごめんなさい。少し涼ませていただいていました。素敵なお庭ですね」

「お加減が悪いの?」

「いえ、妊娠初期なんで、疲れやすくて」

「まあ、もし良かったら、家で休んで行かれませんか?大分、顔色が悪いわ」


「じゃあ、自分は、駐車場に停めてある車を持ってきていいですか?少し離れたところに停めてあるんです」

 そう言って、紫苑が走り去った後、蒔絵は女性に誘われて、涼しい家に入った。


「申し訳ありません。本当に具合が悪かったので、助かります」

「ごめんなさいね。夫の葬式があったばかりで、まだ、お骨があるんだけれど、この部屋が一番涼しいの」

更紗が通されたのは、縁側に面した仏間だった。初七日が過ぎた後ぐらいなのか、まだ、たくさんの花が飾られていた。


「まあ、大変な時にお伺いしました。ご主人様にお参りしていいですか?」

更紗はすっと仏壇の前に座って、焼香をして、手を合わせた。

「ありがとうございます。今日は、仏様に、水無月を買ってきたの」


「『水無月』ですか?ああ、そうですね。今日は6月30日ですよね」

「あら、お若いのに、和菓子のことをよくご存知ね」

「高校時代、茶道部の先生が、季節のお菓子をよく振る舞って下さったので、聞きかじっただけです。実際に拝見するのは初めてです。6月30日しか食べられない和菓子なんですよね」


 百葉高校の茶道部は部員獲得のために、月に一回、茶道体験会を開催していた。その日は、生徒会の定例会議の日で、紫苑と更紗は、会議後、よく季節の菓子を目当てに茶道部に足を運んだのだった。


「あら、じゃあ、是非ご主人様も一緒に、召し上がっていって下さらない?和菓子屋さんで2つだけ買うなんてことできないんで、ちょうど4つ買ってきてしまったの」

 更紗は「ご主人様」が、紫苑のことを指すと気がついた。少し違和感があった。


 車を取って戻ってきた紫苑は、女性に断りを入れた。

「すいません。ご自宅のお車の前に停めてしまいました。車を動かす時は言ってください。すぐ動かしますから」

「いいのよ。その車は主人のもので、もう誰も乗らないから」


 

 紫苑も一緒に、仏間でゆっくり話しながら、水無月を食べた。


「これが、小百合先生の言っていた水無月ですね。初めて食べました。夏はこういう和菓子が美味しいですね。ああ、申し遅れましたが、僕は長岡技術科学大学1年の菱巻紫苑(ひしまきしおん)と申します」

「私は妻の菱巻更紗(ひしまきさらさ)です。信州大学の1年生に今年なりました」

「私は、諏訪圭子(すわけいこ)と言います。昔は助産師をやっていたんだけれど、夫が学長になって、妻が働いているのは、世間体(せけんてい)が悪いって言うんで辞めてしまったけれど」

「世間体ですか?」

更紗達には、その感覚が良く分からなかった。


「それに、この顔でしょ?あまり表に出るなって。夫はあまり言わなかったんだけれど、義理の弟がうるさくてね」

「顔ですか?それって血管腫(けっかんしゅ)ですか?」


「そうね。小さい頃レーザー治療はしたのだけれど、結構大きくて、綺麗に直らなかったの。髪で隠すのも、お岩さんみたいで嫌なので、そのまま出しているのだけれど、人から避けられることも多いの。

近所の子供は、この家を『赤鬼の館』って言うのよ」

「ひどい!」

更紗は顔を真っ赤にして、我が事のように怒った。

「ありがとう。お二人のように綺麗なお顔をしていると、こういう差別を受けることはないんでしょうけれどね」


 紫苑が小さな声で言った。

「こんなもの皮一枚ですよ。今日も、ストーカーの被害を警察に届けに行ったんですから」

「あら、大変なのね」


 更紗はあることに気がついていた。

「あの。諏訪浩一郎って、知っていますか?」

「知っているも何も、義理の弟の息子よ」


あちゃー。


「すいません。今日私達がストーカーで訴えたの。甥御(おいご)さんでした」


 2人は肩をすくめたが、圭子は面白そうに笑い出した。

「また?あの子しょっちゅう女の子に手を出すのよ。いつも、親が金で解決するんだけれど。今回は警察まで行っちゃったのね。ざまあ見ろだわ。もしかして、更紗さんの手首の(あざ)って、浩一郎に(つか)まれて出来たの?申し訳ないわ」


更紗が、すっと手首を隠したが、既に遅かった。


「私に気にせず訴えてください。そろそろ学長選なんで、ライバルにとっては好材料よ。義弟は金をばらまいて、票を買っているみたいで嫌なのよ」

紫苑は会ったばかりの圭子の言葉を、額面どおり受け取ることが出来なかったが、更紗は彼女が気に入ったようだ。


「夫が長岡に帰らなければならない時間なので、今日はお(いとま)します。また、遊びに来てもいいですか?」

2人は立ち上がろうとしたが、圭子は名残惜(なごりお)しそうだった。

「まあ、あの車で、長岡まで帰るの?」

「はい。また来週、松本に来ます。ストーカー事案のことも心配ですし」


「あら、じゃあ、ご主人に、何か分かったらご連絡するわ。連絡先を教えてもらえるかしら」

「寮の電話番号でもいいですか」

圭子は、その言葉の真意を理解した。


「まあ、ご主人は用心深いのね。分かるわ。でもね、私も義弟に、この家を狙われているの。だからこそ、あの男の力を削ぎたいの」

「えー?この家の名義って、亡くなったご主人ですよね」


「違うの、この家は結婚を機に、私が親に貰ったものなので、名義は私にあるの。夫の財産って、あまりないのよ。だから遺産もほとんどないわ。あったとしても、私には娘もいるので、夫の遺産は義弟は渡らない。

ところが、義弟は、夫の葬儀の後から何度も家に来て、この家の売却を強制するのよね」

「お家を売却したら、圭子さんが住むところはなくなりますよね」

「ここにマンションを建てて、そこに住むように言うのよ。こんな広い家、1人じゃ管理が出来ないだろうって」


 紫苑は縁側越しに見える、涼しげな庭に視線を向けて、ぼそっと言った。

「こんないい家なのに、どうして壊そうなんて言うんだろう」

紫苑は、無残に流された自分の家を思い出していたのだ。

「マンションの管理は、私の代わりに義弟がやってくれるそうよ」

圭子が、吐き捨てるように言った。


 更紗がにっこり笑った。

「あのー。マンションの管理って大変ですよね。下宿の方が楽じゃありませんか?」

紫苑は、更紗の顔を見た。

「そういうことね」


更紗は更に続けた。

「私、寮にストーカーが入り込んできて、物騒なんで、引越しを考えていたんです。ここに下宿させていただくって出来ませんか?」


 圭子は、ニコニコ笑うカップルの顔を見た。義弟より、今日始めてあった若者のほうが信用できるというのは、不思議だった。

「あの、名刺をお渡ししていませんでしたね。私達、学生の傍ら、こういう仕事もしています」

2人の名刺には「『日経ウーマン++』特派員・モデル」と書かれていた。


「『日経ウーマン』って、女性用経済誌ですよね」

圭子も、助産師として働いていた時、愛読していた雑誌である。

「最近、読者層が替わってきたので、もう少し広い年代を対象にした『ライフスタイル誌』を作ることになり、ご縁があって、私と紫苑が、この雑誌の読者モデルとして働いているんです。企画や記事も書いています」


 紫苑は自分のスマホで、『日経ウーマン++』のページを開いて、2人の結婚式の記事を見せた。

「これは、お2人なのね?」

2人の姿は、ファッション誌やブライダル誌のような美しさだった。


 次に、紫苑がページをスクロールすると、茉莉と鉄次の写真が出てきた。

「はい、そして、こっちの(とし)()っているのが、(うち)の両親です。うちの母は、妊娠で結婚式も大学も諦めたので、この機会に式を挙げたんです」


 圭子の結婚式の時は、最後までベールを上げなかった。夫も家族も、自分の顔を招待客に見せたくなかったのだ。圭子には、夫と子供達に囲まれ、嬉しそうに笑っている茉莉が眩しかった。


「下宿の件は、今日決めて下さいというわけではありません。僕たちのことをもっと調べていただいてもいいですし、娘さんにも相談して下さい。娘さんって、遠くに住んでいらっしゃるんですか?」

「千葉県で、産婦人科をしているの。お2人は、百葉村にご自宅があるんでしょ?(うち)の娘はその隣町に住んでいるわ」

 

 紫苑は、詐欺師のように、決断を急がせる気はなかった。

しかし、更紗は自分の思いつきが嬉しくて、話をどんどん進めてしまう。

「ここに下宿させていただいたら、子供が生まれた後も、そのまま住んでいられそうですし、何と言っても、圭子さん、助産師さんで、子育て経験もあるんですよね。私、心強いなぁ」

 

 生まれたての赤ん坊と過ごす日々を考えると、圭子も楽しくなってきた。

「いいわね。朝夕お話ししながら食事もできるし、昼には赤ちゃんを預かってさしあげることもできるわ」

 紫苑はトントン拍子に話が進むことに、不安を抱きながらも、そのまま長岡に帰った。

 

 1週間後に紫苑が戻ってきた時には、更紗の引越し準備が既に整っていた。

なぜなら、圭子の娘は、蒔絵の主治医だった水野高子(みずのたかこ)産婦人科医だったからだ。

本作で使用されている固有名詞、個人名等は、すべて架空のものです。学長選に、お金が動いている事実も、全くありませんので、ご了承下さい。本当に、異世界ものにすれば、こんな心配ないんですけれど・・・。そう思う今日この頃です。

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