107 患者第1号は蒔絵です
4月。学校にも保育園にも、病院にも新しいメンバーがやってきた。
鮫島穂高先生もついに、新1年生の担任についた。
未来TEC本社移転に伴い、小中学校には転校生が増えたので、その分の教員補充が行われた。
小学校には補助教員が2学年に1人ずつ。中学には各学年に1人ずつ教員が補充された。
高校では、生物と地学、それに地歴公民と美術に教員が増員された。
新学期になっても机が並んでいる鮫島先生と田邊先生は、休憩時間にはいつも仲良く?話をしている。
「生物の先生が来てくれて、本当に助かりました。僕は物理で、専門外なんで苦労してたんですよ、こう見えて。だいたい、生物は中学の授業もあるから、授業時間も多くて大変でした。鮫島姉妹の勉強も見なければならなくて・・・」
「最後の1点は、高校教師と言うより、兄としての仕事だろう」と、突っ込みたかったが、田邊先生はそこには触れず、自分の話に繋げた。
「そうですね。僕も美術の先生が新しく来てくださったので、美術部の顧問から外れてほっとしています」
「美術部は、昨年まで山賀里帆しか部員がいなかっただろう」と鮫島先生は突っ込みたかったが、そこには触れず、本題に入った。
「ところで、今晩、消防団結成の話し合いがあるんですが、是非、田邊先生にも参加していただきたいんですが」
「そういう名前の、若手飲み会ですよね」
「いやー。保育士さんや新任の先生方は、皆さん、来たばかりで知り合いもいないので、未来TECの若手社員の皆さんもお呼びして、交流を深めているんですよ」
その新任の先生方の中には、生物と美術の女性教員も含まれている。田邊先生としては、美術の先生には産休に入ったりせずに、長く勤務を続けて貰いたいという、利己的な願いがあった。そこで、鮫島先生に釘を刺すことにした。
「看護師さんは呼ばないんですか?」
田邊先生は、鮫島先生が後閑佳美看護師と付き合っていることを知っている。
「看護師はなかなか忙しいので・・・」
「鮫島先生、モテ期はすぐ終わりますよ」
「そうですね」
振り返ると、二人の背後に、怖い顔の栗橋養護教諭が、春の健診計画の印刷物を持って、立っていた。
「担任が、いつも酒臭いと高校1年の生徒から苦情が来ています。鮫島先生、少しは自重してください」
鮫島穂高26歳、なかなか腹を括れない性格である。因みに、1回目の飲み会で、未来TECの相場結城を釣り上げた栗橋養護教諭は、それ以上飲み会に参加する必要性を感じていなかった。
鮫島穂高が新担任になったのに、ふらふらしているが、後閑美佳は、病院が開業したので、デートの機会もなく、イライラしていた。
未来テック百葉村立病院の記念すべき患者第1号は、鮫島蒔絵だった。
「こんにちは、水野先生からの紹介状を持ってきました」
開業初日、蒔絵は絹子と銀河と一緒に、未来テック百葉村立病院を訪れた。
「はい。初めまして。水野先生から話は聞いているよ」
後閑仁志医師は、60歳を少し回った小柄な先生だった。内診台での処置も優しく、蒔絵はかなり安心して診察を受けることが出来た。
「そろそろ妊娠6ヶ月だね。ほら、3Dエコーだと、もうお顔もはっきり見えているね。指も長いね?お父さんに似ているかも」
そう言われると銀河も身を乗り出して、画面を覗き込んだ。しかし、自分に似ているかどうかはよく分からなかった。
ただ、5本の指がしっかり動いているのを見ると、いつの間にか、涙がこみ上げてきた。
そんな銀河を見て、佳美は「子供ができれば穂高も変るかな」とふと考えた。
蒔絵も少し涙ぐんでいる。
「手が大きいね。銀河みたい。先生、性別はまだ分かりませんか?」
仁志医師は、蒔絵の希望に添って、エコーの角度を変えて探ってくれた。
「ちんちんらしいモノは見えないね。まあ、性器が見えれば男の子と断定できるけれど、女の子だという断定は難しいんだ。ちんちんが隠れているのか、ないのかはまだ判定がつかないね」
「あー。どっちでもいいです。義姉の子の服をそのままお下がりできるんで。義姉の子は、男女の双子なんです」
「良かったですね。蒔絵さん達は、お姉さんのところの赤ちゃんのお世話も少しはしたかな」
銀河と蒔絵は顔を見合わせた。
「半年くらい、私達ですべてお世話したんです。離乳食直前までお世話したんで、予習済みです」
普段あまりニコニコしない仁志医師は、「予習」という言葉に、笑いを堪えられなくなった。
「すべて」という言葉は、子供の誇張だと思って気にも留めなかった。
「『予習』ね。大切だ。最近は小さい赤ちゃんが身近にいないから、最初の子育てに若いお母さんは困ってしまうからね」
「私より、銀河の方が上手です。前抱き、後ろ負んぶで、双子の登下校もしたことがありますし・・・」
もう、仁志医師の腹筋は崩壊状態だった。
「産婦人科医はあまりニヤニヤしていると、嫌らしいと勘違いされる」と、学生時代に先輩から、たたき込まれた仁志医師は、普段はなるべくニヤつかないようにしているのだが、蒔絵の話があまりに突拍子もないので、笑いが堪えきれなくなった。
「すっすっ、すごいね。双子の登下校って、何?」
「まだ、百葉村に保育園が開設される前は、私達、教室にベビーベッドを置いて、双子の世話をしながら授業を受けさせて貰ったんです」
「義姉さんは、子育てできなかったの?」
「首都直下地震の後処理のため、東京から帰ってこられなかったんです」
仁志医師は、災害のために、普通の高校生にもしわ寄せが来ていることに、改めて気がついた。
仁志医師ほど、蒔絵達に同情しなかった佳美は、冷静な口調で蒔絵に話しかけた。
「4月から、保育園には保育士さんもたくさん入ったから、もう教室では赤ちゃんの世話をしなくていいんですよね」
「たくさん」という言葉にどこか棘があったが、蒔絵はそれに気づかず話を続けた。
「義姉の子供は、年明けには預かって貰えました。園長先生夫妻が、1月から保育室を開設してくれましたから。百葉LRTが開通する目処がついたので、そこから、保育士さんがたくさん来てくれるようになりました。
それに、4月からは、保育士さんも増えたので、土日も預かってもらえるんですよ」
「え?そこは詳しく教えて欲しいわ」
その情報は、佳美にとっては聞き捨てならなかった。
「土日の用事って、急に決まることが多いじゃないですか。だから、毎週3人待機しているんです。預ける理由なんて聞かれないんで、勉強するとか、町に買い物行くとかいう理由でも、預かってもらえるんです」
「じゃあ、預け放題じゃないですか」
蒔絵は涼しい顔をして答えた。
「そうですね。飲み会でも、生理痛でもいいんですよ。女の人だけが、飲み会に行けないって、おかしいですよね。私はお酒を飲む予定はないですが、生理の時、2日くらい動けないんで、助かります」
「土日も働くなんて、保育士さんは重労働じゃないですか」
「そうですか?週当りの勤務時間の上限が決まっているんで、そんなことないみたいですよ。園長さん夫婦だって、平日に家族旅行に行っていますから。それに、誰も来なくても、1日勤務のお金が、休日給のベースで出るんで、保育士の皆さん、争ってシフトを希望するそうです」
「夜は勿論預かってもらえませんよね」
看護師としては、夜勤も心配である。
「百葉村村民の保育料は、基本すべて無料ですけれど、夜間も、お金を払えば預かってもらえますよ。お泊まり出張とかあるじゃないですか」
仁志医師は、ふとカルテを見て、蒔絵に尋ねた。
「蒔絵ちゃんは修学旅行は何時だっけ?」
「修学旅行は9月なんですよね。産後1ヶ月くらいなので、私は産休中で行けないんです」
銀河が、小さな声で、「俺も育休で行きません」と呟いた。
「まさか、蒔絵ちゃん、時期がずれていたら、保育園に赤ちゃんを預けて、修学旅行に行くつもりだったの?」
「いいえ。時期がずれていたら、一緒に連れて行きますよ。うちのクラスの子達、赤ん坊が泣いたくらいじゃ、誰も文句言いませんから・・・」
銀河も深く頷いているのを見て、後閑父娘は、この2人が在学中に出産しようと決めた理由の一端を理解した。
「担任の先生は許してくれるの?」
「田邊先生だったら、『いいですよ』って言います。授業中、赤ちゃんのおむつも替えてくれたし」
「鮫島先生は、・・・?」
佳美としては、穂高の育児能力も確かめたかったが・・・。
「ああ、お兄ちゃんは無理です。頭固いし、人前で恥を掻くことはしたがらないタイプなんで」
銀河が懐かしそうに思い出し笑いをした。
「田邊先生、うんこがはみ出ちゃったオムツ開けて、授業中、『誰か手を貸してください』って叫んだことがあったよね」
「あー。穂高お兄ちゃんだったら、そのまま、オムツ閉じて、知らんぷりするよね」
蒔絵達が診察室を出た後、仁志医師は、佳美の顔色を伺った。
「穂高君は、あんまり子育てできそうにもないね。煮え切らないタイプみたいだし、他の人を探すか?」
「お父さん。家事に参加することなんて、最初から男の人に期待していません」
仁志医師は、娘の後ろから、刺すような視線で自分を睨む妻を見て、肩をすくめた。
佳美は、穂高より3歳年上で、今年の誕生日で29歳。えり好みしている暇はなかった。保育園が充実しているとの情報を聞いて、一層、決心が固まった。
首都圏では、スーツに抱っこ紐をつけて、子供の送迎するお父さんを見かけます。休日には、お父さん1人で2人くらい子供連れて、遊園地で遊んでいる姿も見かけます。それでも、妊娠中の苦しみは、女性1人で背負うモノなんですよね。